​タルト・タタンとミルクティー

​桔乃一三千

からんからんと、レトロな入店ベルが鳴ると同時に、和久井薫は入り口を見る。

営業スマイルと「いらっしゃいませ」の言葉は、もはや条件反射だ。

二人組の客の顔を見て、薫はすぐに一見さんだと気づいた。

常連客の多いこの店では、新規の客はすぐにわかる。

纏う空気が違うのだ。

それに馴染みの客たちはみな、気さくに挨拶とともに、自分の特等席を目指して、我先にと店内を闊歩する。

 

「当店は初めてでらっしゃいますか?」

 

確認の意味を込めて尋ねると、チェック柄のコートの一人が、華やかな声で応える。

 

「はい。口コミとウェブサイトを見て、どんなところか、ずっと来てみたかったんです!」

「ありがとうございます」

 

連れの赤いベレー帽をかぶったショートボブの人物は、興味深げにショーケースを見ている。

薫はメニュー表を片手に、ケーキの隣に並んだ。

 

「ご存じかと思われますが、当店は紅茶専門喫茶です。茶葉の原産国から直接仕入れたものだけを提供しております。本日は店内をご利用でしょうか?」

「はい」

「かしこまりました。ご案内いたします」

 

席数の少ない店内は、わざわざ見回さなくても空席を把握できるのが利点だ。

店内を見渡しやすいよう、窓際の席に二人を案内した薫は、「ようこそ、キャロルへ」とメニュー表を卓上へ広げた。

音が鳴らないよう、慎重に置かれたメニュー一覧に、きらきらとした二人の眼差しが注がれる。

しかし、すぐにその視線は不思議そうなものへと変わった。

 

「紅茶の種類は、選べないんですか?」

 

紅茶専門店を謳うキャロルでは、茶葉を選ぶことはできない。

たった一種類だけの紅茶を提供しているのだ。

個人の好みによって選べる方式も素晴らしいと思うが、自信を持って用立てる一品を、安心してお楽しみ頂くのが、キャロルの方針だった。

 

「当店では、紅茶は一種類しかお出ししておりません。しかし、選りすぐりの茶葉で、素敵なひと時をお手伝いすることをお約束します」

 

傲慢ともとれる薫の言葉に、二人は顔を見合わせ、くすくすと笑う。

今の状況を楽しんでいることが、よくわかる笑みだ。

ベレー帽の客の細い指が、メニューに書かれたケーキの名前の上を踊る。

 

「このキャロットケーキって、名前の通りニンジンのケーキですか?」

「はい。シンプルな名前ですが、英国伝統の、とても凝ったケーキです。レーズンとくるみの食感と、シナモンとナツメグの風味がお楽しみいただけます。上に乗ったチーズクリームの酸味が、ケーキの甘みを引き立ててくれます」

 

チェック柄のコートの裾から煌びやかなネイルで飾られた指が伸びる。

 

「このレモンドリズルケーキ? っていうのはどういうのですか?」

「ドリズルとは、霧雨や小雨のことです。口の中でほろほろと崩れる舌触りが、その名の由来となっております。レモンの皮をふんだんに使ったケーキに、レモンの果汁と砂糖のシロップを染み込ませて、表面にアイシングを施しております」

「へえ、そうなんだ!」

 

きゃっきゃっとはしゃぐ姿に、薫の表情も柔らかくなる。

素直にキャロルを楽しむ二人の姿勢は好感が持てるし、嬉しかった。

薫は店員の端くれに過ぎないが、キャロルという店を誇りに思っている。

気取った店とか、お高く留まっているとか、非難されることもあるシステムを、喜んでくれる客の存在は、薫の心を穏やかしてくれた。

 

「どっちも食べてみたいなあ」

「じゃあ、別なの頼んで、一口交換しよう。私はドリズルケーキにする」

「それじゃ、私はキャロットケーキで」

「かしこまりました。取り皿をご用意いたします。紅茶はホットになさいますか? それともアイスでご用意しましょうか?」

「私ホットで」

「私も」

「かしこまりました。淹れたてをご用意いたしますので、十分少々お待ちください」

 

薫が頭を下げてテーブルを離れると、二人はコートを脱いで店内を見物し始めた。

アンティークの大きな時計が三時を知らせ、古いレコードからクラシック音楽が流れている店内は、異国情緒たっぷりだ。

店主のこだわりが詰まった内装も、サービスも、そこから生まれる独特の、長閑でいてわくわくさせるような不思議な空気感も、薫のお気に入りだ。

 

キャロルの店主は、薫の父親である。

貿易商社に勤めていた父は、出張先のインドで飲んだ紅茶にすっかり惚れこんでしまい、あれよあれよという間に退職して、この店を建てた。

薫が十五歳の頃だった。

郊外にあるキャロルは、都会のカフェのような華やかさはないし、その独特のスタイルの影響もあって利益は出にくい。

一人分のティーポットで作られた紅茶、あるいはグラス一杯のアイスティーに、千円を支払うことができる客は多くないのだ。

それでも、キャロルは地域に根付いた。

今では近隣県からやってくる客だっている。

紅茶の品質と、元パティシエの母が作るケーキとの相性は抜群で、何度か雑誌にも取り上げられたことがある程だ。

肝心の名物店長は、今は海を渡った北インドにいるので紹介できないが、精一杯キャロルの魅力を、そして紅茶が秘めている真の妙味を伝えたい。

 

天然水を引いている蛇口からケトルにお湯を沸かし、一人用のポットを二つ、そしてカップを二つ用意する。

電気ポットのお湯をカップとポットに入れて、陶器を温めておく。

棚から取り出したケーキ皿に、ショーケースの中のケーキをトングで乗せる。

光沢のあるアイシングと、チーズクリームの香りが鼻孔を擽る。

ぶくぶくと水が沸騰する音が聞こえてきたら、コンロの火を止めて、ポットの中のお湯を捨てる。

それぞれのポットに茶葉を五グラムずついれたら、お湯を注いで、薫は砂時計をひっくり返した。

 

紅茶を淹れるのは、実はとても簡単だ。

茶葉とお湯を適量、ポットに淹れて、おおよそ八分待てばいい。

たったそれだけで、最高の紅茶が飲める。

もちろん、茶葉が良質であることは大前提。

 

無脂肪乳を少し大きめのミルクピッチャーに汲んで、砂時計のアイボリー色の砂が落ちたら完成だ。

先にケーキの皿をテーブルに運ぶ。

 

「お先にケーキをご用意しました。キャロットケーキと、レモンドリズルケーキです」

 

デコレーションネイルがキラキラしている客の前に、レモンドリズルケーキを。

ショートボブの人にはキャロットケーキを。

そして、小さな取り皿とナイフを置く。

 

「すぐにお飲み物をお持ちしますので、今しばらくお待ちください」

 

愛らしい歓声を受けながら、薫はお辞儀をして、素早く、しかしなるべく丁寧な所作で、ティーポットとカップ、ミルクピッチャー、そして茶こしと専用の容器を乗せたお盆を運ぶ。

 

「お待たせしました」

 

トレイの上でカップをソーサーに乗せて、二人の前に置いていく。

そして、コースターの上にポットを乗せる。

蓋をあけて、マドラーで簡単にかき混ぜたら、最初の一杯を実演がてら注いで見せる。

 

「当店の紅茶は、無脂肪乳とともにお出ししております。カップに、このくらい――」

 

薫は長髪の客の前に置いたカップに無脂肪乳を注いだ。

二人がカップを覗き込む。

 

「――あくまで目安ですが、このくらいのミルクを。そしてその上から紅茶で満たすのが当店流です」

 

茶こしをミルクに触れない程度の高さでカップの上に掲げ、片手でポットの中身を傾ける。

 

「あの――手で蓋を押さえたりしないんですか?」

 

ショートボブの方が控えめに片手をあげて質問をする頃には、伽羅色の液体でカップは満ちていた。

 

「当店の使用しているポットは、蓋が本体に引っかかるようにでっぱりがあります。当店ではこのでっぱりを、『へそ』と呼んでいます」

 

冗談めかした口調に、二人は噴き出した。

笑みをこぼしながら、長髪の方が訊ねる。

 

「茶こしがついてるポットは使わないんですか?」

「茶葉はポットの中で泳がせてこそ、独特のコクが出やすいのです。しかし、ポットの下の方に沈殿してしまうので、飲む前にこうして混ぜてあげるのです」

「へえ」

「あのう、お砂糖は?」

 

覗き込むようにこちらを見上げる客人に、薫はきっぱりと「お出ししておりません」と応じる。

 

「店主のこだわりのひとつなのです。しかし、砂糖に頼らずとも、十分美味しい紅茶が楽しめます。まずは一口、ご賞味ください」

 

もう一人のカップにミルクと紅茶を注ぎながら伝える。

二人は興味深げにカップの中で液体を回して、ほぼ同時に口を付けた。

 

「――うそ」

「――おいしい」

 

驚いて目を見張る二人に、薫は満面の笑みでお礼を言った。

 

「光栄です」

「こんなに美味しい紅茶、初めて飲んだ」

「私も」

「もったいないお言葉、ありがとうございます」

 

深々と頭を下げる薫に、明るい「ありがとうございます」が降ってきた。

今日の接客は成功だ。

二人に背を向けて薫が小さくを手を握りしめたところで、入店ベルが鳴った。

脊髄反射で振り向いた薫は、締まりのない表情になってしまうのを押さえることができなかった。

 

「――カシマさん」

「やあ、薫くん」

 

広い額を隠しもしないアップバンクに、質のよさそうな深いグレーのジャケット。

爽やかな白いシャツが似合う彼は、キャロルの常連の一人だ。

厳めしい顔つきをしていて、いつもむずかしそうな本を読んでいるので、交わす言葉が多い訳ではないが、店で顔を合わせるようになってかれこれ五年は経つ。

おおむね、日曜日のおやつ時にやってきて、閉店間際まで読書に没頭して帰る。

紅茶が好きなのか、ここで過ごす時間が好きなのか、聞いてみたことはないのでわからないけれど、後者だったらよいのにと、薫は夢想する。

当たり前のような顔つきでカウンター席の椅子を引いたカシマは、ショルダーバッグから本を引っ張り出した。

 

「いらっしゃいませ。いつものご用意でよろしいですか?」

「よろしく」

「かしこまりました」

「君はいつもか仰々しいねえ」

「――キャロルの名に恥じない振る舞いを心がけているだけです。ここは小さな英国ですから」

「英国紳士ってやつだね」

 

愛想笑い一つしないカシマだが、今日は調子が悪くなさそうだ。

表情に乏しいカシマの機微を読むのが、薫の趣味のひとつである。

 

アイスティー、ミルクは多め。

そしてプレーンと日替わりのスコーンを盛り付けた皿を運ぶ。

 

「本日の日替わりスコーンは、クランベリーが練り込んであります。ごゆっくりお楽しみください」

 

カシマは相変わらず抑揚のない声で「ありがとう」と言う。

簡潔な感謝の言葉は、誰の口からきいても嬉しい。

しかし、カシマの落ち着いた声が紡ぎ出す言葉は、どんなものでも薫を喜ばせる。

 

「今日は何を読まれるんですか?」

「最近買ったミステリー小説だよ」

 

カシマが分厚いペーパーバックの表紙をこちらに見せる。

薫は首を傾けてタイトルを読み上げる。

 

「Death by Tarte――?」

「タタンだよ。タルト・タタン。聞いたことあるかい?」

「寡聞にして」

「本当に無知な人間は、『寡聞にして』なんて言わないよ」

 

諭すような、揶揄うような、不思議な口調だ。

声色のせいかもしれないが、不快感はまったくない。

 

「タルト・タタンはフランスの伝統菓子だよ。このタイトルを僕流に和訳するなら、『タルト・タタンは死を招く』、なんてどうだろう」

「趣はありそうですが、少々物騒ですね」

「ミステリー小説だからね」

 

紙の束から繊細な作りの栞を抜き取ったカシマは、きっと読書に夢中になる。

自分の仕事に戻ろうとする薫の後ろ髪を、カシマの悠々たる声が撫でる。

 

「日本ではあまり見ないけどね」

 

振り返ると、カシマは表紙のイラストを無骨な指で撫でていた。

 

「――タルト・タタン、ですか?」

 

言われてみれば、元パティシエの母の口からも、あまり聞かない名前だった。

カシマは頷いて、目を細めた。

 

「時間も、手間も、お金もかかる。とても贅沢な焼き菓子なんだよ。この辺のパティスリーではなかなか出会えないんだ」

「――お好きなんですね、タルト・タタン」

 

熟しすぎて、今にもとろけてしまいそうな果実を思わせる瞳から、逃げるように目をそらした。

胸の奥が苦しくなるような錯覚に、薫は首をかしげる。

 

「――好きだよ。とっても」

 

カシマの顔色を伺うと、今にも火照ってしまいそうなほどの熱視線が、薫に注がれていた。

めまいがしそうだった。

カランと氷が音を立てて、カシマがおかしそうに口を開く。

 

「意外だった? 僕が甘党なのは、もう随分前から知ってたと思ったんだけど」

「――そうでしたね。失礼しました」

 

慌てて取り繕う薫を、カシマは責めなかった。

ただ、くすぶるような熱だけが、薫の中に残った。

 

それから新規客とカシマを見送り、閉店作業を済ませて帰宅するまでの間、薫はずっとカシマの熱い眼差しのことを思っては振り払ってを繰り返した。

おかげで、ゴミを捨て忘れたり、鍵を閉め忘れるなど、ミスを連発してしまうほどには、注意力が散漫だった。

薫の脳髄すら溶かしてしまうほどの熱が一度思い出されると、両肩を抱いてその場にうずくまってしまいたい衝動に駆られる。

大声をあげて、走り出したい気すら湧いてくる。

 

ぼんやりとしたまま味のわからない夕食をとり、夢見心地のまま皿を洗う。

 

「薫、手元見たほうがいいよ。怪我するから」

「うん」

 

母親の忠告すら耳に入らず、上の空で返事をする。

 

「珍しいね。カシマさんとなにかあった?」

「――?!」

 

驚いてシンクに滑り落としたマグカップが、鈍いような軽いような、よくわからない不安定な音を立てる。

 

「怪我してない? 大丈夫?」

 

ぱたぱたと駆け寄ってくる母親に「――大丈夫、割ってないし、切ってもいないよ」と早口で告げて、首をかしげた。

 

「どうしてカシマさんが出てくるのさ」

 

何かを弁解するような後ろめたさを覚えつつも、なにが後ろ暗いのかわからない。

自らの状態に困惑しているうちに、母――渚はやれやれ、とため息をついた。

 

「薫さ、昔っからカシマさんのこと好きだよね」

「そりゃ――好きだよ。お客さんだし」

「そういうことじゃないんだけどね――ま、薫が鈍いのは今に始まったことじゃないか。お母さんは気長だから安心しな。カシマさんはわからないけど」

「だから――」

 

なぜかムキになって追求しようと開いた口から、たった今ひらめいた菓子の名前が飛び出した。

 

「――タルト・タタン」

「タルト・タタン? フランスのお菓子だよね? それがどうしたの?」

 

元パティシエの母を持つことを、今日ほど感謝した日はない。

薫は泡だらけのまま、渚の手を掴んだ。

 

クールで沈着としたカシマが、熱望する菓子。

どんな味なのだろう。

どんな手順なのだろう。

本物を目の当たりにした際、カシマはどんな顔を見せるのだろう。

 

「タルト・タタンが作りたい」

 

渚は、大きな瞳をこれまでにないほど見開いて、素っ頓狂な声を上げた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

三日後。

 

「届いた――ッ!」

 

配達員から受け取った箱はずっしりとしているが、三キロ前後なので持ち歩けないわけじゃない。

ダイニングテーブルの上に乗せたダンボールを、カッターを使って開くと、つややかなリンゴがぎっしりと詰まっていた。

 

「これ、かなりいいリンゴじゃない? 加工用買えばよかったのに」

「加工用は五キロからしか買えなかったんだよ。そんなに食べきれないし」

「そういうことなら、仕方ないね」

 

葉とらずサンフジリンゴは真っ赤というわけではない。

ところどころ黄緑色をしているけれど、皮を剥く前から芳醇な香りが漂っている。

リンゴと言えば、幼い頃に母が切ってくれた、塩水に付けたほのかにしょっぱいものを連想してしまうけれど、これは匂いからして別物だ。

 

感心している薫の耳に、心配そうな渚の声が届く。

 

「薫、お菓子なんてあんまり作ったこと無いでしょ? 私が手伝うとは言え、お菓子作りは集中力も体力も要るんだよ? 大丈夫?」

 

薫は胸を二度叩いて答えた。

 

「大丈夫! 体力だけは自信あるから!」

「何言ってるの。薫は顔も性格も素敵だから。全部に自信持って」

「そうするよ」

 

冗談を言い合いながら、リンゴに包丁を当てた。

先に四等分してから、皮を剥いていく。

そこそこ料理はするけれど、じゃがいもの皮だってピーラーで剥いているのだ。

そつなく剥けるわけじゃない。

見かねた渚が別の包丁を取り出して、剥くのを手伝ってくれた。

 

器用な渚の手付きに急かされるように、一生懸命になって皮を剥く。

ボウルに入れて重さを量り、九〇〇グラムの山を二つ作ったころには、二十分ほどすでに経過していた。

 

「じゃ、私はこれからタルト生地を作るから。リンゴは焦げないように気をつけてね」

「了解」

 

薫は鍋底が二十センチ前後の鍋を二つ取り出して、それぞれにバター三〇グラムと砂糖九〇グラムを入れる。

そして、四等分してあるリンゴを鍋に立てるようにして敷き詰めていき、中火にかける。

 

そこからはひたすら、監視だ。

三十分の間、リンゴと鍋底を焦がさないようにひたすら見守っていく。

途中底が茶色くなってしまったら、水を少々追加して弱火にする。

 

背後からは、フードプロセッサーがけたたましい音を鳴らしているけれど、それどころではなかった。

重労働ではないが、慣れないお菓子作りで一瞬たりとも目が離せない。

 

タイマーが鳴ったら、リンゴをひっくり返す。

リンゴを煮る際、煮崩れさせないためには、混ぜない方がいいらしい。

だから、鍋いっぱいに敷き詰めるようにリンゴを立てるが良いそうだ。

さらに二十五分煮込んでいると、砂糖とバターが織りなす甘い香りと、リンゴそのものが熱で発する匂いが強くなってきた。

嗅覚で幸せを満喫している薫の背中を、渚がぽんと叩く。

 

「タルト生地、冷蔵庫で冷やしておくね」

「もうできたの?!」

「パティシエ舐めてもらっちゃ困る」

 

からからと笑った渚は、余ったリンゴを切って、一口ほおばっていた。

 

「おいしいー! リンゴの概念変わる!」

「そんなに?」

「本当だって。ほら、薫も食べてみて」

 

勧められるままにかじったリンゴのあまりのみずみずしさに、薫は驚いた。

 

「ね? おいしいでしょ」

「おいしい」

 

結局、薫はリンゴの四分の三を一人で平らげた。

それほどに美味しかったのだ。

 

リンゴが煮詰まったら、今度はケーキ型の登場だ。

直径十五センチの方にクッキングシートを敷き、リンゴを一切れずつ並べていく。

このときの並べ方が見栄えに関わってくるので、慎重に配置しなければならない。

しかし、量が多くて、全てを詰めることはできない。

やむなしに上に乗せるなどの工夫をして、鍋の底に残った煮汁すら型に流し入れていく。

 

「あ、オーブンの予熱」

「私がしておきました」

「さんきゅ、母さん」

 

百八十度にあたためておいたオーブンで、一時間ほど焼く。

小一時間煮ているリンゴを更に焼くのだから、面白い工程だなと思う。

 

「それにしても、複雑なレシピ持ってきたよね、薫。簡易版みたいなレシピだって、ネットなら山程手に入るのに」

「だって、イラストのタルト・タタンと違ったんだもん」

「そりゃイラストだもの、多少は違うでしょ」

「そうじゃないんだよ。厚みというか、高さかな? レシピ投稿サイトのじゃ全然違うんだ。リンゴが詰まってないと意味ない」

「こだわるときはとことん拘るんだから」

 

渚が入れてくれたアイスティーを一口飲む。

苦味やえぐみのほとんどない、純粋な紅茶だ。

 

「母さんと父さんに似たのかな」

「確かに。私達似た者夫婦だからね」

 

他愛もない話をしたり、軽食をつまんだりしているうちに、オーブンが焼き上がりを知らせてくれた。

トレイごと取り出して、粗熱を取る。

 

「これ、こんなにこんもりしてていいのかな」

「大丈夫。縮むから」

 

十五分後、渚の言う通り、リンゴは少し萎んでいた。

上に乗っていたリンゴを隙間に差し込んだら、タルト生地の登場だ。

伸ばしてフォークで穴を数カ所開けたら、リンゴの上に隙間をなくすように、少し圧迫するようにかぶせていく。

そして、百八十度のオーブンで、更に四十分焼く。

 

「本当に手間かかるんだな、タルト・タタン」

「そう。一日仕事なうえ、原価も高いでから、ケーキ屋ではほとんど扱わないね」

 

使った調理器具を洗う薫の代わりに、渚がオーブンの見張りに立つ。

渚のおどけた調子の鼻歌を聞きながら、薫はタルト・タタンの出来上がりを空想する。

そして、それを見たカシマの驚きの眼差しを想像してみる。

沈着としたあの人と驚かすことができたら、どれだけ楽しいだろう。

 

思わず笑みを浮かべていると、渚が薫の脇をつついた。

 

「ねえ、そろそろ教えてよ」

「何を?」

「決まってるでしょ、タルト・タタン作りたい理由!」

 

言われてみて、薫は困ってしまった。

それらしい合理的な動機が見つけられなかったからだ。

きっかっこそあったものの、タルト・タタンを作るに至ったのは、ほとんど衝動だ。

明確な根拠も、理屈もない。

ただがむしゃらに、作りたい――否、作らねばと思った。

たったそれだけのことなのだ。

 

「――わからないや」

「は?」

「わからないけど、作りたかったんだよ」

「はあー、昔から不思議ちゃんぽいなあとは思ってたけど、本当に天然だったんだね、薫は」

 

ムッとして、肘で渚の肩を押すが、渚はさほどひるまなかった。

 

「でもさ、食べたかったわけじゃないでしょ。薫、甘いものそんなに好きじゃないし」

 

はたと、薫は手を止めた。

そのとおりだ。

薫は幼少期から甘い菓子が得意ではなく、母の作った洋菓子などは胸焼けしてしまってほとんど食べられなかったのだ。

好んだのは、ゼリーやババロアなどの、ぷるんとした食感の、後味が爽やかなものばかり。

にもかかわらず、どうしてこれほどまでに切迫した心持ちで、タルト・タタンを求めていたのだろう。

 

「言われてみれば」

「でしょ?」

 

得意げな渚が、何かを閃いたように両手を叩いた。

 

「食べてほしいんだ?」

「え?」

「食べたいんじゃなくて、薫はきっと食べてほしいんじゃない?」

 

渚の言葉が、胸にすとんと落ちてくる。

食べてほしい。

朧気ではあるものの、道標が見えたような、そんな気持ちだ。

けれど、どこか完全でないような気もする。

それだけでは説明しきれないような。

否、してはいけないような。

 

薫が考え込んでいる間に、渚がオーブンの扉を開けた。

まだタイマーがなる前だったけれど、取り出されたタルト生地はきれいな焼き色がついていて、香ばしい香りが漂っている。

 

「で、これを冷蔵庫で一晩冷やす!」

「うまく型から外せるかな」

「それはやってみてのお楽しみだね」

 

薫が右手を上げると、渚がぱんっと小気味良い音を立てて、左の手のひらを重ねた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

十五時を回った頃、カランと入店ベルを鳴らして、カシマがやってきた。

珍しく閑古鳥の鳴いている店内を見回したカシマは、いつもの通り、乙張りに乏しい声で薫に呼びかける。

 

「やあ、薫くん」

「いらっしゃいませ」

 

頭を下げた薫が、カシマの特等席になっているカウンターの椅子を引く。

きょとんとした表情がどこか幼く見えて、薫の笑顔は自然なものになる。

 

「今日は、カシマ様に見てほしいものがあります。どうぞ、おかけになってください」

 

目を瞬かせたカシマが、おずおずと着席する。

薫は気持ち足早にカウンターキッチンに入ると、冷蔵庫から丸皿に乗った直径十五センチの型を取り出した。

カシマのカウンター越しの眼差しを感じながらラップを外し、はみ出ているオーブンシートを抜き取って、型を丸皿にかぶせた。

ひっくり返すと、皿の底にずしりと重みが生まれる。

ゆっくりと型を持ち上げ、表面のオーブンシートを剥がすと薄紅色のリンゴが姿を表した。

 

「これは――」

 

包丁でゆっくりと二等分にして、右半分を更に三分の一に。

アンティークの皿に盛り付け、サワークリームを添えれば、完成だ。

グラスに透明な氷を並々入れて、アイスティーを注ぐことも忘れない。

 

「タルト・タタンです。ご賞味ください」

 

顔を上げると、戸惑っているような、どこか困っているような、複雑な表情でケーキを見つめていた。

こころなしか険しくなっていく面持ちに、薫は「ご迷惑――でしたか」と恐る恐る声をかける。

カシマは素早く手を振って否定した。

 

「違う。違うんだ――ただ、ちょっと整理がつかないんだ」

「整理――ですか」

 

肘をついて口元を覆うカシマの、むき出しの耳が、ほのかに赤い。

暖房が利きすぎているのだろうか。

後で温度を下げておこうと、薫は頭の片隅で思った。

 

居心地の悪い沈黙を破ったのは、小さくうなずいたカシマだった。

 

「どういうつもりで、これを?」

「どういう――?」

「いや、聞き方が悪かったね。君がどういう意図でこれを用意してくれたのかが知りたいんだ。そうじゃないと、誤爆してしまいそうで怖い」

「誤爆――」

 

言葉の端々に、理解の及ばないものを感じながら、薫は首をかしげた。

渚といい、カシマといい、なぜそこまで、薫の心情にこだわるのだろう。

作りたいから、衝動の赴くままに作った。

それでは駄目なのだろうか。

 

辟易している薫をよそに、カシマはアイスティーのグラスにミルクを入れて、ストローで混ぜ始めた。

一口飲んで深く、細く息を吐いたカシマは、薫の目を見て口を開いた。

 

「はじめて僕がこの店に来た日のことを、君は覚えてる?」

 

よく覚えている。

あれは、夏の日だった。

店の前でうずくまっていたカシマを、当時アルバイト店員だった薫が店で介抱したのだ。

 

「あのとき、僕はとある大きな会社の営業をしていてね。そこはかなりのブラック企業だったんだ。営業成績がよくないと、叩かれた。僕はたまたま成績が悪い方ではなかったんだけど、それでも厳しく指導されたよ。一日四時間眠れればいい方。月の残業は四十時間を超えて当たり前。食事の時間もない。毎日追い立てられるように営業先に行って、へとへとになって帰社したら事務作業の山。正直疲れていたんだ。デートの時間が作れないから、パートナーにも捨てられた。付き合ってる理由がないって、怒らせてばかりだったもの、当然だ。そこに、あの酷暑だっただろう? 限界だったんだよ。身も心も」

 

カシマの筋くれたった指が、ストローで氷をつつく。

 

「たぶん、軽度の熱中症だったんだろうね。吐き気で蹲っている僕に、声をかけてくれたのが君だ。あのとき、僕は本当に――驚いたんだ。太陽の光を浴びている君が、王子様みたいだった」

「そんな――」

「その時の僕といえば、それはひどい顔をしていたと思うんだよ。目の下のくまもひどいし、かろうじて髭は剃っていたけど――仮にも営業マンだからね――でも、悲惨だったと思う。そんな僕に、君は言ってくれただろう。『休んでいきませんか』って」

 

カシマの瞳が、今とは違う時間を懐かしむように解けていく。

その様子に、胸の奥が騒ぐような気がした。

落ち着かない胸中を知ってか知らずか、カシマは追憶に夢中だ。

 

「僕はね、紅茶は苦手だったんだ。どこで飲んでも、何を飲んでも、美味しくないと思っていた。でも、君が出してくれたアイスティーは違った」

「日本の紅茶の質は、お世辞にも良いとは言えませんからね」

「あの時も、そう言っていたね」

「日本のメーカーの多くは、茶葉の生産国の人たちに敬意を払っていません。安い金額しか提示しない。だから、現地の人が飲まない『ダスト』と呼ばれる茶葉しか売ってもらえないんです。そのため、えぐみがひどい」

 

ミルクティーを吸ったカシマは、グラスを置いて、カウンターテーブルの上に腕を組んだ。

痩せた頬が緩んでいる。

 

「君は、日本の紅茶を変えたいって言ってたね。熱心に語る君は、本当にキラキラしていて、眩しかった。僕はね、会社を辞めたよ。ただ無為に過ごすんじゃなくて、新しいことに挑戦したくなった。今は別の会社で、Webデザイナーをしている。一から勉強したんだ――君の夢を、何か手伝えないかと思って」

 

間抜けな声が出そうになるのを、薫はすんでのところで飲み込んだ。

代わりに、取り繕った言葉を紡ぎ出す。

 

「あれは――若気の至りです」

「僕は取り柄なんてほとんどない人間だけど、人を見る目は確かなんだ。あの頃の君は、本気だったように見えた」

「大言壮語です」

「――いや、今の伝え方はずるかったね。言い直させてくれ」

 

カシマは両手で顔を覆って、自らの頬を叩いた。

あまりに力強い音に驚愕する薫を、カシマはまっすぐに見据えた。

 

「僕はね――君に惚れてるんだ」

 

アンティークの時計の秒針と、ピアノの旋律。

氷が崩れてグラスを叩く音。

そして、薫の体内で、騒ぎ立てる鼓動。

 

「君の夢に、じゃない。紅茶にでもない。君に、僕は惚れている。あの日声をかけてくれた時から、ずっと」

 

みるみるうちに、顔中に熱が集まっていく。

 

「僕はさっきも言った通り、取り柄のないただのおじさんだ。君にはもっと若くて、いい人がいるとわかっているのに、なのに――だから、ずっと隠しておこうと思っていたのに――」

 

カシマの切れ長の瞳が、くしゃりと歪む。

沸騰してしまいそうな頭は、この期に呼んで状況を理解した。

 

好きだよ――。

カシマがその一言に込めた、思い。

タルト・タタンが――では、なかった。

 

「だから、こんな――特別扱いされてしまうと、僕は勘違いしてしまいそうで怖いんだ。君に他意がないことは分かっているのに。ただの常連客との戯れだって――」

「違うッ」

 

薫は声を張り上げた。

霧が晴れていくようにすっきりとした心で、クリアになっていく思いを、急いで伝えなければならないと思った。

まっすぐに届けたいと思った。

そのために、格式ばった言葉が邪魔だった。

 

「あなたが好きです!」

 

小さな店内に響いた言葉に、口を噤んだカシマの手を掴んだ。

 

「いつからとか、理由とか、わからない。でも、あなたが――カシマさんが好き。週末に会えるのが、いつも楽しみだった。あなたの喜ぶ顔が見たかった。俺は甘いものは得意じゃないけど、カシマさんが好きなら、作りたいと思った。だって――作ってる間、ずっとカシマさんのことばかり考えてた」

「ほんとうに――?」

「嘘じゃない。気づいたのはたった今だけど。俺、天然らしいから」

「それは――本当にそうだと思う」

 

大真面目な薫を置き去りにして、カシマはくすりと笑った。

小さな笑みだけれど、かわいいと思った。

今すぐに抱きしめたい衝動を堪えて、カシマの手のひらを両手で握りしめる。

 

「素の俺はこんな子どもみたいな奴だけど。英国紳士じゃないし、王子様にもほど遠いけど。それでもカシマさんは好き? 好きになってくれる?」

 

カシマが目を細める。

その熱を孕んだ眼差しが、間違いなく自分に注がれていることが、嬉しくてたまらなかった。

 

「カッコつけてなくても、薫くんは僕の王子様だよ」

「カシマさん――」

「順平って言うんだ。椛島順平」

「順平さん」

 

(ああ、そっか)

 

薫はようやく腑に落ちた。

妬いていたのだ、よりによってケーキに。

その好意を独り占めしている、タルト・タタンに。

実はその思いが、ひそかに自分に向けられているとは、露とも思わずに。

 

「――食べてよ、タルト・タタン。順平さんのために焼いたから」

「そうだね。頂くよ」

 

順平の右手を介抱した薫は、キッチンからホールに出て、順平の隣に立つ。

じっくり煮込んだ柔らかい果肉に、フォークが食い込んだ。

さくっと音を立てて割られたタルト生地と、薄紅色のリンゴが、順平の口の中に消えていく。

 

「――美味しいよ。リンゴのおいしさが凝縮しているね」

「良かった。初めて作ったから心配だったんだ」

「君も、一口食べるかい? 僕一人では、こんなに食べ切れないし、とっても美味しいから。君にも食べてほしい。紅茶も、僕がごちそうするから」

「純平さんが、そう言うなら」

 

カウンターに戻って、残ったタルト・タタンにフォークを立てる。

柔らかく煮込まれたリンゴは、すっとフォークを飲み込み、タルト生地で止まる。

底から力を込めて、生地を割ると、一口大になったケーキを傾けるようにしてフォークに乗せた。

 

「いただきます」

「僕が言うのも変だけど、召し上がれ」

 

頬張った瞬間に、リンゴは下の上で蕩けた。

タルト生地はさくさくとしていて、柔らかいリンゴと違う食感がアクセントになっていた。

この味なら、アイスティーとの相性も悪くない。

コストパフォーマンスを考えると定番にはできないけれど、季節の商品としてメニューに加えるのもいいかもしれない。

 

「初めて食べるので、比較対象が無いからわからないけれど」

「上出来だよ。甘党の僕が保証する」

「めっちゃ甘い」

 

渋い顔をしてみせる薫に、順平が思い出したように笑った。

 

「そっか、甘いもの苦手だものね」

Fin.