終着駅にて

和泉陽

単線しかない地元の駅から終点の駅で降りると、そこはものすごく田舎で、広々とした駅のロータリーはぽつりぽつりと車が止まっていた。駅まで車でくるのがきっと一般的なんだろう。それは、僕が生まれた町でも同じことだけど。

今の電車が終電だから、今日はもうこの町で過ごすしかないんだろうけど、ビジネスホテルもみつからないし、ネットカフェは年齢確認でアウトだ。未成年が夜を越せる屋根のあるところなんて限られている。…大丈夫だ。わかっていたはずだから。もともとお金もそんなにたくさんあるわけじゃない。必要最低限のものは背中のリュックにつめてきた。あの家を出ると決めた時から、ひとりでなんでも出来て、生きていけるようにならなきゃいけないことはわかっていた。街灯もぽつりぽつりとしかないこの町で、かろうじて商店街と思われるシャッターの閉まった路地を歩いてみる。シャッターの閉まったおそらく焼き鳥屋さん。さっきまでやっていたであろうドーナツ屋さん。チェーン店の居酒屋さん。古びたアパートの下にある小さな薬局。平日の夜はもう人はあまり歩いてなくて、もう少し歩くと見たことのないコンビニがあった。24時間営業のハンバーガー屋さんに入ったら通報されるだろうか。建物に紛れて地下に降りる階段があった。重そうな色とりどりのステッカーが貼ってあるドアはもう閉店していそうだ。ここなら誰にもみつかりそうにない。この地下の階段を今日の寝床として、カバンの中からくしゃくしゃに小さく折り畳んだダウンジャケットを取り出して階段下に座った自分の身体を包む。これまでもいろいろあったんだ、今更外で寝るくらいなんでもない。大丈夫、そう思っても眠りはなかなか訪れてくれなかった。背中に背負っていたミニギターを抱き抱え直す。しっかりしないと。今からこんなんじゃ先が思いやられる。一冊だけ持ってきた文庫本の小説にはしきりに「世界一タフな15歳になる」と書かれていた。でも彼にはお金があった。それはとても大きな違いだ。そもそもお金でたいていのことが解決してしまう世の中自体が理不尽だ。そんなことをぐるぐる思いながら空が白んじできた頃、ようやくウトウトしてきたと思ったら、よりかかっていたドアが開いて背中から突き飛ばされる形になった。惨めに床にへばりついてる自分をだいぶ上からたくさんの大人が見下ろしてくる。

「あれ、なんかいる。子供?」

「え、こんな時間に?」

こんな時間に、と言われてスポーツタイプの腕時計を眺めると時間は4:33を表示していた。おそらく朝の方の。というかそれどころじゃない。大人に見つかってしまった。通報されるかもしれない。ざわざわとその数名の大人たちは自分の存在について協議していた。わかっている。どこにも居場所がないことなんて。コドモは然るべき場所で身の程にあった暮らしをすべきだって。すると突然大人たちの協議の声の中から

「きみ、ギター弾くの?」

と、後ろでひとり黙って腕を組んでいた髪の長いお姉さんがよく響く声で聞いた。よく見ると数人の中でも言葉数が多いわけでもないのに飛び抜けて目立った。

「あ…はい。」

なんて間の抜けた返事だろう。急に心細くなって僕は抱えていたギターをきつく抱きしめた。

「えー、なんか面白そうじゃん、ちょっとなんか演ってみてよ。なんでもいいから。」

そう言って重そうな地下の扉を通された。おい、いいのかよ、という他の大人の声も入り混じって、でも彼女の言葉は絶対なようでみんなが従って入っていくのに僕も続いた。中には広いホールに飲食店みたいなソファとテーブルか並んで、バーカウンターが入り口側にあり、奥にはピアノやドラムの置いてある小さなステージがあった。彼女がピアノの椅子に座った。鍵盤に乗った指が跳ねて音を確かめるように小気味良く鳴った。弾け、ということだろうか。そんなことを言われても、なんでもいいが一番困る。かと言って指定されたってなんでも弾けるわけじゃないけど。大人相手に、しかもこんな場所で普段弾いてるような曲を自分なんかが弾いても、恥かいて笑われて終わりだ。

「おいおい、こんな子供にむちゃぶりもいいところだろ。」

鍔広の帽子を被った背の高い男の人が笑いながらいった。心の中で援護する思いだったが、指はもう準備し出していたし、お腹の中は渦巻く不安と熱が同時に絡み合って体全体を熱くしていた。覚悟を決めてミニギターをおろしてソフトケースを開ける。最近練習してた曲で、一曲だけ有名な洋楽があった。まだ完全に弾けるわけじゃないけどケースから出したミニギターを抱えてチューニングを始めた。さっきのお姉さんが、

「へー。チューナーなくてもチューニングできちゃうんだ?生意気だなぁ、今いくつ?」

「今年14になりました。」

正直すぎたかなとハラハラしつつ、2弦のペグを回しながらチューニングにも会話にもこれでもかってくらい緊張しながら答えていく。

「いくつからギター弾いてんの?」

「11の時にもらったギターに弦張って…これは持ち歩き用でバイトして買いました。」

「持ち歩くほど大事なんだ?ギター。」

その人に見つめられてどこまで話そうかと逡巡していたが、結局いつも正直に喋ってしまう。

「…他には、何もないから。」

一通りの弦をチューニングし終えて、もう一度確認のために1弦づつ音を鳴らしていく。お姉さんは椅子を反対に向けて背もたれの上で両腕を組んでそれを眺めている。明らかに面白がっていた。どうせ相手は中学生だとおもってからかわれてるだけだ、だけどそれでも構わなかった。ずっとひとりと一本で生きてきた。今更失うものなんて何もない。気恥ずかしいような、それでもうずうずした何かがみぞおちの内側で熱を持って爆ぜる。

 

大きく息を吸って、よっつパームを打って裏から勢いよくイントロを弾(はじ)く。音がブレてしまった。でも構わない。ノリのが大事。怖気付くな。のっけからパームとスネアをモロに入れていく。そのうちに世界は今ひとりと一本になり、他のことは気にならなくなった。いつもそう。音が鳴れば世界は自分と音しか存在しなくなり、完全な孤独が完全な孤独から救ってくれる。小気味良くボディを鳴らすとまた弦を爪弾く。お姉さんと目が合う。イントロの有名なフレーズが、びびって揺れてミスりながら部屋に響き渡る。

ギター一本でのbeat it。そこまで洋楽に詳しいわけじゃないけど、最近売れてるポップスよりも響くと踏んだ。視線が肌に刺さる。人に見られながら弾くってこういうことなのか。生まれて初めての感覚に高揚する。1人と一本で成立していた世界に人が入ってきた。無限に音を広げていく。もっといける。この世界観を…

ホールで打ち合わせをしてた人たちの歓声が聴こえる。そうか、人が聞いても大丈夫な曲なんだ。ちゃんと弾けてるんだ。ふと顔を上げるとお姉さんと目が合う。指を鳴らしながら立ち上がって近づいてきた。サビも中盤にさしかかるとマイクを取ってこっちに視線を送る。

「〜〜♪」

独特のハスキーな声でデタラメな英語で合わせてきた。自分の音に歌がのって、というよりも彼女の歌で周囲がさらに沸き立つ。少しかすれて、でもビリビリと伝わってくる圧倒的な声量に腰が引けながらも、まだ、まだいけるはずだ。この人は本当はもっとうまい。本気出して歌わせてみせる。2番からはカッティングを派手に入れてよりロックなテイストを出していく。この人のこの独特な声はきっとバラードよりもこのほうが映えるだろう。

「No one wants to be defatted 〜♪」

終わる頃にはみんなの大歓声と汗にまみれて、2人で目を合わせて自分でもびっくりするようなにっこりとした笑顔が出た。何かを楽しいと思ったのなんて、どれくらいぶりだろう。

「も〜サイッコー!めっちゃ気持ちよかった〜!!」

彼女は身体をより高く高くへと届かせるように高く長い伸びをしながら、顔をくしゃくしゃにして音を分かち合った喜びを噛み締めていた。

「あやかさんがそんなにノリノリでいくの珍しいっすね、最近スランプ気味だったから。」

彼女はあやかさんというらしい。そして最近はこんなふうにして全開で歌うことはなかったのだろうか。

「いやだってさぁ、あれ聞いたら誰だって熱くなるっしょ、身体が黙ってないよねー。しかし選曲も渋いけど、なんでスラム奏法?」

「…1人と一本で、全部表現できたほうがいいと思って。」

「なるほどね。若いのに、しかも女の子がそこまで弾けたら大したもんだよ。ブルースとかもいけんの?」

「…スリーコードセッションならなんとか。」

あやかさんは壁にかかったアコギを僕に渡し、あやかさん自身もアコギを一本取って肩にかけた。

「オーケイ、したらキーは、Aで。あとは合わせるから。それとこれ予備のアコギ。ジャック、わかる?そうそう、それじゃ、いくよ。」

Beat itがアップテンポだったので、キーはAで、ゆったりとしたスローブルースから入った。合わせるから、と言われても、こちらは合わせられるのは初めてだ。そもそも誰かと弾いたことなんてない。重なってきたらどう応戦していいかわからない。それでもあやかさんはしっかりと重なってきた。今更ながら、この人ギター弾けるんだ、と気づいた。さっきは鍵盤に触っていたからてっきりピアニストなのかと思っていた。そして今度は自分があやかさんにあわせるのではなく、あやかさんが自分に合わせているのだ。小気味良くいくつものフレーズが指から生まれて、リードを弾いているこっちが心地よくなるような、やはりどこの場所でも、どの立ち位置でも、この人は人を魅せてくる。お互いにソロを弾き合い、途中からコントラバスとドラムが入り、一気にグルーヴ感が増してきた。人と音を重ね合わせてひとつの音にするって、なんて気持ちいいんだろう。同じフレーズをもう2ターン回して彼女が少し歌って小気味好く締めた。みんなで弾くということはお互いの目線や呼吸を合わせなくてはいけないんだと知った。

「きみ、名前は?」

重なり合う音の中で、音はいつだって言葉よりも雄弁で、鮮明にその歌声は僕の胸を捉えた。その日から僕はこの人に、音に魅せられて、溺れ、焦がれた。


 

「んー、ボツ。」

「えっ?」

「リフがさー、背伸びした感じがするんだよね。みんなの音ちゃんと聞いてる?ノリがずれてると全体乱れるから。下手でもいいけど、つまんないのは、だめだよ。」

つまんない。

自分の音がつまんない、と、これほどはっきりつきつけられたのは初めてだった。彼女に認められて嬉しくなって、もしかしたら一緒に演れるかもと思って少しでもうまくみせようと思ったことまで見透かされてて…音はいつも言葉よりも正直だ。

「さて、お遊びはこの辺にして、そろそろリハに入りますかー。」

ここからは大人のお仕事だ。あやかさんたちはこの地下にあるジャズバーでジャズバンドとして活動していて、この間朝方出逢ったのは店を閉めてから時々練習させてもらっていて、たまたま買い出しに出かけた時のことだったらしい。結局あの日の朝はみんなとセッションをして、お互いの話やあやかさん達のバンドの話を聞いたりして昼近くまで盛り上がった。その頃にはおひさまもすっかり昇っていたので駅からかなり歩いたところにあるネットカフェに未成年でも入れる時間帯に入って眠ることが出来た。そして夜はジャズバーに入り浸る生活を続けている。とはいえお金は尽きかけてきた。偉そうに家を飛び出してきたくせに、お金もギターもこの先も、どうしていいかわからない。地元にいた時の知り合いの家の農作業みたいに中学生でもできるバイトなんてない。

履歴書を誤魔化したら働けるだろうか。でも住所は?携帯代はいつ止まるんだろう。不安なことを考え出したらキリがなかった。そんな不安や焦りが、早く大人になりたい気持ちが音にも出るんだろう。借りていたギターを片付けて自分のミニギターを抱えて指練習をしているとピアニストの祐介さんに肩を叩かれた。

「あやかは妥協しないから。それでも翼のことは評価してるよ。でなけりゃスタジオ入れたりなんかしないし、実際それだけ弾けたら大したもんだ。」

「そうかなぁ…全然足元にも及ばない感じがするよ。」

というと、祐介さんに鼻で笑われてしまった。

「そりゃ生きてきた年数も弾いてきた年数も桁が違うんだから、及ばれたら困るわな。これでも俺たち、これで飯食ってるからけっこう必死よ?」

まだ店が開く前の、バーテンさんも照明さんも準備している中、ステージの上では音響さんとあやかさんたちがマイクテストや機材の確認をしていた。謎の呪文みたいな不思議な発声をマイクに通しているあやかさんは歌ってなくても人の目を惹きつけた。気がつけば目で追ってしまう。リハの間は長い髪を後ろで束ねてしばって上げていて、マイクを握りながらあちらこちらから音声のチェックをし、曲によっては弾きながら歌うキーボードの機材の確認をしていた。僕は今日のライブのラスト前の曲が好きだ。祐介さんが作ってあやかさんが歌詞を書いた切なげなメロディラインに、少しもラブソングじゃない歌詞が載っているバラードが耳について離れない。あやかさんの書く詞は恋とか愛とかよりも生きることや日々のことを歌っていることのほうが多かった。

「祐介さんはあの曲は、どんな想いで書いたんですか」

「翼が好きなやつ?」

こくりと頷くと祐介さんは何かを考え込むように鍔広帽の先を掴んで少し深く被り直した。

「そうさねぇ…自分を、変えたかったかな。」

「変えたかった?」

「うん、俺の書く曲って、というかあやかが歌う曲ってさ、ゴリゴリのジャズっていうより、それをちょっとポップなテイストを噛ませてるじゃない?よく言えば今風、悪く言えば売れ線。もっと本当に俺たちが演りたい音楽、俺が演りたいってそもそもなんだったんだろう。売れる曲、人を惹きつける曲、あやかの声を魅せる曲、そういうこと考えてると、なんで音楽やってんのか、わかんなくなっちまうことがあってね。あれはさ、うちのバンドが、っていうよりもそもそも俺がなんで鍵盤弾いてんのさ、ってことを突き詰めた時に出来た曲だったんだよね。」

「なんで弾いてるか…」

「ガキの頃からピアノ弾かされて、たまにいるじゃん、合唱コンクールとかで男のピアニスト。ああいうの、すげー嫌で。クラシックの気取った退屈な曲も嫌いで。でも俺に出来ることって結局ピアノしかなくて。嫌で嫌でたまんないのに辞める機会もなくて。高校ん時さ、軽音部の助っ人でキーボード弾いたんだけど、これだ!って思ったんだよね。ピアノってひとりじゃん。でもバンドには他のパートがいて、バンドで音を作っていって、それが楽しくてさ。でもいつのまにかキャッチーな曲ばっかり書いてる自分に気づいて。それで久しぶりにピアノの前に座って、ひとりでピアノ弾いたよね。俺はピアノが本当に嫌いだったんだろうか。ピアノが嫌いというよりも、男のくせにっていう前置きが嫌いだったのかもしれない。そう思ったら死ぬほどピアノが全面に出た、メロディアスな曲が書きたくなった。バンドのためというより、俺の指が喜ぶようなエモい曲が、気がついたら出来てた。」

「すごく、わかる気がします。」

男のくせに。誰が決めたのかわからない赤と青の線引きが、世界には無数にある。僕も何度、女の子なんだから、女のくせに、と言われ続けてきただろう。ギターだってそうだ。女の子なのに。必ず僕は「女の子のギタリスト」として扱われる。だから評価される。これが男の子として弾いていたら多分、「そんなもん」で終わるだろうということはわかっていた。

「だからさ。」

祐介さんは僕の頭をくしゃくしゃにかき回しながら立ち上がった。

「翼はもっと自由に弾きなよ。何に囚われてるのか知らないけど。」

目深に被った鍔広帽を被り直して、祐介さんはステージに向かった。

 

今日のライブはMISIAのオルフェンズの涙のカバーから始まった。酒を楽しみにきたのか、ジャズを楽しみにきたのか、それともその両方なのかわからないけれどまばらだったお客さんがぽつりぽつりと入ってくる。今日は金曜日だからあやかさんたちも気合い入ってるし、店のマスターからも色々言われていた。好きなことを仕事にするって、いや、好きなことを仕事にしているからこその辛い部分とか苦しいところってきっとあるんだろう。好き、だけじゃお金にならない。働くことの難しさを改めて感じた。中学生の僕には一体何ができるだろう。中学生でなくなったら、何かは出来るのだろうか。

客席の隅でジンジャエールを氷がとけて薄くなるほど大事に飲んだ。もうお金は3000円を切った。仕事も見つからない。学校にも行っていない。今の生活にも限界を感じていたけど、なにも出来なかった。僕は非力だ。ステージの上のあやかさんは輝いて見えた。今日も綺麗だと思った。あやかさんに限らず必死に自分と向き合って生きている人の姿は美しい。僕が生きてきた世界にはいない類の美しさだった。みんなきっとつらいことはなるべく見ないようにして日々を誤魔化して流されるままに生きている。そのことに疑問を抱かないほどに考えるということを放棄しているように感じる。でもここにいる人たちは違う。目の前のことに、どこまでいっても至らない自分に、踠き苦しんで真剣に生きている。大人になるってもっと生きるのが楽になることだと思っていた。だけど本当はそんなことはないんだろう。大人になっても苦しさを誤魔化さずに向き合うからこそ、内側から魅力が出てくるんだろう。じゃあ自分はなんなんだろうと考えるとまた打ちひしがれた。ジンジャエールのグラスから滴る水滴がテーブルを濡らしていて、まるで時間を潰してありあまる無駄を排出している気分だった。

無駄。母親の言葉を思い出す。昼間からお酒を飲んで、ありとあらゆることに文句を言い、そして最後に必ず言うのだ。

「こんな人生になるはずじゃなかった。」

僕は決めたのだ。この人みたいにはならないと。人生を無駄にするかどうかは、僕が決める。無駄な人生になるかどうかは、今で決まる。文句を言ってるひまがあるなら僕は自分の人生を自分のものにする。でも実際にやってることは、なんなんだろう。あの人みたいに生きたくなかった。でもあんな人でもいないと生きていけない自分の弱さはもっと嫌だった。14歳は窮屈だ。バイトも出来ない。親のもとで育てられるしかない。僕にはあの人よりももっと何もない。早く大人になりたかった。

 

今日のライブが終わった後、お客さんのノリがあまりよくなかったせいかみんな気合いが入っていて練習には参加させてもらえなかった。プロだから当然だ。もしも僕が…このバンドで弾かせてもらえることになったらこの町で、みんなと、あやかさんと生きていくことはできるのだろうか。どのみち中学生にできるバイトなんてないんだ。頼んでみる価値はある。もっと練習して、うまくなって、そしたら…

「さて、今日はこのくらいにするかー。」

リーダーでコントラバスの譲次さんが声をかけてみんなが片付け始める。みんな自分の楽器を背負って屋根のある家に帰るのだろう。大人になるということは自分の家を持てる権利があるということだ。みんなまちまちに帰る。あやかさんが鍵を閉めながら聞いた。

「そういえば翼はさ、家どっちなの?まだ暗いし、送ってくよ。」

答えに、つまった。あやかさんが、苦笑いをしながら

「そーじゃないかと思った。帰るところがないから、あの日地下で寝てたんでしょ?あたし達だってバカじゃないから。気付かれてないとでも思った?」

あやかさんの車に乗りながら今の手持ちの金額や家を出た経緯を説明した。

「なるほどね。まぁあたしも実家が好きだったらこんなヤクザな生活してないけどさ。」

ヤクザ?音楽を仕事にしてることとは別にヤクザなのだろうか。そう聞くとあやかさんは

「いろんなヤクザがいるんだよ、この世の中には。」

と笑った。そういうもんだろうか。しばらく走ってついたアパートはかなり古くて狭くて、布団とやかんと多少の衣類と、とにかく必要最低限のものしかなかった。

「ちょっと待ってなね、お腹すいたっしょ?今日は特別に卵入れちゃっから。」

そういいながらキッチンでインスタントラーメンを作るあやかさんは普段インスタントラーメンに具は入れないのだろうか。ステージでの華やかな姿とはかけ離れている。今日のライブでは使わなかったけどいつも持ち歩いているアコギは押し入れの前のキーボードの横に立てかけられてある。必要最低限のものしかないのにキーボードや楽譜やCDなど音楽にまつわるものはそれなりにあった。

2人で床に座り、インスタントラーメンを食べながら、僕は思い切って切り出した。

「あやかさん、ぼく、あっ、わたしを…」

「いいよ別に僕で。」

「ごめんなさい…」

「なんかそんなような気はしてたから。で、何神妙に。」

「僕もあやかさんのバンドに入れてもらえないかって思って…」

「…もしかして、バンドで食べて行きたいとか思ってる?中学生でバイトもできないし?」

頷くとゲラゲラと笑われてしまった。

「音楽だけで生きていけるわけないっしょー、あたしだって明日も朝からバイトだよー。」

しかも明日は引っ越し、と言いながらビールの缶のプルトップを開けた。家に着いてから二本目のビールだった。お酒に弱い人なのだろうか、いつもよりも陽気で、かわいかった。

「みんなそうやって自分の生活を切り詰めながら音楽やってる訳。仕事して、練習して、ライブやって、また練習して。全然儲からないよ残念ながら。家出した身を立てていくのは無理だねぇ。」

子供だなぁ本当に、と言われ、後ろから抱き抱えられながら頭をくしゃくしゃにかき回された。背中に胸が当たる。耳の後ろあたりにある顔が近い。顔が熱くなって心拍数が上がるのを感じる。やばい、バレる。

「やめてよっ…。」

「なんだよー、照れてんの?」

「そうじゃなくてっ。」

逃れようとしてもがくと笑い転げられて余計にくしゃくしゃとあちこち撫で回される。気がついたら僕はあやかさんを押し倒して、キスしていた。はじめてのキスではないけれど、こういう流れになった怒りやら、興奮やら恐怖やらが入り混じって訳が分からなくて何かを感じている余裕なんてなかった。僕の腕の下で黙り込んで見つめ返してくるあやかさんに、堪らなくなって振り絞った。

「…好きです。」

「うん、知ってる。」

…なんだそれ。なんで知ってるんだ。ていうか人の必死の告白に対してそれはないだろう。また子供扱いして笑うつもりなのか。高まる思いと沸る想いでもう一度乱暴に口付ける。離れた瞬間、額に衝撃が走った。デコピンをされたらしい。

「調子のんな、バーカ。」

また子供扱いだ。僕の腕に組み敷かれて鋭く見上げてくる目を直視できなくて思わず顔を背ける。

「だって…知ってるとかいうから、、。」

「そーゆー問題じゃない。中途半端だなぁ、もう!」

僕の腕を振り払い、起き上がってから僕の前に座り、まっすぐこちらを見て指を指してきた。

「音に対しても、人生に対しても、全部中途半端なんだよ。音楽でやってきたいなら覚悟決めて本気出せ。家を出たいならちゃんと向き合え。どーせなんの覚悟もなく先のことも考えずに出てきたんでしょ。同じ家出るでも、14歳でもいくらでもやりようあるんじゃないの?音楽やりたいなら別にあたしのバンドじゃなくても出来るだろ。そういうの、ちゃんと考えたことあんの?地に足もついてない小僧が、いっちょまえに好きとか言ってんな。そういう甘さが全部、音に出てんだよ!」

ぐうの音も出なかった。たしかに自分は無計画に家を出てきた。先のことや将来どう生きていくかを、たまたま出逢ったあやかさん達のバンドにあわよくば委ねようとしていた。

「本当にあたしが好きでこの先一緒にやってきたいなら、置いてきたもんにきちんとケリつけてくんだね。言っとくけど子供だとか女の子だから、関係ねーから!あたしと対等に並びたければ、きちんとケジメつけて、覚悟決めてからもっかい来い。」

「それって、つまり僕がちゃんとしてきたら、また違ってくるってこと?」

「さぁねぇ。あたしだっていつまでもピアノだけが恋人じゃないだろうし、あたしが欲しけりゃ死ぬ気で挑め。朝になったら、家まで送ってってやるから。それでちゃんと色々、自分でしてきな。家族とも、学校とも。」

「帰りたく…ないです。」

「あたしだって帰りたくないよ実家なんて。でもいつかは対峙しなきゃいけないんだよ。まして未成年で家を出たいなら尚更。」

ふぅ、とため息をついて缶の残りのビールを飲み干した。

「バイト前に送るから、朝早いよ。今日は早く寝な。」

死刑宣告だった。あの家に戻ったら、もう世の中が用意した暗黙の了解のレールに乗って、普通の人と同じ道を歩いているふりをしなきゃいけない。そんなの成れっこないのに。でも…それと戦わなきゃいけないんだな、将来のためにも、この人に認めてもらうためにも。暗く陰鬱な、酒瓶の転がった団地を思い出した。あの人たちは、自分を探してるだろうか。


 

朝の車の中はお互い言葉少なだった。そもそも早朝からあやかさんはこれからバイトだっていうのに千葉の田舎まで運転してくれている。終点で降りた駅だったからずいぶん遠くに来たつもりだったけど、車だと1時間もかからずに着きそうだ。あの町に戻ると思うと急に胸が苦しくなった。なんで僕はあんなところに帰らなきゃいけないんだろう。こんなに背骨の綺麗に並んだ人たちから離れて、あのくすんだ町に帰るなんて、せっかく少しでも、自分という生き物でも息が出来る場所を見つけたのに。

「ねー。」

先に口火を切ったのはあやかさんだった。

「…なに?」

「そういうのってさー、物心ついた頃から、そうなの?」

「なんのはなし?」

あやかさんはちょっと気まづそうに運転席から目を逸らさずに聞いた。

「翼はさー、女の子が好きなの?」

女の子が好きか…そう言われるとそうかもしれない。これまで好きになったのはみんな女の子だ。でも…そういうことじゃない。

「僕は、あやかさんが好きなんです。」

自分で言っておきながら耳まで熱を持つのを感じる。

「そっかー、それは男の子として?」

難しい質問だ。僕は男の子だったらよかったのに、とは四六時中思ってるけど、自分が男の子だっていう実感はないかもしれない。

「わからないです。僕が聞きたいです。」

ダメだ、全然言葉にならない。どれだけ言葉を尽くしても、正確には表せない気がする。自分でもまだらよくわかってないことを、人に説明するのは無理だ。

「でも…」

「うん。」

「そういうの関係なく、僕はあやかさんが好きなんです。」

「それ、何度も言ってると、照れない?」

「めちゃくちゃ恥ずかしい。何度も言わせないでください。」

「でも、こんなストレートに気持ちぶつけられるのなんて久しぶりだから、嬉しかったし、揺れたよね。」

「気持ち悪く、ないですか?」

「別に?なんか逆に正しい感じがして考えさせられたわ。何で好きになる人を性別で半分切り捨てなきゃいけないんだろなとか。」

ウインカーを出して車は信号で止まった。名前の知ってる土地の名前がちらほら出てきたから、もうすぐ僕の嫌いなあの町に着くのだろうか。時間が、止まればいいのに。

「あたしさー、翼の音好きだよ。孤独で人にも音にもハングリーでさ。なんか音楽始めた頃の暑苦しい気持ちを思い出させるんだよね。」

「暑苦しい…」

「うん、いつまでもその気持ちを貪欲に持っていたいと思いつつも、やっぱり日々に追われて最初の頃とは違ってきちゃうんだよね。」

窓から見慣れた町並みと田んぼが見えてきた。あやかさんにはあの家をみられたくないからそろそろおろしてもらわなきゃと思いながら、この時間を終わらせたくなくて言い出せないでいた。でもあやかさんだって暇じゃない。バイトもあるし夜はジャズバーもある。昨日も夜中こっそり腹筋してたり、朝ラジオをつけながら発声練習をしてるのも、気づいていた。みんな必死に生きてる。この町にはそれを諦めて不満を並べて退屈してる人しかいないけど、昔はこうして一生懸命生きてたのかもしれない。だからって同情の余地はないけれど。

 

「…また会える?」

自分でもこんな不安げなが出るんだ、と思うほどの、つぶやくようにか細い願いが耳から入って頭の中を群青色に染めていく。いつもの大人特有の「いつかね」と言われて、はぐらかされるのが怖かった。相手は大人で、しかも歌手で、連絡先もしらなくて、女性だ。そして自分は、まだ世の中のこともろくに知らない、どうしようもなく子供な、ただの中学生だ。

「なんでー、今度ジャムろうって話したじゃん。またおいでよ。いつでも。」

「絶対?」

「うん、絶対。」

「その次も?」

だめだ、これじゃまるで子供の駄々だ、そう思いながら泣きそうにすがるように何度も確認すると、困ったような顔で彼女は笑って頭をくしゃくしゃっと撫でた。

「あ、そうだ駅前のドーナツ屋さん、改装したんだよ。バナナマフィン新しく出るって。次きた時はさー、一緒に食べようよー。」

それではまるで一生こないいつかな話をしてるみたいで、切なくなった。僕は自分から切り出した。

「毎日8時間練習する。学校も、家も、自分で生きてけるように頑張る。だから…待っててくれますか?」

それを受けて顔を崩して笑ったあやかさんは、思いっきり宣言した。

「待たねーよ、さっさと這い上がってこい。そんであたしの後ろで弾くのに相応しい音出しな。」

「…そういうところ、やっぱり好きです。」

「前向きに検討しとくから。言っとくけどあたし思ってることしか言わないから。翼のことは好きだし。」

好きだし。その言葉で心臓が跳ね上がって息苦しくなると同時に、どこまででもやれそうな気がした。僕の想う好きと、あやかさんの想う好きは、違うかもしれないけど。

十分だった。あとは自分が変わらなくちゃ。

「もう行きます。この辺で大丈夫です。」

「えっ、家まで送ってくよ。ご両親にもちゃんとあたしがご挨拶したらだいぶ違うんじゃないかな?」

「そういうレベルじゃないんです。あやかさんにはみられたくないし、ここから先は、自分で歩きます。」

やや沈黙の後、納得したようで、そっか、と近くのこの町に一件しかないスーパーの駐車場に乗り入れて助手席のドアを開けてくれた。

「じゃあ、元気で。」

「また遊びに行きます。」

短い挨拶をして、僕は背を向けて歩き出した。振り返ると泣きそうになるから、ひたすら目の前の片付けなきゃいけない問題について考えた。きっと僕は遊びにはもういかないだろう。少なくとも自分の足で立ち、あの人たちと音を交わすのに相応しい自分になれる日まで、安易に足を踏み入れてはいけないと感じる。次に行く時は真剣に行く。もう逃げるためには使わない。

結局、世界一タフな15歳にはなれなかった。完敗してまたあの家に戻るのだ。でもあの15歳の少年も、最後には家に帰ったはずだ。タフであるということ、大人になるということは過去ときちんと向き合って精算することなのかもしれない。

昨日のライブの最初であやかさんたちが演った、MISIAのカバーのオルフェンズの涙が頭の中をリフレインしていた。