燃える手

川瀬みちる

 かつて真っ赤に色づいた彼女の指先がわたしの唇にそっと触れた瞬間、ただただこのまま燃えてしまうに違いないとばかり思っていた。

 早野さんの指先をこれほど熱いと思ったのは初めてだった。それまで、手と手を触れた時も、ちょっと背伸びをして頭を撫でられたときも、何も感じなかった。むっつりスケベ疑惑を同級生たちにかけられても、ついぞ早野さんどころかどんな女の子にも性的な関心を持つことができなかった。

 そんなわたしも、とうとう女の子に恋をすることができたのだ、とそのときほとんど信じそうになった。けれども、違った。わたしを歓喜で震わせたのは、彼女の指先ではなく、まさしくその真っ赤な口紅それ自体だった。

「赤リップは普通に塗ると厚化粧みたいになっちゃうから、指でぽんぽん乗せるのがいいんだよ」

 その教え諭すような声音にも、そのときは不思議と苛立たず、胸が躍った。晩夏の太陽が眩しく差し込むのは、早野さんの自室だった。両親が留守をしている一軒家は静かで、五時のメロディが窓の向こうから微かに聞こえていた。沢山の文庫本で部屋の大部分が占められており、家具はハートモチーフのもので統一されていた。ベッドサイドにはクマの縫いぐるみが飾られている。

「ほうら、やっぱり思った通り、薫はメイク似合うね」

 早野さんは少しだけ出っ張った八重歯を見せて笑った。その瞳が少し寂しげだったのが気にかかった。何か大切なものを落としてしまった暗い沢のような瞳だった。

彼女がわたしに化粧をしたいと言い出したときにはふざけているのかと思った。けれども、決してそういう訳ではなかった。わたしの造形に好奇心と美意識をくすぐられたとか、たしかそんなことを言っていたと思う。あくまでも真剣に、丁寧に、化粧を施してくれた。無駄毛を除いて化粧水と乳液で肌を整えるところから始まり、睫毛を自然にカールさせるところまで、寸分の手抜きもなかった。

「薫くん、とっても綺麗だよ」

 わたしは頬が熱くなるのを感じた。そんな言葉を掛けられたのは、生まれて初めてだった。

「赤くなっちゃって、かわいい」彼女はじっとわたしを見つめる。「ねえ、今ここでキスして」

 その後のことはほとんど覚えていない。ただただ、近づいてくる彼女の唇から逃げただけだ。気が付いたときには、激しく息切れしながら、駅のトイレでごしごしと顔を洗って、目の周りを真っ黒にしていた。

 そのとき、わたしは自分が何者なのかを知った。

 

 *

 

 クスコ式膣鏡のハンドルをそっと握ると、桃色の膣壁が広がり、粘膜の暗闇にライトの光が当てられた。

 いま女を女たらしめているといわれるこの器官を覗き込むことに、回りくどい感情を抱かないではいられなかった。たとえ二年間の研修期間のうち、たった二ヶ月の必修科目であっても、避けられるものなら避けたかった。

 異常なし。動きが良く、癒着もない。

「はい、大丈夫ですよ」

「はい」カーテンの向こうからくぐもった声が聞こえた。

 内診台を閉じて、下げる。ほっとして立ち上がったそのとき、声を掛けられた。

「ありがとうございます。あの、今日って女医さんはいなかったんですか?」

ふうっと直に生温かい息を吹きかけられて内臓が捩れるような不快な気持ちになる。

「いえ、今日はわたしが担当で……」自分でも何を言っているのかよく分からない。

「あ、もしかして女医さんでしたか? 失礼しました。てっきり……」

 もやもやした気持ちのまま、食堂で昼食のカレーうどんを食べた。付けっぱなしのテレビでは、山で行方不明になった中年男性についてニュース番組が報道していた。この後は、入院患者の回診の予定だった。今日から新しく担当する患者が一名追加される。ざっと引継ぎサマリには目を通しておいたが、それでも新しい担当患者の診察は緊張する。入院目的は胎児発育不全。精神疾患系の内服歴が多数。申し送り時には、前任の加藤先生から「まあ、面白い患者さんですよ」などという皮肉めいたコメントがあった。

 廊下の白いリノリウムの床に無機質な電灯の光が照り返していた。三月の空気はまだ硬い蕾のようで、綻ぶまでにはまだ当分かかりそうに思われた。忙しなく行き交うスタッフは、いかにも余裕のない様子で、どことなく長時間労働の疲労の色が見える。そうだ、余裕のある人なんてこの病院にはいない。みんなぎりぎりで頑張っているのだ。わたしだって、さっきみたいなちょっとしたことを思い煩っていないで、気合を入れて頑張らねば。そんなことを考えながら、パーマをかけたセミロングの茶髪をぎゅっとゴムで縛り、病室に入った。そこで待っていた看護師の宮本さんとともに、新しい担当患者に挨拶に行く。

「こんにちは。カーテン開けますね」

 仕切りカーテンを開けた瞬間、間違えて癌病棟に来てしまったのではないかという気がした。それほどその患者の坊主頭は、産婦人科の一般病棟で異様に見えた。

「えーっと」肝心の患者の名前を見ていなかったので、引き継ぎサマリに目を落としてみて、初めてはっとした。「早野咲希さんですね」

「はい」

 つるりとした頭頂部から首筋、肩にかけての線の美しさが際立っていたが、それでも高校生当時と変わらずぱっちりと大きな瞳は坊主頭にそぐわないように思えた。妊娠八ヶ月のお腹は程よく膨らんで、起き上がっているのも窮屈そうだ。

 できることなら無かったことにしてしまいたい過去の自分を最もよく知っている人間をいきなり目の前にして、わたしは訳が分からなくなってしまった。ほとんど呆然自失としながら、ちょっとした微風でも吹けば泣き崩れてしまいそうな気がした。

「先生、どうかしましたか?」

 宮本さんに耳打ちをされて、なんとか我に返った。

「いえ」咄嗟に、早野さんはまだ自分に気が付いていないようだと推測した。「新しく担当させて頂く高橋です。よろしくお願いします」

「はい、よろしくお願いします」

 この調子でいつも通りにすればよいのだ、いつも通りだ。

「……今日のお加減はいかがでしょうか?」

「やっぱり吐き気がします」実際、早野さんは少し顔色が悪かった。

「そうですか、でも、食べられる範囲で、できるだけ食べてくださいね」

 悪阻については無難なアドバイスをする他、医者にできることはそれほどない。本当に何も食べられないで栄養状態が悪くなるようであれば、点滴をするくらいのことだ。

「あと、抗不安剤やコンサータは仕方ないけど、やっぱりせめて眠剤は頂けませんか? 消灯後、どうしても眠れないんです」

「それは……」わたしは少し考えた。妊娠中の睡眠剤の服用は催奇形性を高める可能性がある。「いったん睡眠時間を毎日記録して、少し様子を見てみましょうか」

 早野さんはやや眉をひそめた。

「前の加藤先生もですけど、本当にお医者さんはいつもそう。そんなに障害のある子どもが嫌いなんですね。それって差別じゃないんですか?」

 穏やかな調子ながらも辛辣な言葉を突然投げかけられて、驚いた。

「いや……」

「結局、生まれる前から障害者は選別されてるんですよ。ちょっと昔まで、障害者は強制不妊手術まで受けさせられた」

「でも……」プロらしく冷静に催奇形性のリスクを説明しなければならないのに、言葉が出てこない。

「わたしだって、精神障害者だもの。よかったら手帳見ますか? ほら、いま先生だって、こんな面倒な障害者が子どもを産むのかって考えてるんでしょう?」早野さんはほとんど優雅といえるような微笑みを浮かべていた。

「違う……」

たじろぎながらも、この淡々と、しかし徹底的に理詰めで追い詰められるこの感じは、わたしがよく知っているもので、懐かしいような寂しいような思いがした。

「何が違うんですか?」と言った次の瞬間、早野さんははっとして目を丸くした。「……薫?」

 足元の地面が崩れ去ったような気がした。もう終わりだ。噂好きの宮本さんは黙っていないだろう。わたしが高校を出てから築き上げてきた女としての人生ががらがらと音を立てて崩れるような気がした。所詮、自分は女の偽物なのだ。見る人が見たら、簡単に見破られてしまうのだから。

 わたしがそんな風に感じているとは思いも寄らないのか、丸くなった早野さんの目は次第に輝きを増し、三日月の形になった。

「ほら、やっぱり薫じゃない! 薫に決まってる」ふふふと笑うと、相変わらず出っ張った八重歯が少し覗いた。「だって、追い詰められたときに、そんな風に鼻を擦るのは薫だけだもの」

 そんな下らないことで露呈してしまったのだということに、落ち込みながらも、早野さんが性別を話題にしないことに少しほっとした。

「いつ以来? うちに遊びに来たのが最後だっけ?」

「うん、そうだね」

今更ながら、あんな別れ方をしてしまった気まずさでいっぱいになる。おそらく恋愛感情こそなかったものの、あの頃彼女はわたしのたったひとりの友達だった。その友達を酷い形で裏切ってしまったような気がしていた。

「そっか」早野さんは長い睫毛を落として、少し思いに耽った。「メイク上手になったね。教えた甲斐があったよ」

 その言葉を聞いて、かっと頬が熱くなった。

「まあ積もる話もあるけどさ。とりあえず、今まで薫がどうしてたか教えてよ」その屈託のない笑顔に、心が波立つようだった。

 その後、わたしは逃げるようにしてその場を立ち去った。たしか次の患者の診察があるとかなんとか言い訳をしたように思う。ひたすらに居たたまれないような気持ちだった。まあ早野さんは早野さんなりに気を遣ってくれたのだろう。それでも、昔の姿を知られている人物に会うことがどんなに苦痛なのかということは、早野さんには分からないことだろう。

 

 *

 

 振り返ると、こっそりと抜け出した校舎が青い空の下で酷く白々しく見えた。昼休みの喧騒も遠く、静かだ。

「どうしたの?」前の方を歩いていた早野さんが尋ねた。

「いや、いつも授業サボってても、学校の外まで行くのは初めてだなあと思って」

 はじめ授業中に立ち入り禁止の屋上に連れていかれた時も、教師に見つかることを恐れてどぎまぎしたものだが、ついに構内まで離れるとなると、大変なことをしてしまっているのではないかという気持ちになった。

「どうせサボるんだから同じことだよ」早野さんは少し呆れたように言った。「屋上でサボるのはもう慣れたでしょ」

「まあね」

 連れて行かれてみて、屋上がのんびりと本や漫画を読むのにとても適した場所だということがすぐに分かったし、成績トップの早野さんがほぼ保健室登校のわたしを連れてどこかへ消えても、教師たちは何も文句を言わないということも徐々に判明した。

そうして、時々わたしたちは一緒に授業を抜け出して屋上に行くようになったけれども、大抵は黙って本や漫画を読んでいるだけだった。だから、なぜ彼女がわざわざわたしを連れて行くのかも、正直よく分からなかった。

「それにしても、なんで今日は屋上じゃないの?」わたしはおずおずと訊いてみた。

「なんでって……。そりゃもうこの時期、屋上は暑いでしょ。さすがのわたしでも夏とか冬まで屋上に行ったりしないよ」

「そっか。そりゃ、そうだね」

たしかに五月の終わりらしい、軽く汗ばむ陽気だった。制汗剤だろうか、早野さんからは甘い柑橘系の香りが微かに漂っていた。傍にいる者を少し気まずい思いにさせるような、かぐわしい香りだった。

「じゃ、今からどこに行くの?」

「それは行ってからのお楽しみ」早野さんは少しだけにやと笑って言った。「わたしのお気に入りの場所なの」

昼下がりの住宅街は静かで、どこか遠くからサイレンが聞こえた。この角を曲がれば、もう学校は見えない。

 歩いていると、段々暑くなってきてハンカチを取り出す。汗をぬぐい、少し広げてぱたぱたと扇ぐ。

「いい加減、衣替えしないの? もう半袖の時期でしょ」

「いや……、半袖って嫌なの」

「どうして?」

 不思議そうに見上げる早野さんに、わたしはただきまり悪く目をそらす他、答え方を知らなかった。腕に生えた「汚らわしい」毛を他人に見られるのが耐えられないからだなんて、口が裂けても言えない。こんな話題を振ってきた早野さんに対するほとんど理不尽な怒りまで湧いてくる。

なぜそんな風に自分の毛を「汚らわしい」とまで思うのか、自分でもよく分からなかった。「普通の男子」は平気でその第二次性徴の証を人目にさらしているじゃないか。それでも、わたしにはどうしても自分のそれを受け入れることができなかった。いつも詰襟の制服の袖を限界まで伸ばして、指の毛まで隠した。

──間違っている。この身体は何かが間違っているんだ。

「いや、わからない」

「そっか」早野さんはそれ以上問い詰めるようなことはしなかった。

 

 平たい小石が鋭く風を切り、ほぼ等間隔に五つ六つほどの波紋を広げながら弾んでいった。

「すごい」

 下流の方を見ると、川は大きく蛇行しながら見えない海に流れ込んでいるようだった。足元の縁の方は水が透けて様々な色や形の石が見えたが、向こうの方はただ青空を波間に映して煌めいていた。

「もしかして、これやったことないの?」

 わたしはこくりと頷いた。

「何それ、小さい頃みんなでやらなかった?」

「いや……」

 わたしは少し困って答えた。

 小さい頃から、男の子の遊びに上手く加わることができなかった。かといって女の子の輪に入れる訳でもなく、結局多くのひとり遊びを覚えることになったものだ。

「ふーん」早野さんはほとんど無感動に言った。「じゃ、教えてあげるよ」

 早野さんは小石の選び方から投げる角度まで、丁寧に水切りの仕方を教えてくれた。早野さんにはいつも教えてもらってばかりだと思うと、微かな苛立ちと気まずさがないまぜになったような変な気持ちがしたけれども、表面上は素直に早野さんの指南を受けることにした。

平たい石が良いということは知られているけれども、とりわけ下になる部分にでっぱりがあったり歪んでいたりしないものが良い。面積の広さも重要だ。投げるのはなるべく低い位置から。横回転をかけ、身体全体のスナップを利かせて飛ばす。

最初は、一度も弾まずにぼちゃんと落ちてしまっていたけれども、徐々に弾ませることができるようになった。

「あっ、できた」

段々と楽しくなってきて、苛立ちも気まずさもどうでもよくなってくる。何度も練習を重ねた結果、最高記録は四回だった。

「わっ、四回も弾んだ」

 わたしは思わずはしゃいで、ガッツポーズをした。

「良かったね」早野さんも笑って叫んだ。「なんか萌え袖でガッツポーズするのかわいい」

 萌え袖、などという言い方があるのを初めて知った。この伸び切ったよれよれの袖にもそんな肯定的な呼び方があるのだなと思った。

 少し疲れたので、堤防の木陰になったところで座って休むことにした。そこら中に、色濃い初夏の野草が繁茂していた。

「あ、Polygala japonicaだ。珍しい」

「何? ポリ?」早野さんは眉をしかめた。

「あ、ごめん。これ、ヒメハギだよ。さっき言ったのは学名。ちょっと珍しいんだ」

「へえ! 薫くん、植物に詳しいんだね」

 彼女から教えてもらってばかりのわたしにも、植物の名前なら教えることができるのは嬉しかった。

「じゃあ、これは?」

「ああ、それはヒメジョオン、Erigeron annuuだね。貧乏草ともいわれる。よく見かけるでしょ」

早野さんが指差す植物の名前や特徴をひとつひとつ教えてあげることができた。こんな話をできる人は他に誰もいなかった。嬉しさに頬が上気するのを感じた。

それから、ポケットに集めた平たい小石を一つずつ交互に出してぐらぐらと積み上げた。最初は慣れないから、五つめくらいですぐに崩れてしまった。それでも、そんな下らないことが可笑しくてふたりしてくすくす笑った。

「次から、自分の番で崩した方がなんか罰ゲームすることにする?」珍しくわたしの方から遊びのルールを提案してみた

「いいよ、何がいいかな」

「そうだ、崩した方が相手の知らない秘密を打ち明けること」そう言いながら、何か打ち明けるようなことってあったっけと思い、手元のぺんぺん草、Capsella bursa-pastorisをむしる。

「いいね」

段々と小石が積みあがって塔のようになった頃、どこからか学校のチャイムが聞こえてきた。来るときに前を通った近所の小学校だろうか。すると、突然自分がこんなところで遊びほうけているということやはり少しきまり悪いように思えてきた。

「あ、チャイムだ」わたしが載せた小石はほんのわずかに中心軸を逸れたが、うまく収まった。「授業、進んでるかな」

 早野さんはひゅーと口笛を吹いて言った。

「いい子は天国に行けるけど、悪い子はどこにだって行ける」

「何それ?」

「知らない? 今頃授業を受けてるいい子ちゃんたちは良い大学に受かるかもしれないけど、わたしたちは悪い子だから自由にどこにだって行けるんだよ」

 へへへと自慢げに笑った早野さんが、九つめの小石をそっと載せた瞬間、ふたりの間の塔は崩れ去った。それでも、早野さんは慌てることなくちょっと微笑んで言った。

「ねえ、わたしたちふたりで組んだら、もっと強く自由になれると思わない?」これは打ち明け話のつもりなのだろうか。それまで見たことのなかったような光を目に漲らせて、早野さんは続けた。「だからさ、付き合おうよ」

 わたしにはどうしていいか分からなかった。もしかしたら、無意識に鼻を擦っていたのかもしれない。もっと強く自由になる? 付き合う? どういうことだろうか。困惑して、頭の中が疑問符だらけになっていた。

 そんなわたしも構わず、早野さんはやや身を乗り出すようにして言った。

「どうする? わたしと組む? 組まない?」

 小さな蜂が耳元をぶんと通り過ぎていったようだった。早野さんの瞳に映った光は揺れて、いまにも溢れそうに見えた。これが溢れてしまったら、わたしはどうすればよいのだろうか。このままでは溢れてしまう。止めなければ。

「……組む」

 そう言ってしまったことは、今さら悔やんでも悔やみきれない。大切な友達をひとり失ってしまうことになったのだから。

 

 *

 

 病室を訪れると、カーテンは開いたままでベッドはもぬけの殻だった。

 お手洗いだろうかと他の患者を回った後に見に行ってみたが、やはりいない。談話スペースにもいない。

ふと窓の外を見遣ると、庭のベンチに大きいお腹の坊主頭が見えた。

「困りますよ、回診の時間なのに外に出られたら」

 そう声を掛けると、振り返った。

「あ、薫だ」悪戯がばれた子どものような顔をして笑う。その無邪気さに微かに苛立つ気持ちがあった。「だって、気持ちよさそうな天気だったから」

 時々冷たい風が吹いたが、今日の昼下がりの太陽はぽかぽかと暖かかった。影絵のような黒い枝先に咲く蝋梅が、澄んだ空によく映えた。

「なんで敬語使うの? 変な感じ」

「一応、医師と患者ですから」

「ふーん」早野さんは不満げに言った。

 わたしは医師が患者にタメ口を利くのがあまり好きではなかった。自分が患者として病院に行くとき、少し嫌な気分になったことがあるからだった。

 風に揺れる蝋梅は半透明で艶があり、まるで作り物のようだった。作り物が自然に似るのは当然だが、自然が作り物に似るのは不思議なことだと思った。自然は完全で、そして作り物は所詮不完全なはずなのに。

「今日の……」とわたしが言ったのと、

「突っ立っ……」と早野さんが言ったのは同時だった。

 わたしたちは目を見合わせて、ちょっと笑った。こうして笑い合うのは何年ぶりだろうか。

「どうぞ」わたしが譲った。

「突っ立ってないで、ここに座りなよ」

 少しお尻をずらして、空けたスペースをぽんぽんと手で示した。

「では、失礼します」

 早野さんの体温が残っていたのか、白衣ごしにベンチの温もりを感じた。そして、ああこの角度だ、と思った。いつもこの角度で彼女と話をしていた。鼻がこんな風につんと尖っていることも、忘れていた。それが少しだけ寂しいような気がした。

「あっ、えっと、ちょっと待って」彼女は庭の裸木立を指差したかと思うと、急に頭を抱えてうんうんと考え始めた。「そうだ! ぜるこーゔぁ・ナントカ、そんな感じだったよね」

 わたしは面食らってしまった。そんなことを彼女は覚えていたのだ。

「Zelkova Serrata!」その響きだけで胸がどきどきするようだ。「欅の学名だね。これは欅じゃなくてムクノキだよ。学名は、Aphananthe Aspera」

 植物の学名を覚えることに夢中だったあの頃の気持ちをすっかり忘れていた。思わず舞い上がってそこまで話すと、早野さんがくすくす笑っていることに気が付いた。

「ほうら、もう敬語抜けてる」

「あ」

「本当、薫はうっかりしてるんだから」

 またわたしたちは笑い合った。三月のひんやりした空気を溶かすような笑いだった。

「そんなにうっかりしててお医者さん大丈夫なの?」

「まあ、まだ研修医だし」

「そうなんだ、研修医さんでも担当の患者さん持つんだね」

「そう、結構大変なんだよ。専門医さんだけじゃ回らないからね」

 わたしは研修医に課せられた重責を少しぼやいた。

「そういえば、早野さんの旦那さんは面会に来ないの?」

 すると、早野さんは嘲るような薄い笑いを浮かべて言った。

「旦那なんかいないよ」

「えっあっ、じゃ……」お腹の子どもの父親は誰なのだろうか。

「さあね」早野さんは伸びをして言った。「ねえ寒くなってきたから、戻ろうか」

 

 それから、わたしたちは雨さえ降らなければ毎日のように庭でおしゃべりをするようになった。かつてのように、他愛のない話ばかりして笑い合った。肝心のお互いの事情については、なるべく触れないというのが、暗黙の了解事項になっていた。日々、空気は温かくなり、庭の花がいくつも咲き出した。またわたしはそんな花々の名前をひとつひとつ早野さんに教えるようになった。

 四月も半ばになった頃だった。空には朧雲が広がり、あんずの花の匂いが満ち満ちていた。早野さんはベンチから手を伸ばして、その花を手折った。

「この花、なんていうの?」

「あんず、Prunus armeniaca」

 ふーんと言って、彼女はその花をわたしの髪にそっと挿してくれた。かぐわしい匂いがわたしの鼻孔をくすぐった。

 その匂いを震わせるようにして、早野さんは呟いた。

「可愛い」

 わたしは顔が熱くなるのを感じた。時々言われるようになった今でも、その手の褒め言葉には慣れない。

 その時、まさか彼女が暗黙の了解を破るとは思っていなかった。それは、全くの不意打ちだった。

「シュジュツ、したの?」

 何の手術のことか、などととぼけたりはしなかった。わたしはただ首を横に振った。

「胸だけ」

 性同一性障害の診断を受け、ホルモン注射を始めたのは高校中退後だった。大検と医学部入試に受かって、大学入学と同時に本格的に女性として生活を始めた。周囲とは三年の歳の差があったのもあって遠慮されていただけかもしれないが、表面上はほぼ埋没して過ごすことができた。

 丸っこい雀が夢中で地面を嘴でつついていた。草もほとんどないのに、餌が見つかるとも思えなかった。

 ふと気配を感じて見ると、早野さんがわたしの髪の先の方をくるくるといじっていた。わたしが身を固くすると同時に、鋭利な刃物の閃きのような微笑みが早野さんの口元をよぎった。

「女になるってこういうことだと思う?」 

 わたしは凍り付き、言葉を失った。女になるってこういうことだと思う? そう、わたしは女の偽物。不完全な、作り物の女。少しくらい胸を入れても、ホルモン治療をしても、そしていつかお金を貯めて性器を作り替えたとしても、わたしは所詮女にはなれないというのだろうか。

「……わたしだって、本物の女になりたかった」喉がからからに乾いていた。「なれるものなら、なりたかった」

「ふーん」早野さんは髪から指を離し、感情のない声で言った。「君の考え方は間違ってるよ」

 雀がちゅんと鳴いて飛び立った。

「本物の女なんて、どこにもいない。君も女じゃないし、わたしだって女じゃない。地球上に女なんて一人もいない。いるのは、ひとりひとり違う自分だけの性を持つ人間だけ。女になる、なんて馬鹿馬鹿しいよ」

 わたしは虚ろに雀がいなくなった地面を眺めていた。

「わたしだって、女らしくなりたいような気がしてた。この世のありとあらゆる可愛いもの、ピンクやらレースやら、全てに囚われてた」

 そう言いながら、彼女は無意識に自分の膨らんだお腹を撫でた。

「だからわたしは坊主にした」誇らしげに早野さんは続ける。「それで、わたしは女らしくなりたいっていうことから、解放されたの。女らしさに囚われているなら、薫もいっそそうしてみれば、いいんじゃない?」

 わたしはそのときなぜか全く違う光景を思い浮かべていた。青い夜明けに少女の眠りを守るクマの縫いぐるみだ。幼い頃に乱暴に遊ばれたために黒ずんで所々ほつれている。

 頬に一滴の雨粒が落ちてきた。

「ふざけんな」その小さな呟きが自分のものだと気づいたのは、それが漏れたあとだった。

 早野さんは手のひらを上に向けて、不思議そうに晴れたままの空を見上げていた。

「人の気持ちも知らないで」首筋にもう一滴落ちてきた。「何言ってるの?」

 あとはもう潔い夕立だった。

──ジェンダーが社会的構築物に過ぎないなら、トランスジェンダーも嘘だ。

そんなこと、もう嫌になるほど考えたし、耳にタコができるほど聞かされた。それでも、自分にとって性別移行は現実でしかなかった。

「あんたは今までの人生でオカマ呼ばわりされたことあるの? 男子トイレも女子トイレも行けずに膀胱炎になったことあるの? 不審者や犯罪者だと決めつけられたことあるの?」

 そんな現実すら知らないで、理想論をお説教する。そんなことは、もううんざりだった。たとえ誰もジェンダーのことを知らないような、男や女という言葉すらないような無人島に行ったって、わたしは自分の身体の男性的特徴に耐えられないだろう。そんなことは、彼女には逆立ちしたって想像できないのだ。

 いつの間にか立ち上がっていた。突然降り始めた雨のなか、濡れた髪が頬に張り付き、背中を水が流れた。あんずの花は地面に落ちて、雨に叩かれていた。

「夢みたいなお伽話を語る前に、自分がどんな特権に乗っかってるか振り返ってみたらどうなの?」

 早野さんはわずかに口を開いて、何か言おうとしていたけれど、わたしは踵を返して玄関へ駆けた。

 

 濡れたまま医局に戻ると、そこにいたのは加藤先生だけだった。

「いやー、急な雨に降られましたね、高橋先生」髭を撫でながら、ころころと笑う。「ほらほら、そこにタオルあるから、早く拭いて。風邪を引いては患者さんに迷惑ですからね」

 キャビネットを開けて、白いタオルを取り出す。雨に打たれていたのは少しの間だったが、髪から水が滴るほどだった。

「回診、終わったの?」

「はい」

「あの患者さん、どうですか? 早野さんだっけ」

「どうって? 今のところ順調ですよ」

 加藤先生は口元に薄い笑いを浮かべて、ひそひそ声で言った。

「あの人、柚月陽菜ちゃんだって知ってた?」

「えっ? 柚月陽菜って誰ですか?」

 どこか聞き覚えのある名前に、嫌な予感がした。

「そっかー。女性は、まあAVとか見ないよね」少し気まずそうな顔をして、勝手に決めつける。「僕も最初は坊主頭にウィッグ被ってないから分からなかったんだけど、よくよく見たらAV女優の柚月陽菜ちゃんそっくりだと思って、訊いてみたんだ。そしたら、ご本人だって」

 窓の外を見ると、もういつの間にか雨は上がっていて、濡れた庭が瑞々しく輝いていた。その嘘のような輝きに息が詰まる。

「今回のご妊娠も父親不明だそうだね。まあ、こっそり風俗もやってたんじゃないかな」

「そうなんですね」自分の声がまるで他人の声のように響いた。「わたし、寒いのでシャワー浴びてきます」

 

 *

 

 あの初夏の強烈な明るさをわたしは忘れない。

 教室の白いカーテンが青い空を透かして、風に揺れていた。掃除当番で床を掃いていたわたしは、クラス一のイケメンが傍を通り過ぎるとき、少しだけ身構える。そして、彼はわたしの耳にそっと囁きかけた。

「うーわ、キモッ」

 くすくす笑いとともに走り抜ける彼の後ろ姿をぼんやりと眺める。変な風に胸が疼いた。いつものことだった。

 掃除が終わって帰ろうとすると、さっき捨てたはずのゴミが全てロッカーに詰められていた。紙屑、埃、髪の毛など。溜息をついて、少しずつゴミを取り出そうとしたときだった。飛び出ていた紙屑を引っ張ると、ロッカーの中身が一気に全て降って来て、わたしは思わず尻餅をついた。明るい西日に照らされて、大量の埃がちらちらと舞う。手に掴んでいた紙を広げると、「オカマ」と汚い赤文字で書いてあった。起き上がるのも、ましてや怒りや悲しみを感じるのも億劫に思えて、しばらくただその赤い文字をぼんやりと見ていた。

「ねえ」見上げると、逆光の人影が手を差し出していた。「大丈夫?」

 風が吹いて、眩しいカーテンが膨らむ。自分だって少しは感情を持ってもいいのかもしれないとふと思った。

 それが、早野さんとはじめて言葉を交わした時だった。

 

 それから、早野さんは授業中でも休み時間でも気が向けば、わたしを連れて屋上に上がっていくようになった。当然クラスメイトたちはそんなわたしたちに冷やかしや嘲笑を浴びせかけた。

「オカマが女とできてるぞ」

「レズオカマだ」

それでもそんな時、クラスメイトの方を振り返って、舌打ちする早野さんの鋭いまなざしには誰も勝てなかった。

立ち入り禁止の看板を乗り越えて、階段を登ると、そこは青空にぽっかりと浮かんだような空間だった。

「そういえば、なんでここの鍵持ってるの?」

「やんティーからくすねた」早野さんはかったるそうに伸びをして言った。

 わたしが呆れた顔をしていたのだろう、早野さんは少し説明を加えた。

「だって、やんティー、机の上に置きっぱなしなんだもん。そりゃ無くなるでしょ」

 向こうの方から体育の授業を受けている一年の声が聞こえてきていた。

厳しいスクールカーストの世界から少し距離を取ったところから、冷え冷えとした視線でそれを眺めてきた早野さんは、いじめっ子に正面から対抗したり、先生にいじめを報告したりしても大きな効果はないと分かっていた。いじめは空気のように広がるものだ。誰か首謀者がいて、そいつを倒せば済むという話ではない。

そうではなくて、早野さんはわたしに力の付け方を教えてくれた。力というのは、成績のことだ。屋上で時々早野さんは勉強のやり方を教えてくれた。それでも、早野さんの勉強のやり方は、学校の授業よりもよほど効率的だったから、授業時間は大抵さぼっていられた。

時折、ひとつの授業時間をさぼるどころか、ふたりして寝入ってしまって、放課後になってしまうこともあった。ある時、ふと目を覚ますと、西の方の山並みが燃えるように赤く染まっていた。なんとなく、もう二度と陽は昇らないで、人類は絶滅するような気がした。隣を見ると、早野さんはそんなことも知らないで、ぐっすりと眠っていた。唇が僅かに開いて、とても無防備に見えた。

今なら何を言ってもいいだろう。普段なら照れ臭くて言えないことも、今なら言える。

「あのさ」わたしは呟いた。「ありがとう」

 夕焼け空を鳥の群れが点々と飛んでいった。掠れた声が幾分感傷的に響く。

「いつかわたしがあんたを助けるからね。約束だよ」

 

 *

 

 声を掛けてカーテンを開けると、探るようなまなざしがあった。

「薫……あのさ」

「うん」

 早野さんの大きな眼には水分の薄い膜が張っていた。

「……ごめんなさい」

 わたしは黙って頷いた。

「なんか君のセクシュアリティを否定したみたいになってしまった。そういうつもりはなかったんだけど。本当に、ごめんなさい」

 しばらくなんと答えたらよいか分からなかった。

「いいよ。わかったなら、いい」

 わたしたちはしばらく部屋の隅を眺めていた。角のところに埃が少し残っていた。彼女がすんと鼻を鳴らすのが聞こえた。

「でもさ」早野さんが鼻声で言った。「やっぱ、女ってしんどくない? わたし女に生まれて、本当に損したと思う。馬鹿にされるし、こき使われるし。タダで性的に消費されてばっかりだし。でも、だからって男なんかになりたい訳じゃない。だって、それってこのクソみたいな社会構造の中で馬鹿にしたりこき使ったり消費したりする側になるってだけだもの」

「そうだね」わたしは呟いた。「わたしだって、女性が社会的に優遇されてるなんて、これっぽっちも思ってないよ」

 むしろ性別移行の過程で、いかに女性が差別されているかを身に染みて感じたほどだった。人混みでこっちが避けなければぶつかって来られるようになったし、初対面でもタメ口を利かれるようになった。

「その点、風俗は良いんだよ」彼女はちょっと笑って言った。「わたしね、風俗で働いてるんだけど、風俗だと性的に消費されてもちゃんとお金を払ってもらえる。まあ業界自体には色々問題はあるけど、それでもわたしが働いてるお店はフェアだと思う」

 風俗という言葉が耳に入ると、加藤先生の愉快そうな口ぶりが耳に蘇って、吐きそうな気分になる。

「坊主頭にしてても、ウィッグ被ったら大丈夫だしね。普通にかっこいいでしょ、この頭」

 わたしはそんな呑気な早野さんの言葉をすでに聞いていなかった。すっかり頭に血が上ってしまっていた。後から思うと、そのとき、高校時代からずっと自分を教え導き引っ張ってきた早野さんに対して優位に立ちたい気持ちがなかったといえば噓になるだろう。それは、善意の顔をした悪意だった。

「あの、わたしからも、話があるんだけど」早野さんの方に目を遣ると、まなざしが戸惑ったように揺れていた。

「何?」

「もし良かったら、少し援助させてほしい」どう伝えればよいだろうか。「あの……、お金に困ってるんでしょ」

「えっ? どういうこと?」

 わたしは声を潜めた。

「だって、お金のために、自分の身体売るようなことして……。でも、もうそんなことしなくていいんだよ。わたしで助けられるなら……」

「ハッ」突然早野さんが乾いた声をあげたので、驚いた。「ハハハハハハハハハ」

 膝を叩いて彼女は笑い転げた。しばらくひいひい言っていたが、ふと真顔になってこちらを向いて言った。

「冗談じゃないわ」その目は爛々と燃えていた。「そもそもお金は足りてるし、それにわたし何も間違ったことしてないと思ってるから」

 今度はわたしが困惑する番だった。困っているんじゃなかったのだろうか。それなら、どうしてそんな仕事をしているのか。

「君こそ、なんでお金のためにそんな仕事してるの?」薄く笑いながら、彼女は言った。

「それは……」

「違くないでしょ、同じだよ。わたしたちはみんなお金のために仕方なく働く労働者なの。まあこの子は確かに予想外だけど、子どもは欲しかったから丁度良いかなと思って」

「でも……」

「用はそれだけ? わたしこれからマネージャーと通話するから、出ていって」

 わたしはしばらく呆然として、早野さんを眺めていた。

「出ていってって言ったの。聞こえなかった?」彼女ははっきりと言った。

「うん、じゃ」

 病室を離れると、曇り空はどんよりと暗く、電灯の光がいつも以上に人工的に見えた。

 

 車窓から外を見ると、雨が上がったのか雲間から光が差していた。

閉じた傘の下にできたごく小さな水溜まりを眺めながら、早野さんの乾いた笑いが頭の片隅でまだ響いていた。

 早野さんが失踪したという報告が入ってきたのは、その翌夕だった。

「高橋先生、お休みの日に失礼します」電話を掛けてきたのは、看護師の山崎さんだ。

 ベッドは散らかったままで、持ち物もほとんどそのままだったという。財布と携帯だけ持ってふらりと出ていったのかもしれない。こんな雨の日にどこに行ったのだろうか。

SNSで見る限り、「界隈」では、性産業に身を置くものも多かった。そんなつぶやきを見るたびに、自分は違うのだ、自分はまともな職業に就いた、とわたしは戸惑う心を整理しようとした。本当に、違うのだろうか。

「いい子は天国に行けるけど、悪い子はどこにだって行ける」そんな懐かしい声が頭の中に蘇った。

 

 真夜中の玩具箱をこっそり覗いてしまった時の驚きに、それは似ていた。

暗闇の中、好き勝手に飛び回るいくつもの音楽、さんざめく沢山の眩しい光。赤なのかドなのか、ソなのか青なのか、緑なのかファなのか、もうわたしには区別がつかない。

真夜中の玩具箱と違って、それは覗いても慌てて静まり返ったりしない。人間がいれば、なおかつ賑やかにさんざめく。

「ね、夜のユニコーンパークって特別でしょ?」早野さんがそう言っていたことを思い出す。

 こんなところに来るのは、それこそ高校時代に早野さんと行ったきりだ。その早野さんを探して、今晩は閉園間近の遊園地にやってきた。

「わたしが死んだら、このメリーゴーランドの下に埋めてね」と言って彼女はふふふと笑ったのだった。「わたしにぴったりのお墓だと思わない?」

 種々様々な光の動き。ジェットコースターは目にも止まらぬ速さで真っ直ぐ、コーヒーカップはゆったりと丸い軌道を描く。そして、メリーゴーランドは、光の饗宴。

輝きに埋もれるようにして、彼女はそこにいた。その輪郭には橙の光が差して、どこか遠くを見ていた。どこか鄙びたワルツが終わって遊具が止まると、彼女は迷わずまっすぐこちらへ歩いてきた。

「よくここが分かったね」

「困ります」あの頃年間パスポートを持っていた遊園地にまだ通っているとは大して期待していなかったので、ほとんど偶然の発見だった。「心配したんだから」

「だって、新しいパレードのシーズンが終わっちゃうところだったんだもん」

 早野さんは平気で笑った。その邪気のない笑顔がかえってつらいような気持ちになって、わたしは言った。

「……あと、ごめんなさい。あんたの職業について、酷いことを言った気がする」

 彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、ふっと少し笑った。

「いいよ」寒いのか、上着を身体に巻き付けて少し先を歩いて行く。「それより、私の方が酷いこと言ったかも」

 上空を飛行機が光りながら飛んでいった。

「本当に、ごめんなさい」

 わたしは地面に目を落とした。雨上がりのアスファルトが、色とりどりのライトを映していた。

「ああ、それは」何と言ったらよいのだろうか。「わかったなら、いいよ」

こちらを振り返った彼女はやっぱりわたしの目を真っ直ぐに見ていた。わたしはその強い目をどうにかして見返す。

「本当に理解するなんてことはしなくていいの。そんなことできっこないから」わたしはそう言って、彼女の瞳が光りながら揺れているのを見ていた。あの時と同じ、いまにも溢れそうだ。「でも、組むことはできる」

「どういうこと?」ああ、溢れ出した。

「わたしたち、やっぱり組もうよ。あの、付き合うとかじゃなくて。組むんだよ」

「組む、ね。いいよ」彼女はちょっと考えてから、とめどなく溢れるように笑った。「たしかに『付き合って』って君に言ったとき、それは本当はそういう恋愛的な意味じゃなかったかもしれない。なんていうか、もっと大事な何かだった」

 

 激しいサイレンの音とともに、回転する赤い光がそこらじゅうに反射していた。

「もうちょっとだから、大丈夫だよ」

 破水と陣痛に続き、大量の出血が始まってから十五分程度が経過していた。おそらく、常位胎盤早期剝離だろう。緊急帝王切開が必要だし、未熟児の可能性も高い。早野さんには遊園地のベンチに横になってもらい、わたしが救急車を呼んだ。

「こんばんは」到着した救急隊員が降りてきた。「早野咲希さんですね」

「はい」早野さんが弱々しく言った。

 近くの病院まで十分。手術室に消える早野さんに一言、「頑張って」と声を掛けた。

 この手術で死に至ることはほとんどないと分かっていても、胃袋がざわめくような不安を感じた。このまま死に別れてしまったら、どんな気がするだろうと思った。

 組む、とは言ったものの、それがどういうことなのか、わたし自身もよく分かっていなかった。それが恋愛とはほとんど関係のないものだということだけははっきりしていた。自分は異性愛者のようだし、早野さんに対して性的な感情を抱くことはおそらくないだろうと思う。彼女はどうだろう。あの頃、彼女がわたしに恋愛感情ようなものを抱いていたとしても、いまこのことをそれと切り離して捉えているのだろうか。

 窓の外は真っ暗で、「手術中」の赤いライトが薄暗い廊下で光っていた。〈女〉とは誰のことだろうか、とふと思った。早野さんがそこから解放されたいと願った〈女〉ということ。わたしがなりなくてなりきれないと思う〈女〉ということ。子を孕む器官である子宮のことだろうか、XXという染色体のことだろうか、それともこの長く伸ばした髪のことだろうか。何が本当の〈女〉なのだろうか。一体だれが本当の〈女〉なのか。

 手術室のドアが開いた。空気を切り裂くような赤子の泣き声が鳴り響く。

「付き添いの方、お疲れ様です。元気な女の子ですよ」

 違う、と思った。そういうことじゃない。決定的な選別と、宣言。誰も抗うことができない。医学というものの力。

「女の子、かどうかわからないですよ」そう弱々しく抗ったのは、ストレッチャーで運び出されてきた早野さんだった。

 そうだ、どこにも本当の女なんていない。偽物の女もいないように。

 医師は不思議そうな顔をしていた。わたしは苦笑して、彼女を見た。彼女も同じように苦笑していた。

 傍に寄って、わたしは声を掛けた。

「おめでとう」

「ありがとう」彼女は柔らかく微笑んだ。

 透けるように蒼かったけれども、瞳は輝いていた。

「あのさ」わたしは少し迷って言った。「この子、一緒に育ててもいいかな」

「え?」彼女は一瞬きょとんとした顔をしたけれども、すぐににやと笑って言った。「いいよ、もちろん。わたしたち、組んだら最強だからね」 

全部通じた、と思った。大丈夫、わたしたちは最強だ。

 彼女が宙に振りあげた拳は、金色に燃え上がって見えた。わたしはそこに、自分の拳をぶつけた。