ノーサイレンス
セクマイWebアンソロジー
ミュラー=トゥルガウの夜
桔乃一三千
挿絵:衣藤
「アンガス牛のステーキでございます」
差し出された皿には、赤みの残った牛肉が、一口大にカットされている。
しかし、それをさらに小さくナイフとフォークで切り分けた。
マナーなどを気にするような高級志向の店ではないが、そのほうが上品に見えることは知っていた。
ソースはない。
塩、マスタード、わさびが添えつけられている。
塩を少しだけ肉に纏わせ、大きく口を開けてかぶりつく。
柔らかく、しかし弾力のあるステーキだ。
濃厚な肉の風味を塩が引き立ててくれる。
肉をしっかりと味わって飲み込むと、すかさずワイングラスを手に取った。
カベルネ・ソーヴィニヨンの芳醇な香りを鼻先で楽しみ、一口。
甘みと、酸味、そしてほのかな渋みが口の中に広がる。
ワインと名のつくものであれば、詳しくなくとも、どれでも美味しくいただける自信があったが、カベルネ・ソーヴィニヨンは特に好きなぶどうの品種だった。
完璧だ。
料理も、お酒も、どれも申し分ない。
こんな素晴らしい夜なのに、ただ一つだけ、足りないものがある。
「――どうしてフラれたんだろう」
工藤晴(くどうはる)はグラスを置くと、深くため息をついた。
実は今宵、晴は二人で席を予約していた。
マッチングアプリで出会った女性と初めてのデートだった。
相手と気が合いそうだったら必ず立ち寄れるよう、贔屓の店を予約しておいたのだが。
残念なことに、相手の方が、晴という人間をお気に召さなかったらしい。
晴はレズビアンである。
といってもそれを自覚したのは、つい最近のことだ。
それ以前は、男性が自分に示す恋愛感情に抵抗があったが、一過性のもので、いずれ気に入る人がいれば結婚して妊娠、出産を経験し、孫に恵まれた生活をおくるのだと信じて疑っていなかった。
ところが、大学を卒業し、社会人六年目を迎えた4月。
尊敬していた女性の先輩社員とカラオケボックスに入り、ソファに押し倒されたとき、晴は気がついた。
男性が相手のときとは異なり、胸の高鳴りを覚える自分に。
先輩とは一夜限りの関係となってしまったが、その日以来、晴は本当の自分を取り戻した。
取り戻すと言うと大げさかもしれないが、これまで信じ込んでいた常識が反転し、なお心地よさを覚えた以上、潔く認める他ない。
晴はこちら側の人間なのだ。
矢も盾もたまらず、インターネットを頼りに、晴はセクシュアル・マイノリティについて調べた。
調査する内、この世には多様なセクシュアリティがあるということ、そして、自分がレズビアンに該当することを知った。
更に、レズビアン界では、女性を大きく二分割する見方が主流であることも学んだ。
ボイと、フェムだ。
ボイとはメイクをしなかったり、ヘアスタイルをショートカットにしているなど、男性的あるいは少年的な外見をしている人の事を言う。
反対にフェムは、花がらのワンピースやスカートを愛好し、柔らかい雰囲気を持った女性的あるいは少女的な外見の女性を指すらしい。
中には見た目以上の役割を求める声もあるそうだが、基本的には装いを指す言葉として浸透しているらしかった。
調べながら、晴は己はボイであると確信した。
実際晴は髪型もツーブロックだし、ピアスも多めに開けている。
IT系の企業に勤めていることから、髪型や服装は自由なことが多く、派手な柄のシャツなどを好んでいた。
だから、ボイというカテゴリーは自然に自分になじんでいると素直に思った。
そして交際するならば、断然フェムの女性が相応しい。
晴は以来、マッチングアプリを介して、フェム外見でなおかつ好みに合う女性を探すようになった。
しかし、一筋縄ではいかなかった。
レズビアン界は、ボイならばフェムにモテるというような、簡単な構図ではなかったらしい。
晴は今日の一人を含め、既に三人の女性に肘鉄砲を食らっている。
最初はアパレルショップの店員さんだった。
派手すぎずお淑やかな空気が好みでメッセージを送り、相手も自分の外見を気に入ってくれたのか返事をくれた。
けれど初デートの日、二時間過ぎても、彼女は待ち合わせ場所に現れなかった。
連絡を入れてみても、音沙汰はない。
失恋したのだと理解するまで、晴は呆然とその場に佇んでいた。
二人目の相手は大手カフェチェーンの店員だった。
明るく気さくでコミュニケーション能力が高いうえ、気配りが大変上手で、メッセージのやりとりは百件を軽く超えたほどだった。
そして何度か二人はデートを繰り返し、いざ告白にいたろうとしたところで、彼女の方から「もう会えない」と言われてしまった。
どうやら他にも進展していた相手がアプリ上に居たらしく、話しぶりから察するに、晴のことは二番手として扱っていたらしい。
その日も、晴は一人で静かに泣いた。
そして三人目。
彼女は市役所で職員をしているとのことだった。
髪型はボブだが清潔感のある人で、窓口対応などがいかにも得意そうで、真面目さと気立ての良さが外見からにじみ出ていた。
短いやり取りでデートにこぎつけたものの、結果は御存知の通り。
ランチをしてから水族館に行き、散歩をしてディナーに誘うというプランだったのだが、散歩中に「晴さんとは、ずっと友達でいたいなあ」と言われてしまった。
言外に、恋人なんてもってのほか、ということだろう。
晴は打ちひしがれながら、予約した店に一人でやってきたというわけだ。
なぜだろう。
なぜ、こうも失恋ばかりするのだろう。
晴は先程まで恋人候補だった女性のコメントを反芻する。
――晴さんて、一見クールっぽいのに、結構おしゃべりだよね。
クールっぽい。
そうなのだろうか。
晴はグラスに映る自分の姿を見て、小首をかしげた。
クールかどうかなど、自分ではわからない。
晴が知る限り、晴は晴だ。
他人にどんな印象を抱かれているのかなど、客観的に想像はできない。
親しい友人たちにはよく「面白い人」と言われるのだが、自分としてさほど愉快なことを言った覚えはないから、参考にもならなかった。
「おしゃべり、かあ」
両指を組んでため息を付いた晴に、予期せず返答があった。
「まあ、工藤様はおしゃべりですね」
顔を上げると、馴染みの店員がチェイサーに水を注ぎ足していた。
晴は少しだけむきになって問いかける。
「どこが?」
「失恋歴を一人でぼやいてるところです」
「立ち聞きしたな?!」
「独り言とは思えない大声でしたので、耳に入っただけです」
「いいじゃん、他に客いないんだから!」
「営業妨害ってお言葉をご存知ですか?」
「相変わらず減らず口!」

軽くテーブルを叩くと、表情に乏しいスタッフは「光栄です」と会釈した。
その飄々とした様子が、一際晴の神経を逆なでする。
一ノ瀬と名札をつけた彼女は、ベリーショートの髪型に、少し眠たそうなまぶたが特徴のソムリエールだ。
化粧っ気も薄いし、いつも冷静で無表情。
笑った顔は、一度も見たことがなかった。
客商売としてどうなんだ、と思うのだが、ソムリエールとしての腕は驚くほど優秀なのだ。
そのため、彼女の接客目当ての客も実は多いらしい。
確かに、ボイかフェムかで言えば、ボイに該当しそうな一ノ瀬の済ました横顔は、整っている部類だ。
しかし、晴の好みのタイプではない。
晴の理想の女性は、笑顔が可愛い人だ。
その意味で、愛想のない一ノ瀬のような女性は対象外だった。
気取らない店のムードと内装、郊外の立地から、隠れ家的に利用を続けている内、一ノ瀬はいつの間にか平気で軽口を叩くようになった。
店のシェフでもある彼女の父親によると、心を開いている証なのだという。
これからも仲良くしてやってほしいと頭を下げられてしまえば、邪険にもできない。
それに何より、この店で彼女が勧めるワインは、いつも晴の心にやすらぎを与えるものばかりだ。
料理だって他の追随を許さないほど美味しい。
多少スタッフが無愛想だったところで、通わないという選択肢は晴の中になかった。
だから大事なデートの日は、いつもこの店を利用することに決めていた――決めていたのだが。
晴は腹に凝った鬱憤を晴らすように、「さっさと料理持ってきて!」と一ノ瀬を急かす。
一ノ瀬は表情一つ変えず、「オーダーされた品はすべて提供済みですが」と告げた。
「これから頼むところだったんだよ! ――ムール貝のワイン蒸しと、バーニャカウダ、ジェノベーゼピザね」
「お一人で召し上がるには品数が多いのでは?」
「ヤケだよヤケ」
小さくため息をついた一ノ瀬は「かしこまりました」とオーダーを通しにテーブルを離れていった。
そしてまもなく、一本のワインボトルを持ってやってきた。
「ワインはまだ残ってるよ」
そっけなく伝える晴に、一ノ瀬は気分を害した風もなく口を開いた。
「今日の工藤様にぜひご賞味いただきたいワインがございましたので。ぜひご案内させてください」
憎まれ口を叩くときとは打って変わって、仕事では真摯な対応をして見せる。
特に一ノ瀬が自らワインを勧めにやってきたとき、ハズレを引いた試しがなかった。
だから、一ノ瀬のソムリエールとしての腕前に関してのみ、晴は信用している。
「――どんなワイン?」
「ピーロート・ブルー クヴァリテーツワイン。ミュラー=トゥルガウという酸度の低く、甘いぶどうを使った白ワインですが、すっきりとしたやや辛口の味わいが特徴です。――嫌なことを忘れたい気分の日は、特に良いかと」
「グラスでいくら?」
「工藤様なら、五〇〇円でご提供します」
「――君さ、商売下手だよね」
「お試し価格ですよ。騙されたと思って」
「一ノ瀬さんがそこまで言うなら、試してみるか」
グラスのステムを掴み、まだ残っていた赤ワインをぐびぐびと飲み干す。
すぐさま別のグラスを持ってきた一ノ瀬は、珍しい青いボトルの中身を注ぐ。
空いたグラスを下げて、頭を下げる一ノ瀬を見送り、晴はグラスを回して香りを楽しむ。
きりっとした香りが鼻先をくすぐる。
舐めるように一口飲むと、あっさりと喉の奥を駆け抜けていく、爽やかな甘さ。
これは美味しいワインだ。
奥深いワインのことは詳しく知っているわけではないけど、確実に晴の舌と、今の気分にマッチしていた。
感心していると、一ノ瀬が近づいてくる。
「これ美味しい。びっくりした。リピ確定」
「承知しました。次のご予約の際にも、必ずご用意致します」
「さすが一ノ瀬さんだよね」
上機嫌に微笑みかけると、一ノ瀬は「恐縮です」と小さく頭を下げた。
その瞬間に、窓の外が光り、数秒後に大きな音が鳴ったかと思うと、ばちんと火花を散らしながら、店の明かりが――消えた。
「うそ、停電?」
窓の外から明かりが入り込まないところを見ると、街頭も消えてしまったようだ。
地域一帯が被害にあっているのかもしれない。
晴はむやみに動くことはせず、スマートフォンに内蔵されているライトを点灯させた。
食べかけの料理、窓の外、キッチンの方などを照らす途中、うずくまっている塊を発見した。
一ノ瀬だ。
フロアに両膝を抱えて座り込んだ一ノ瀬は、顔を両腕に埋めて、小刻みにふるえている。
「ちょっと、一ノ瀬さんだいじょうぶ?」
足元に気を配りながら近寄って肩を抱くと、再び窓の外が光った。
一ノ瀬は慌てて耳をふさいだ。
それを待っていたかのように、ごろごろと凄まじい音が響く。
雷鳴が轟いている間、一ノ瀬はずっと震えていた。
程なくして、大粒の雨が店の窓ガラスを叩き始めた。
そして、眩しいくらいの明かりが二人を照らす。
「大丈夫ですか?!」
店主だ。
懐中電灯を手にやってきたオーナーは、すっかり萎れている一ノ瀬にあわてて駆け寄った。
「エミ、大丈夫か」
エミ、というのは一ノ瀬の名前だろうか。
一ノ瀬は「お父さん……」と弱々しく囁いている。
一ノ瀬の背中を擦りながら、父親は晴に語りかけた。
「すみません、この子、大きい音が苦手で――子どもの頃からなんです。お客様を放置してしまう形になってしまい、申し訳ない」
「いえいえ、私は大丈夫ですよ。こういうの強いんで」
わざと明るい声で言った晴の声の隙間で、か細いエミの声がする。
「りょうり――」
「エミ?」
「食材とか、悪くなっちゃうかも――私は大丈夫だから――」
白いエミの皮膚は、今や真っ白に透き通っているように見える。
晴は意を決して口を開いた。
「エミさんのことは、私が見てます。お父さんはキッチンを守ってください。オーダーした料理、絶対食べたいし」
「――ありがとうございます。工藤様」
「困ったときはお互い様ですよ」
明るく言った晴に、店主はもう一度「ありがとう」と頭を下げて、持ち場へ戻っていった。
雷は徐々に店に近づいてくる。
顔面蒼白なエミの肩を優しく叩きながら、晴は「大丈夫」と繰り返す。
他に励ます言葉が思い浮かばなかった。
エミは一言も言葉を発さなかったが、それでも震えはいくらかましになったような気がした。
雷が遠のき、小雨になるまで、さほど時間はかからなかった。
ぱらぱらと鳴る雨音に紛れるほどにかすかな声が、腕の中から聞こえてきた。
「申し訳ありません」
何を謝っているのだろう。
訝しむ晴に、彼女は「お客様にご迷惑をおかけするなんて――」と、自分を責めている様子を見せる。
晴はふるふると首を降った。
「全然だよ。むしろ、君に怖いものがあったなんて、驚いたよ」
「――私を何だと思っていたのですか?」
「何も恐れない、鉄仮面かと思ってた」
「あなたこそ――」
エミは少しむっとしたような声色で何かを言いかけたが、言葉は続かなかった。
「何? 気になるじゃん」
「お気に触るかと」
「もっと気に障ることたくさん言われてるから、全然気にならない自信あるよ」
「では、遠慮なく――」と小さく咳払いをすると、エミは「こういうときに冷静な対応ができる方だとは、思ってませんでした」と一息で告げた。
「落ち着きがないように見えるってこと?」
「はい。いつも屈託なくよくお話される方なので、こういうときも大声で騒いだり、暴れたりするのかと」
「そうなんだ」
素直に、驚いた。
自分は自分として生きているだけなので、特に自分に対して俯瞰した印象を持っていない。
しかし、よく気のつくエミにそのように形容されると、そっちのほうが正しい自分のような気がしなくもなかった。
おかしなものだ。
晴はくすくすと笑った。
すると、つられるように、強張っていたエミの体から力が抜けていくのがわかった。
「――私は、エミという名前なのですが」
突然語りだしたエミに驚いたが、晴は相槌を打ってなるべく聞くことに徹した。
「笑う、と書いてエミです。そのような名前ですから、子どもの頃はよくからかわれました。幼少期より表情に乏しかった私は、笑ってみせろ、笑のくせに、とよく謗られました。最初はちょっとしたいたずらだったのかもしれません。そうした戯れはエスカレートして、ある日私は学校の体育倉庫に閉じ込められてしまいました。当時は携帯電話などの連絡手段を持ってませんでしたから、夜遅くまで発見されず、その時に大きな雷が鳴ったんです」
晴は目を閉じた。
悪意なき犯行によって、たった一人取り残された、幼い笑を想像してみた。
きっと一人で泣いていたのだろう。
さぞ寂しかっただろう。
それと同時に、晴自身の過去がフラッシュバックした。
晴と名付けられたがゆえに、「お前は曇りのほうがお似合いだ」「いや、いっそ大雨だ」と罵られた日々を思い出した。
あれ以来、男子というものが嫌いだった。
「雷そのものも怖くてたまらないですが、当時の孤独感と、心細さが蘇ってしまうんです。あのとき、私が不器用なりにも笑顔をすぐに見せられたら、誰もこんな風にからかうことはしなかったんじゃないかと。今でもそう思います」
よく喋る今の自分は本当の自分ではない。
もともと口下手で、卑屈で、自信のない人間なのだ。
そんな本来の晴自身のことを見つけてくれる人は、居なかった。
否――晴もまた、他人の本当の姿を見抜くことを諦めてしまっていたのかもしれない。
フェミという見てくれにこだわるあまり、彼女たち一人ひとりと対話をすることを、知らず知らずのうちにやめていたのだろう。
それを寸分違わず見抜かれたのだ。
故に、晴は拒まれた。
なんだか、そんなふうに思えた。
「接客業なんて向いてないのはわかってました。でもどうしても父の手伝いがしたくて、ソムリエールになったんですけど――こんな緊急事態にお客様の安全を優先できないなんて――」
うつむいて力なく零す笑の肩を掴み、自分の方を向かせた。
暗闇になれた目は、笑がこちらを凝視していることに気づく。
晴は「そんなことはいい!」と断言した。
しかし、その後の言葉が続かない。
幼少期の訥弁がぶり返しているかのように、晴はうまく喋れない。
それでも、思ったことをきちんと伝えたいと思った。
「君は君の仕事をちゃんとしている。私は――ワインに詳しいわけじゃないけど、そんな私にも丁寧にワインを選んでくれる。私がその時求めているワインを選び出してくれる。そんな君がいるから――この店が好きなんだ」
笑はぽかんと口を開いていたが頭をうつむかせ、前髪をなでつけはじめた。
慌てて手を離し、取り繕おうとする晴に、笑は首を左右に振る。
「――その、そんな風に言ってもらえたの、初めてで――」
嬉しい、です。
照れた様子の笑を見て、晴もまた恥ずかしさがこみ上げてきた。
「あの――工藤様」
「晴でいいよ」
「晴さん――もう少しだけ、手を握っていてもらえますか?」
もう少し――明かりが点くまで。
笑がおずおずと差し出した手。
心なしか赤く染まっているように見える頬。
晴が冷たくなっている指先をそっと取ると、笑はほっとしたように息をついた。
どれほどそうしていたのかわからない。
時計を見るのも忘れて、晴は窓の外で虫が鳴く音と、笑の指先が徐々に温かくなっていくのを確かめ続けていた。
ぱちんと明かりが灯ったのは、体感で数十分が経過した頃だった。
「明かり、ついたね」
「はい――ありがとうございました」
立ち上がり深々と頭を下げた笑は、すぐに晴に手を差し出した。
その手をしっかりと掴み立ち上がると、晴はスマートフォンで時刻を確認した。
停電は、ほんの十分程度の間だったらしい。
「大丈夫だったか、笑」
「はい――工藤様もご無事です」
「良かった」
帽子を外したシェフが汗を拭きながら、晴の元へとやってきた。
「時間が遅くなってしまいましたが、今からオーダー頂いたお料理をお作りしてもよろしいでしょうか?」
晴はにこやかに「もちろん」と回答した。
店主も笑顔で、しっかりと頷いた。
先程のワインに口をつける。
キリッとした味わいの中にも、繊細な甘さがある。
まるで笑の人柄を表すような風味だ。
そう思って、晴は少しおかしくなった。
料理は十分ほどで出てきた。
バーニャカウダサラダに、ムール貝のワイン蒸し、そしてジェノベーゼピザ。
どれも美味しそうに湯気を立てて、芳しい香りが押し寄せてくる。
「ねえ」
晴は振り返り、カウンターに佇む笑に声をかけた。
「シフト、何時に終わるの? お客いないんだし、今日は早めに上がらない?」
「なぜでしょう?」
「一人じゃ食べきれないんだよ。それに――」
言うべきか。
やめるべきか。
いやでも――と迷いながら、言葉は自然と口からこぼれ落ちていた。
「君のこと、もっと知りたいんだ」
驚いた瞳は、ほんの僅かに、けれど確かに、顔を綻ばせた。