top of page

正体不明の愛言葉

 

〇〇なのに、愛が分からないの? 

その問いは槍のように降り注ぎ、僕の芯を削る。これまでの人生で、幾度となく。空白欄には、こちらの性別や幼馴染との関係や年齢等、他にも色々。多くの偏見が埋め込まれていた。曖昧に、穏便に流してきたそれらの問い。答えなど分からない。分からなくても生きていける。けれど、自分には分からないと称された“愛”とは一体どんなものだろうか。欲しているのは、感情を探る愛の体験ではなく知識。人ではなく本。聞き飽きた言葉の意味を、改めて調べてみよう。そのことに思い至った後、足が向かったのは図書館だった。

 

図書館へ行く日、その文言がスマホの画面に躍り出る。リマインダーが設定した通りに、休日の予定を告げてくれたようだ。ベッドの上に、持っていくものをぽんと並べる。ノートと筆箱、それから利用者カードにプリントファイル。後は何だろうか。スマホと財布さえあればいいか。淡々と身支度を整え、最寄りの図書館へと向かう。

 

二重の自動扉を抜け、久し振りの館内へ。身に纏わりついていた暑気が、冷房にさっと溶ける。すぐに目についた館内図をじっくりと見て、参考図書コーナーのある二階へと向かった。どうやら二階の司書さんは不在中らしい。【御用があれば一階カウンターへ】と記された卓上看板が、ぽつねんと取り残されていた。くるりと見回した後、発見した検索機へと足を進める。何から調べようか。何で調べようか。一冊では足りない。偏ってしまう。複数の文献で照合しなければならない。散らかる思考を押し込んで、検索画面のタッチパネルを操作する。代表的な辞典を数冊検索し、検索結果が印字された紙を千切り取った。分類記号を記す紙を手に、参考図書コーナーにて探す。一冊、二冊、三冊と目的の文献を見つけては、本棚から抜き取り腕に抱いた。結構重い。残りは後で、とそう決めて近くの席へと腰を下ろす。

蜂蜜色に少し橙が滲んだ陽射しが、硝子越しに降り注ぐ。その陽射しは図書館の窓辺にて、机上に広げた辞書と席に座る人間を平等に温めていた。柔い、柔い光の中で浮かび上がる『愛』という単語。見逃さないように、指し示してつぶさに読む。その事典には、『愛』の項目が七つ記載されていた。

①親子、兄弟などが互いにかわいがり、いつくしみあう心。いつくしみ。いとおしみ。

から始まり、

⑧男女が互いにいとしいと思い合うこと。異性を慕わしく思うこと。恋愛。ラブ。また一般に、相手の人格を認識して理解して、いつくしみ慕う感情をいう。(北原保雄著(2008)『日本国語大辞典』久保田淳・谷脇理史ほか編 第二版 小学館)

で締められている項

いつくしみ、慈しみ。いとおしみ、愛おしみ。口の中で、体に取り入れた言葉を転がす。透明な飴玉を舐めているかのようだ。綺麗で、腹持ちがしない味。それにしても、恋愛は何故男女に限定されているのだろうか。こんなに狭義だとは、知らなかった。不思議と共に不愉快さが身を包む。指先に力がこもり、紙の束が少し歪んだ。若干眉を顰めて、思考のための一時停止。自分の求める答えは、まだ出ない。そもそも、一冊だけでは比較も照合も不十分だ。そこで、“愛”を調べた後に気になる単語を複数追加することを決めた。机上に積み重ねた辞書から次の一冊を抜き取り、最初の頁を捲る。【あいーあいかわ】のカテゴリーにいるその単語を発見。

あい【愛】

この辞書での“愛”は6項目。

①かわいがる。いとしく思う。いつくしむ。いたわる。

から始まり、

⑥「愛蘭(アイルランド)の略」(西尾実・岩淵悦太郎ほか編(2019)『岩波国語大辞典』第八版)

で締められている。

愛の名を冠した単語は、驚くほどに多い。まるでこの単語で世界を構築しているかのようだ。単語の羅列が、「お前の居場所はここにない」と言っている。ただ辞書を読んでいるだけで何を感じ取っているのだ。考え過ぎだ。分かっている、そんなことは。遠退いていく心を繋ぎ止めて、つるりとした紙面を指で辿っていく。親愛、相愛、友愛、恋愛、これらも調べてみようか。最初に調べた日本国語大辞典、次に調べた岩波国語大辞典。それに加えて、新明解国語辞典と明鏡国語辞典。もっと多くの文献を漁りたかったが、今日のところはここまでとする。

 

一旦全て閉じた辞典たちを目前にして、頬杖をつく。辞典ごとに調べた単語をまとめるか。単語ごとにまとめるか。後者の方が、分かりやすいだろうか。暫しの逡巡の後、決定事項を行動に移した。まずは、“愛”の意味をまとめよう。持ってきていたノートを一枚千切り、半分に折る。そのまた半分に折ったノートの切れ端を、定規を使って細かく割いた。はらりと散った紙片をかき集め、一枚ずつに単語を書く。即席だけれど、栞代わりだ。後でコピーする際の目印用に、幾つも用意した。

最初に調べた日本国語大辞典に立ち返り、あい【愛】の記載箇所を再び開く。そこに、「愛 p8」と書いた不格好な栞を挟む。とりあえずは、この作業を繰り返した後にコピーしに行こう。そう思い立ち、続けざまに調べていった。一冊目二冊目三冊目、そうして最後の四冊目。それらを携えて、階下のコピー機を使用するために下りる。階段を踏み外さないようにゆっくりと、まるで大事なものを扱うように歩いて行った。

 

複写申込書、先に書くか。申込書が設置されている台の上に、まとめて辞典を置く。他の人が来ても邪魔にならないように、できるだけ端の方へ。コピーする本の題名とページ数、そして合計枚数。そこまで書いたら残りは個人情報の欄。記入済の申込書を手に、近くのコピー機へと移動した。最初にコピーする一冊を所定の位置へセットし、スタートボタンを押す。そこから後は、流れ作業だ。辞典を動かす度、間に挟んだ栞が目に付く。ページの隙間から、幾つもの愛の言葉が零れていた。愛の正体が分からないとぼやきながら調べているのに、愛に執着しているかのような光景だ。何だか少し滑稽で、ふはっと空気だけ出して笑う。すると、後ろに人の気配。自分の手元を見られたくない、真っ先に浮かんだ思いのもとに片付けをし、コピー機を譲る。これは自分のための作業で、誰にも悟られたくなかった。

再び、辞典を抱えて二階への階段を上る。

 

参考図書コーナーの本棚に戻り、目の焦点を一番上の棚に合わせる。そこには、最初に調べた日本国語大辞典がずらりと並んでいた。持っていた第一巻をぽっかりと空いた空洞に当てはめる。他の辞典も同様に下の棚へ。そうして次。日本国語大辞典は細かく分類されていて、先ほどの一冊では一単語しか調べられていない。残りの単語も調べるため、重量感のある辞典を本棚から数冊続けて取り出した。そして、今終えた一連の動作を繰り返す。

二度目のコピーを終え、図書館に来てから三度目の階段上がり。階段脇に貼られているのは、地元を舞台にした本の紹介文、著者の名前、思わず活字を追いかける自分の目。これらの動きに愛の名をつけるとしたら何だろうか。この土地に対する親愛だろうか。土地の歴史、文化、特色に対する敬愛だろうか。数回瞬いた後、今は止まっている場合ではないと別れを告げて足を動かす。気がそぞろになっていたみたいだ。足取りが重い。少し、休憩を挟もうか。そう思った矢先、閉館間際を知らせる音声が流れる。しまった。今日は日曜日で、閉館時間がいつもより早いのを忘れていた。慌てて、本棚へと戻る。辞典を戻しながら、敬愛という単語が頭の中を泳ぐ。時間はないが、最後にもう一単語。急いでページを捲り、行き当たった単語を今度はノートに書いた。申込書を書く時間も、コピーする時間もない。

閉扉準備を始めた警備員さんの脇をすり抜け、外へと躍り出る。まだ調べただけなのに、やり遂げた気分で駐輪場へと赴いた。自転車へ乗り、風を切って帰途につく。

 

今度は自室の机にコピーした用紙を広げる。これは愛、これは親愛、という風に。ざっとまとめてみると、愛、親愛、友愛、恋愛は四冊分を表す四ページある。だけど、相愛は三枚しかない。後半気が急いて、調べそびれていたのか。欠けた部分を補うように、机の端に乗っているのは“敬愛”と“性愛”の意味が記載された二枚。性愛は、恋愛と一括りすべきではないと思い立って合間に追加したのだった。完璧ではない調査結果。それでも、これらの情報は必要だ。問いの答えを探るため、以上に自分のために。

各々の単語をまとめて、まずは意味の①に記載されている言葉に着目する。他に気になる意味を発見したら、その都度取り上げるように。そうして辞典ごとに異なる記載を比較し時には照合していこう、自分の持ち得る感情と。はじめは、大元の“愛”。既に図書館で確認した二冊分に加えていく。

あい【愛】

1⃣①価値あるものを大切にしたいと思う人間本来の温かい心。

1⃣個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を認め、最大限に尊重していきたいと願う、人間に本来備わっているととらえられる心情。(山田忠雄・倉持保男ほか編(2020)『新明解国語辞典』第八版)

価値、存在価値か。そもそも存在価値とは、他者に認めてもらうものなのだろうか。そうして、価値あるものを尊重することが人間本来に備わっている心情だと。これらはきっと、先に調べた“慈しみ”に符合するのだろう。

 

次に、“親愛”。これは皆、そこまで相違点がなかった。

しんあい【親愛】

・親しみと愛情をもっていること。また、そのさま。(北原保雄著(2008)『日本国語大辞典』久保田淳・谷脇理史ほか編 第二版 小学館)

相通じているのは、その感情は自らが抱くものであり、相互ではないこと。と認識した。親しみと、愛情。

 

喉が渇いて、台所に麦茶を飲みに行く。いつの間にやら夕暮れだ。空を覆う澄んだ藍色に、薄桃色や橙色がじんわりと滲み、溶け合って柔い薄闇を連れてくる。その色合いは、季節や気温等によって日々変わるけれど。毎日見る、慣れ親しんだこの光景。一方的に抱くこの感情は、時に親愛とも呼べるのだろうか。暫しの間、ぼんやりと立ち尽くす。

 

席に戻り、一連の動作を繰り返す。次は、“相愛”。同じ単語を調べているのでそうなるのは分かるのだが、この単語は先ほどよりも更に相違点がない。

そうあい【相愛】

・互いに愛し合うこと。(北原保雄編(2021)『明鏡国語辞典』大修館書店)

相互に働く感情だ。これについては、自分の中に該当する記憶がない。

 

そうして、次とその次。同じ範疇に括られることが多いが、切り離して捉えた方がいいと思う“愛”たち。改めて文章を読む前に、ひっそりと深呼吸をした。読む単語は、“性愛”と“恋愛”。

せいあい【性愛】

・男女両性間の本能的な愛欲。(北原保雄著(2008)『日本国語大辞典』久保田淳・谷脇理史ほか編 第二版 小学館)

 

れんあい【恋愛】

・特定の異性に特別の愛情を感じて恋い慕うこと。また、その状態。こい。愛恋。(北原保雄著(2008)『日本国語大辞典』久保田淳・谷脇理史ほか編 第二版 小学館)

 

・(特に男女間で)恋いしたうこと。こい。(西尾実・岩淵悦太郎ほか編(2019)『岩波国語大辞典』第八版)

本能的な愛欲。恋い慕うこと。愛欲は他者に向けるものなのか。そうしてそれらは、何故異性限定なのか。反復する疑問。分からないことばかりで、茫然とする。いや、意味などとうの昔に知っていた筈だ。ただ現実味がなかったのだ、自分にとってはどうしても。こうして態々辞典を引くまで、知らない単語として片付けていた。はあ、あ。溜息ふたつ落として、残りの“恋愛”を見る。

れんあい【恋愛】

・特定の相手に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情を抱き、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。(山田忠雄・倉持保男ほか編(2020)『新明解国語辞典』第八版)

 

・二人が互いに恋い慕うこと。恋人の関係にあること。また、特定の人を恋い慕うこと。(北原保雄編(2021)『明鏡国語辞典』大修館書店)

 

性別が明記されていないところに安堵。前者で記載された意味については、恋愛と独占欲の相違が曖昧に感じられた。

卓上ランプの強い光が目に染みる。一度立ち上がり、凝り固まった体をほぐすように伸びをした。あと、もう少し。次は、“友愛”。この単語の意味は、二つに大別されていた。

ゆうあい【友愛】

・友人に対する親愛の情。(西尾実・岩淵悦太郎ほか編(2019)『岩波国語大辞典』第八版)

・知人に対しては献身的な愛を捧げ、見知らぬ他人に対しても必要な愛を惜しまないこと。

特定個人と、不特定多数。

・兄弟・友人の間の親しみ。また、他に対して深い思いやりをもつさま。(北原保雄著(2008)『日本国語大辞典』久保田淳・谷脇理史ほか編 第二版 小学館)

・兄弟間の情愛。また、友人・隣人に対する親愛の情。(北原保雄編(2021)『明鏡国語辞典』大修館書店)

自分のきょうだいについては、自分を踏みつけて生きる人だという認識しかない。友人・隣人に抱く感情は思いやりという言葉に変換できるのか。

 

最後に、閉館間際に書き付けた“敬愛”。この単語は一冊分の一ページのみで語られる。

けいあい【敬愛】―尊敬して、親しみの気持ちを持つこと。

誰かを尊敬する、という気持ちは分かる。努力をする人が、自分には眩しくとても凄いことだと思う。受験勉強を惜しまず机に向かい続ける友人、目標を定めてお金を稼ぐ先輩。彼らに抱いていたのは、敬愛なのだろう。気付いていなかっただけで、自分にも存在していた感情だった。

 

一通り終え、数秒ほど視界のスイッチを切る。閉じた瞼の裏で、大量に摂取した“愛”が飛び回っていた。ふいに、人の話声が届く。リビングのTVでドラマが流れているらしい。今の今まで、気付かなかった。

「愛があれば、生きていける。」

登場人物達が声高に話す内容が、ぬるい風に乗って自室まで流れる。ここでもまた、それか。求められる種類の愛を持っていなくても、生きてはいける。権利と保証が義務付けられていれば。文字を追い続けて疲弊した頭では、まともな反論も浮かばずにただ淡い失望だけが募る。

ぐっと力を込めて立ち上がり、窓を開けた。肌に触れる夜の空気が心地よい。

愛はひとつではない。

愛が全てではない。

そう叫びだしたい、夜だった。勢いよく立ち上がった振動で落ちたノートが、風に揺れてはらりと捲れる。表紙に「行原愛」と明記されたノートが。

 

 

 

参考文献

 

(西尾実・岩淵悦太郎ほか編(2019)『岩波国語大辞典』第八版)

(北原保雄著(2008)『日本国語大辞典』久保田淳・谷脇理史ほか編 第二版 小学館)

(山田忠雄・倉持保男ほか編(2020)『新明解国語辞典』第八版)

(北原保雄編(2021)『明鏡国語辞典』大修館書店)

bottom of page