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優柔不断の憂鬱

和泉陽

珍しく休みの日の午前中に目が覚めた。それはもう、スッキリ、という擬音語がぴったりなほどに睡魔になんの未練もなくはっきりと意識も頭も冴え、まさに新しい1日を迎えるのにふさわしい、気持ちのいい目覚め方だった。僕がベッドの横で起き上がり伸びをすると、隣で体を折りたたんで寝ている長くて細い大男は軽く文句を言うように寝返りを打った。いいことだ。寂しがり屋な彼はいい歳して休みという休みをひとりで過ごすことが出来ず、仕事がなくても何かしらの予定を入れていて、結局いつも疲れているから眠ってくれていると少しほっとする。人にばかり奉仕して、パートナーには振り回されて、あまり自分を労れない人なのだな、と思いながらその長いまつ毛の寝顔を見遣る。お互い夜遅く朝遅い仕事をしているので一級の遮光カーテンのわずかな隙間から漏れる光だけではあまりはっきりとは見えなかったけれど。

起こしては申し訳ないと思い、静かに寝室を出るとカーペットの上でインストラクターの陽気な音楽と声に合わせたストレッチを、アプリを起動させてその指示通りに丁寧に身体をほぐしていく。そこまでハードなものではないけれど、毎朝やるにはちと根気がいる。もっとはっきり言うと面倒くさい。だけどやってると身体が調子が良くなるのが確実にわかるので、出来そうな元気がある時にはなるべくやるようにしている。そう、今日のようにやたらすっきりと目覚めた朝とかは。

ストレッチも終わり身体も興り始めたら、なんだかいろんなやる気が満ちてきて、今日はすごくいい日になりそうな気がしてリビングのカーテンを開けると光が部屋中を刺すように入り込んでくる。僕は無精な人間なので、ここは四階だしカーテンなんてなくてもいいし、カーテンなんて開けなくても生きていけるけど、こういうささやかなまともな人っぽいことをしている自分が好きなので、出来るだけ物事はきちんきちんと収まるところに収めておきたいし、規則正しい生き方をしたい。その想いはもしかしたら自分が不誠実で背徳的な人間であるというところからくるのかもしれない。それは今の一緒に暮らしている人が同性だからとか、彼には長く付き合っているパートナーがいるいうのはあまり関係がない。僕個人の生い立ちや、それにまつわる気質的な部分からくる。

 

リビングにもキッチンにも灯りをつけて、朝の光で部屋を満たす。まだ肌寒く椅子にかけていたグレーのパーカーを羽織ってキッチンに立つ。口が細く伸びたコーヒーポットに火をかけ、久々に本気で美味しいコーヒーを淹れようかと思い、百均で買った百均にしてはいい値段のするミルを取り出して豆を挽く。ゴリゴリと小気味いい音がする。2人分のコーヒーにおかわりをすることを考えると挽く豆の量はけっこう多くなる。ミルのハンドルを回す作業は単調でそれでいて少し力も使うので途中で疲れてくる。手を止めて給湯器からのお湯で2人分のマグカップをお湯で満たして温める。マグカップを温めておくのとそうでないのとでは、コーヒーの味は格段に変わる。もちろんコーヒーピッチャーなどの他の機器もあらかじめ温めておく。カップの周りについた余分な水滴をダスターで拭き取りながらキッチンにいつもの手順通りに並べていき、豆を挽く作業に再び戻る。

「お、ラッキー。今日は朝から美味しいコーヒーが飲めるなんて。」

「ごめん、うるさかったですか?」

「いや全然。なんか休みの日って早く起きちゃうんだよね、勿体無い感じがして。」

心の中で小さく舌打ちをする自分がいた。普段終電で帰ってきて、そこからまたさらに仕事をして毎日午後には出勤しなきゃいけなくて寝不足なんだから、休みの日くらいしっかり寝て欲しい。でもそれと同じくらい、自分にとっての気持ちのいい朝の時間を分かち合えるのも嬉しかった。この人のこういうさりげない優しさに、どれだけ救われただろう。僕が豆を挽いている間も、テーブルの上を片付けて拭いたり、コーヒーを飲める体制を整えてくれている。いつもそう。相手がどうしてほしがっていて、どう動けば気持ちよくなるのかを、よくわかっている。誰に対しても。だから疲れてしまうのだろう。ポットからフィルターの上にまんべんなく敷かれたコーヒー豆にゆっくりとお湯を注ぐ。むくむくと挽きたての豆が膨れ上がり、あたりは香ばしい香りが立ち込めている。集中してたので気が付かなかったが、彼はいつの間にかキッチンに入ってきていて、

「せっかく美味しいコーヒー淹れてくれてるんだし、トーストもつけない?」なんて呑気に幸せな提案をしてくる。

「じゃあ、僕はレーズントーストで。もう一枚は普通にバタートーストですか?」

「うん、俺はシンプルでいいの。シンプルなものが一番素朴で美味しいからね」

僕も普段はそれに倣ってバタートーストにしているし、それを気にいってもいるのだけれど、時々レーズントーストが食べたくなる。だからうちの冷蔵庫には普通の食パンとレーズン食パンと2種類が常にある。凝り性な彼は食パンが焼けるまでの間にリンゴとバナナを刻み、ヨーグルトとシナモンをかけ、フルーツサラダまで作っていて、剥いた果物の皮はきちんと三角コーナーに入れ、使ったナイフやまな板もきれいに洗って片付けてみせた。なんにせよ、マメなのだ。

「先に運んでるよー。」

と、手早くカトラリーとフルーツサラダ、トーストとバターをトレイに乗せて運んでいく。あとはコーヒーを待つばかりだけど、急がなくていいから、と言わんばかりにタバコに火をつけて、ついでに見もしないくせにテレビもつけた。思えばお互いの休みが重なるなんてずいぶん久しぶりだ。充実した朝を好きな人と分かち合える。これを幸せと呼ばなくてなんと呼ぶのだろう。

 

午後からは彼は録画していたウィンブルドンのテニスの試合を観るというし、僕は身体を動かしたいので市営のプールに行くことにした。外は冬の尖った空気が少し丸みを帯びてきて、春の気配が混じりあっているのを頬に触れる風や匂いから感じる。空を見上げると水色の絵の具を水で薄めたような透けたコパルトブルーに散りばめられた雲の隙間から降りる天使の梯子が泣けるほど美しくて、恋をしているのは僕なんだよなぁ、と思ってみる。彼の方でも憎からず想ってくれてはいるのだろう。でも僕たちはプラトニックだし、いわゆるパートナーという間柄とは少し違う。友達以上恋人未満。傷ついた2人が、今は寂しさを埋めるために、生きる辛さに飲み込まれないように、いっ時を同じ屋根の下で同じ釜の飯を食う、そのことでなんとか生き延びている、そんな感覚が強い。

僕は臆病だ。これまで普通になりたくて女性と結婚したこともあった。その結果、ずいぶんお互い傷つけあった。大切だから、本当に大切な人の隣にいるのはもう辞めようと思った。

彼は弱い。人に弱さを出せない弱さがある。僕よりだいぶ年上で、異性にはたいそうもてそうなところだけれど、いつもいざというところで責任を取るということから逃げる癖がある。

2人で話していていつも同じ結論になる。

「友達は一生友達でいられるけど、恋人になっちゃったら別れるか惰性で続けるかじゃん。」

そんな2人だから、僕が彼をどう想っていようと、彼は重たく感じたら逃げてしまうだろうし、僕は僕で、パートナーという形を取ったら今と等しく彼を想い、大切にできるかわからなかった。何より、拒絶されるのが怖かった。彼は僕がゲイなことを知らない。

だから「ルームシェアをしませんか?」と持ちかけた時、僕は不安が声に出ないように極力さりげなく伝える必要があったし、震える手をテーブルの下で隠す必要があった。友達ではもう耐えられないし、かと言って恋人になるには終わりが見えてしまってあまりに不安で、ギリギリの提案だった。僕は別にこの人に愛されなくてもいい。僕がただ、とても彼を大切に想っていて、時間や空間、痛みや苦しみをともに分かち合いたいし、なんでもないことを共にすることの悦びを噛みしめたいし、辛い時にはそっとしておいてあげたい。

 

先のことはわからない。僕たちはどうなっていくのだろう。彼はパートナーと結婚するのかもしるない。僕らはお互いの距離が近くなりすぎて離れていってしまうのかもしれない。

だけど僕は、フルーツサラダのような、小さいけれどたくさんの散りばめられた果実を、ヨーグルトに埋もれた中から探し出す悦びを、人生の中で大切にしている。そういう2人で過ごす小さな宝石を、大切にしながら今日も共に生きていきたい。

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