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76年後の鼓動

​梟

うん、と腰を伸ばしていると怒号が飛んできた。

「おい竹中、はよこっちこい」

竹中と呼ばれた男は、小さくため息をついてから返事をした。声量は大きかったがはきはきしているとは言い難かった。腰をさすると、愚鈍な動作で向き直る。20メートルほど離れた場所にはトラックが駐車していて、その荷台の近くに、前頭部が少し禿げあがった浅黒い男が不満げに立っていた。竹中は今しがた運んだばかりの段ボールを一瞥してから、駆け足の姿勢を作ったが、その歩みは遅かった。まったく、伸びをする時間すら与えられないのだろうか。

 竹中が荷物を搬入し終えてトラックに戻ると、禿男は既に助手席で踏ん反り返ってセブンスターを吸っていた。

「領収書」

竹中のほうなど見もせずぶっきらぼうに右手を差し出したその男は、粟生田という。竹中は運転席に乗り込むと、今しがた確認してきた領収書の控えをその手に乗せた。粟木田はあくびをして、乾燥しきってひび割れた指で適当にぱらぱらとカーボン紙をめくった。ろくに数えもせず、下唇を突き出し、竹中の膝にぽんと返す。

「ちゃんと全部あったやろうな」

それを数えるのがあんたの仕事や、という言葉を飲み込んで竹中は、ありましたよと返事をした。粟木田がさらにあくびをすると、大きく開かれた茶紫色の唇からもわもわと煙が出てきた。まるで素人映画のチープな怪獣のようだ。不格好で、滑稽で、嫌に気味が悪い。竹中はポケットからマイルドセブン・メンソールを取り出し火をつけた。乱暴に鍵を捻りエンジンをかけると、二人は同時に縦に揺れた。粟木田の吐いた煙が直接竹中の顔にかかる。バニラが焦げたような、甘いような苦いようなもったりとしたセブンスターの香りに反射的に顔をしかめる。前までは普通に嗅げていたのに、刷り込みとは恐ろしいものだ。竹中は顔を窓の外に向け、マイルドセブンを深く吸い込んだ。

 営業所にトラックが辿り着いた途端、粟生田はさっさと助手席を降り、どこかに姿を消した。この後も処理が残っているというのに。肩を落としながら竹中が扉を開けた途端、ひょろ長いという言葉が似つかわしい赤茶髪の男が声をかけてきた。

「どうでした、ドライブデートは」

すきっ歯をのぞかせてからかうように笑う。

「あほう。とんだ災難やわ」

竹中は疲れ果てたように眉をひそめた。赤茶髪の男は、その歯並びと持ち前の人懐こさで若く見えるが、顔面いっぱいにできる笑い皺で老いても見え、年齢を不詳にさせていた。だが、おそらく竹中より5歳以上は若いはずである。

「林はこのあとなんかあるんか」

と赤茶髪に問うと、もう配達に出るところだという返答があった。

「なんや、おもんない」

林は笑いながら、赤鉛筆の印だらけの地図を持って部屋を出た。

 軽貨物を主に取り扱うこの会社は、本来ならば1人で運転し、1人で配送するのが常だ。だが、今回は2人でないと持ち運べない物があったので、タイミング良く手が空いていた竹中と粟生田が割り振られたのだった。否、タイミングが悪かったと言うべきかもしれない。竹中は机の上にあるブリキの灰皿を引き寄せると、マイルドセブンの煙を天井に向かって細長く吐いた。頭を掻きむしると、面倒臭そうに書類に向かって鉛筆を動かしていっては、銀色のブリキ皿へトントンと灰を切った。

 

 だんだん日が落ちるのが早くなり、肌寒くなってきている。竹中は腕に立った鳥肌を擦りながらアパートの金属製の階段を上り、蛾がたかっているみすぼらしい電球を一瞥した。鍵を開けノブを回すと、建付けの悪い木製のドアを音を立てて開く。段ボールや毛布やその他のいらない物が積みあがってすっかり狭くなった廊下を進んで、部屋の中央に垂れ下がる電気の紐を手探りで探した。下に引くとばちんばちんと音がして、何度かの点灯のあとに部屋が明るくなる。

 米櫃から適当にすくった米を研ぎ、炊飯器の取手をがぱりと開けた。側面には何かよく分からない花のイラストがプリントされているが、擦り切れて薄くなっていた。竹中は、商店街で買った豆腐と卵が冷蔵庫にあったことを思い出した。四十手前の一人暮らしでは、まともに料理をしようという気にはまるでなれなかった。

 四畳半の壁際、敷きっぱなしのせんべい布団の上に竹中はごろりと寝転ぶ。何でも取れるよう、その周りは物で溢れていた。もちろんテレビも然りで、少し身を起こして手を伸ばすとダイヤルに届く位置に設置してある。暫くがちゃがちゃと回していたが、歌謡曲にもアイドルにもドラマにもあまり興味がなかったので、ひとまずニュース番組にしたものの、竹中の耳にはあまり入っていないようだった。世間が大賑わいしているハレー彗星の話題を、キャスター達が楽しげにくっちゃべっている。76年に1度の回帰が、もうすぐ訪れるからだ。今回はほとんど肉眼で見られないらしいではないか、と毒づき、虚空を見つめながら、ただぼうっと煙を吐いた。壁紙どころか、カーテンや家電まで、部屋全体がヤニで茶けている。畳に置いたブリキの灰皿は、最早銀色の底が見えないほど吸い殻が溜まっていた。縁はひしゃげており、全体的に黒ずんで金属光沢は失われている。親指で灰を切ると、白黒の灰が畳の上に散らばった。

 その時、玄関のブザーが鳴った。壁の時計を見ると、22時を過ぎた頃だった。咄嗟に竹中の心中に「誰やこんな時間に」と「いやまさか」の両方が浮かんだが、まさかの疑惑の方がみるみる膨らんでいった。竹中は煙草を灰皿に置き、そろりと立ち上がった。軋む廊下をなるべく音を立てないように歩いたが、いかんせん薄暗いし物が多い。またブザーが鳴り、竹中は息を止めた。

 恐る恐る扉の覗き窓に近づく。片目を瞑り覗き込もうとしたその瞬間、木製の扉がどんと叩かれた。思わず小さく声を上げ飛び退く。

「あんたぁ、おるのは分かってんねんで」

扉の外の女は大声で言うと再度どんどんと扉を叩いた。竹中は、嫌な感が当たってもうたと、身体の中から空気が全てなくなるほど溜息をついた。

「おい、静かにしろ。今何時やと思ってんねん」

扉越しにそう告げる。

「開けてやぁ」

ノブががちゃがちゃと回される。

「開けてぇやぁ。そしたら静かにしたるから」

こんな安アパートの壁では防音などないに等しい。以前同じようなことがあった時には、隣どころか、突き当たりの部屋や1階からも野次馬が出てきてしまったほどだった。これ以上喚かれてはたまったものじゃない。

 竹中は意を決して鍵を回してそろりと薄く扉を開けた。するとその瞬間勢いよく外から扉が引かれ思わず前につんのめる。待ってましたと言わんばかりに女は玄関に身を捩り込むと雪崩れ込むようにして廊下に座り込んだ。

「ありがとぉ」

足には緑のパンプスが履かれたままになっていた。そこから伸びるずんぐりとしたふくらはぎに痣や剃り残された毛を見つけて、竹中は無意識に目を背けた。顔は紅潮し、潤いがなくなった長い髪も放射線状に乱れている。

「麻祐美、お前いいから帰れ」

肩を掴もうと近づくと、ラベンダーの芳香剤とアジアのスパイスが混じったような香水と共に、酒臭い匂いが流れてきた。

「なんよ、せっかく久々に会えたのに」

「おいもうちょい声落とせ。近所迷惑やぞ」

すっかり出来上がっている麻祐美は派手なピンクの唇を大きく開きながら笑った。

「ごめんってぇ、こんな時間に来て。だって会いたなってんもん」

竹中は玄関に座り込む女を見下ろしながら言った。

「金ならないぞ」

 その瞬間、麻祐美がふと見上げて目が合ったので、竹中はたじろいだ。何も知らない幼い少女のような、ぎょっとするほど純粋すぎる瞳。きょとんという表情ではなく、対象そのものを真っ直ぐに捉えている動物的な目だった。物理的には竹中が見下ろしているのに、覗き込まれたような感覚に陥って、その場に縛り付けられたかのようになる、1秒にも満たない一瞬。コンマ数秒後すぐ麻祐美は表情を崩して笑うと、たちまちほうれい線がうっすら出ている酔っ払いに戻った。

「あんたまたそんなこと言うてぇ。お給料日やったん知ってんねんで」

ぱさついたウェーブの髪が麻祐美の顔にかかる。竹中は我に返った。

 「お前この前渡した15万はどないしたんや」

麻祐美は約半年前にも同じように家に乗り込んできたのだ。それまでにも何度か来る度に渡してやっていたのだが、半年前の時は玄関や四畳半の部屋で騒ぎ立て、終電近くなっても遂に帰らなかったので、これで最後やぞと念を押して大卒の初任給と等しい金額を渡してやったのだ。竹中の貯金は決して潤沢ではない。むしろ、この黴臭く狭いアパートで暮らしているくらい生活資金が惜しかった。

「まとめてちゃんと返すわな、今回は特別やねん、特別」

「そんな次々と貸せるかいな。いつ返せるんや」

麻祐美は随分酔いが回ってきたのか、首をぐらぐらさせながら甘えたような声を出した。

「今までの分もちゃんと返すやんか。な、特別」

「特別ってなんやねん、だいたいお前はあいつに何とかしてもらえばええやろ」

「そんな冷たいこと言わんといてぇな。だってしょうちゃんはしばらく遠くに出かけとるんや」

 しょうちゃん。姿を見たこともないし、本名も知らないし、この名を聞くのも2回目である。だが竹中はしっかりと覚えていた。今から約3年前、もう少し広い部屋に麻祐美と2人で住んでいた頃、麻祐美が口を滑らせてその名を出したのだった。気がつくと、ある日麻祐美の荷物が消えていて、代わりに机の上に1枚の書類があった。住所や本籍、証人欄まできっちり埋まっており、後は自身の氏名などを書くだけでよさそうだった。驚きでしばらく佇んでいたが、竹中はやがて印鑑を求めてのそのそと引き出しを探り始めた。そもそも、適齢期の娘をどこからか連れてきた周りがいつの間にやら盛り上がって、いつの間にやら籍を入れていたので、いつの間にやら終わるのも、仕方のないことだと思った。その他の面倒な書類や電話などの手続きは麻祐美がやっていたようで、竹中がやったのは役所に届を提出しに行ったことくらいしか覚えてなかった。

 薄アパートの壁が、どんと鳴った。隣人が叩くのは無理もない。廊下でだらしなく座りこみ続ける女は、立ち上がる気配も、声を小さくする気配もなかった。結婚していた当初は、酒などほとんど飲まなかったのに、こんなに泥酔するようになったのは一体いつからなのだろうか。竹中は頭をがしがしと掻くと、麻祐美をまたぎ、薄暗い廊下を進んだ。鞄から使い古されてくたくたになった革財布を取り出し、札を数える。1万円が1枚と、1000円が7枚入っていて、そのうちの1枚は昨年発行されたばかりの夏目漱石だった。ところどころ折れ曲がった札を全て取り出すと、女の背中に向かってぶっきらぼうに差し出した。

「今はこれしかない。とりあえず帰れ」

麻祐美は勢いよく振り返ると、目を見開き、あかぎれの手でそれらを受け取った。ありがとぉ、と小声で繰り返しながら数えている。

 言葉にできない悲しさが、竹中を満たしていった。これではまるでお菓子の前で駄々をこねる子供のようではないか。買い与えられた途端泣いていたことすら忘れて、機嫌よく口いっぱいに甘味をほおばる子供だ。着飾ってはいるが着実に年齢が表れ始めている身体に対しても、元夫へ押しかけるまでして手に入れたのが2万円足らずで満足気にしている様子に対しても、憐憫でも侮蔑でもなく、ただただ悲しかった。

 

 営業所へ出社し、今日の配送予定の紙を見ていると、林が入ってきた。竹中に向かっておはようございますと声をかける。

「竹中さん、今日は早いですね」

早いといっても10分そこらであるが、確かにほぼ毎日、林のほうが先に来ている。昨晩の出来事のせいで竹中はあまり寝付けなかったので、家を出るのも早まってしまった。

「あんまり寝付けんかったんや」

荷物を置きながら、そうなんすね、と林は相槌を打つ。よく見ると、林の目の下にクマができていた。

「なんや、林も眠れんかったんか」

林は苦笑いしながら言葉を濁したので、竹中はそれ以上追及しなかった。竹中はマイルドセブンに火をつけた。無言の時間がしばし続く。空気に耐えかねてか、林が口を開いた。

「竹中さんって、こういう時なんも聞いてこないですよね」

煙を吐いて、視線だけ林に向けた。

「いや、決して悪い意味やなくて、むしろありがたいなって。ほら、根掘り葉掘り聞いてくる人おるやないですか。心配してるって表したいんかもしれんけど、当人にしてみればほっといてほしい時ってあるなあって」

林はラッキーストライクを咥えて、ぽんぽんとズボンのポケットを叩く。竹中がライターを差し出すと、林は手刀で礼をした。竹中は予定表から視線を動かさずに言った。

「ほっといてほしいんなら、この先ずっとほっといたるで」

「それは困りますわ、寂しいこと言う」

林が吹き出すと煙がむわりと広がる。笑い皺が顔いっぱいに広がった。竹中は口の端を上げて笑った。

 また無言になったので、火を揉み消した竹中が2本目を出そうと俯いたところで、林の声が上から降ってきた。

「竹中さん、執着ってなんやと思います」

林の声のトーンは低い。竹中は黙っていた。林が、“執着とは何か”について議論をしたいのではないことが分かったからだ。林がラッキーストライクを灰皿に押し付けると、香ばしく甘い香りが漂った。執着ねぇ、と竹中は小声で呟いた。そろそろ他の従業員が出社してくる頃である。案の定扉の外から足音が聞こえた。

「なんや、コレか」

竹中はわざとらしく小指を立てる。今世間で大流行している禁煙パイポのテレビコマーシャルに使用されたハンドサインだ。"私はコレで会社を辞めました" という台詞。林はまた大きく吹き出すと、そのコマーシャルの台詞になぞられて

「俺、会社は辞めませんよ」と返してしばらく笑っていた。

 

 竹中は赤信号の間、頬杖をつきながら林との会話を思い出していた。何かあったのか聞かなかったのは優しさからではない。自分にも他人にも、そこまで労力を使えないだけだ。話しかけられれば答えるし飲みにも付き合うが、竹中は幼い頃から、自ら誰かを誘ったことはほとんどなかった。興味をそそられる人に出会えた経験も乏しい。それに、何人かと付き合ったのち結婚はしたものの、愛した女もいなかった。

 左車線の後方から1台の車がスピード緩めながら近づき、竹中のトラックの左横で停止した。日産・プレーリー。同社新ジャンルモデル(※自分用メモ 後で消す※現代のミニバンの先駆け。当時は“世界初のニュー・コンセプトカー”というキャッチフレーズを冠していた。)である。竹中の視線はそれに釘付けになった。ボディはホワイトで、下方3分の1が焦茶色になっているバイカラーの5人乗りタイプ、SS-Gだ。そのフォルムをじっくりと観察した。全体的に角張って近未来的なのに、前方からにょっきり出ているフェンダーミラーがまた愛らしい。

 プレーリーが発進する姿を目で追っていると、クラクションを鳴らされた。青信号に気づいて慌ててギアチェンジしながら、数年前の発売当初を思い出す。どれも魅力的だが、竹中がどうしても譲れないのは8人乗りタイプのJW-Gだ。それもカラーがホワイト、シルバー、ホワイトの3層になっているもので、プレーリーを初めて見たのがその形状だった。わざわざ日産からカタログをもらって毎日のようにめくり、休日に販売店に立ち寄って眺め、テレビコマーシャルを見ては思いを馳せた。竹中は車に興味がもともとあったわけではなし、現在も他車種にはてんで明るくない。プレーリーにだけやたらと詳しかった。特別使用車や他のカラーもいいが、竹中がこれほど心を動かされるのはJW-Gのホワイト&シルバーただ1つだけだった。

 長い直進が続く道路に差し掛かったので、竹中は右手だけで器用にマイルドセブンを1本取り出しながら、そういえば、と思い起こす。幼い頃から人への興味が希薄な代わりに、物へ激しく執着することが多々あった。

 小学校に上がるかどうかの頃、親に手を引かれて繁華街を歩いていた時に、ショーウィンドウにステープラーが飾られていたのをじっと見ていたことをよく覚えている。なんでも初めて小型化されたことでオフィス用品として売れ筋だったようなのだが、そんなことは知る由もなかった。そこがどこなのか、何という店なのかはてんでおぼえていない。ホッチキスという名を冠されたそれの用途は何も分からなかったが、なぜかやたらと輝いて見え、何度も欲しいとねだったが、家庭で使うことがないからと遂に手に入れることができなかった。

 竹中が思春期に差し掛かる頃、アメリカン・クラッカーが大流行した。同級生に留まらず、小さな子供から遊び心のある大人まで、カチカチと鳴る回数を競い合ったり技を磨いたりなど誰しも心を奪われた玩具である。彼の友人達はそれぞれ様々な色のものを持ち、親指と人差し指で挟んでは振り回した。竹中ももちろん小遣いで、紐もボールも鮮やかな青のそれを購入した。そんな中で、ある友人が持っていたクラッカーを目で追うようになった。元々は真白であっただろうボールは少し黄ばんでいたが、その色合いが竹中の目には柔らかく、安心できた。ボール部分が他のものより少しだけ大きく、そこから伸びている朱色の編紐の毛羽立ちが妙に艶っぽかった。貸してほしいと頼めばいいものの、何故かできずに悶々としていたある日、竹中はその友人の引き出しを勝手に漁り、誰もいない教室で軽く振ってみたことがある。あれだけ思いを募らせた物が今、自分の手でカチカチと小さな音を鳴らせている事実に恍惚の表情を浮かべていたところで、誰かに泥棒扱いされてしまったのだが、詳細はもう覚えていない。

 就職して数年経った時分、上司に連れられて飲み屋に行ったときである。電車に乗って職場から数駅離れた場所にある店で軽く酔っ払い、帰路についていた際、ぽつんと1つ立っている電灯が目に止まった。ただ草木を照らしている。そのまま通り過ぎて駅までたどり着いたはいいものの、なぜなどうしても気になってしまった。上司には、財布を忘れたから取りに行くと嘘をつき、先程の電灯を観察しに戻った。群青色のペンキはひび割れ、ところどころ剥がれていた。ただ隣に立ちぼうっと眺め、結局終電近くまで眺めていた。それからというものの竹中は仕事終わりや休日にその電灯の隣に立っては、誰もいないのを見計らい、読書をしたり、握り飯を食べたり、ただ眺めたり、ざらついた表面を撫でひんやりとした温度を感じたりした。最初は遠くから眺めるなど、ある程度の距離を保っていたものの、通ううちにもたれかかるなどをして常に近距離にいた。しかし、誰かに通報されてしまったのだろうか、いつの間にか警察が付近を見回りに来るようになってしまい、数回職務質問を受けた竹中はやがて通わなくなってしまった。

 再び赤信号に捕まったので、竹中は過去の思い出から現実へ帰ってきた。今日の配達は荷物が多いことを思い出し、ため息をつく。ハンドルを指でトントンと叩いた。

 ふと周りを見回しても、プレーリーはもうどこにもいなかった。

朝晩の気温がぐっと下がってきた。1週間ほど前までは軽く羽織るだけでよかったのに、行き交う人々は厚めの上着を着ている。集荷していた竹中は気温差に追いつけず、作業着の上には薄手のものしか着ていなかったため、手を擦り合わせた。

「じゃあ運んでもらうのは無理ってことですかね」

集荷先の依頼人がそう言う。エプロンをした小柄な老婆であった。竹中とその依頼人の目の前には、梱包用の青い綿入り布にくるまれた、大きな貨物があった。下部は金属製のような脚がのぞいていて、高さは胸ぐらいである。竹中は腰に手を当てて渋い顔をした。

「なにせ、ミシン1つやと伺っていたもんですから」

と語尾を濁す。家庭用ミシンならば、手でやすやすと抱えられるくらいの大きさであると想定していたばかりに、竹中にとってこの大きさは想定外だった。多少のものならば荷台に積んで持って行ってしまうのだが、中身は見えないものの明らかに重厚感があった。試しに、台座をつかみ、持ち上げてみようとする。片側が持ちあるものの、どうやら重心が上方にあるようで、バランスを失ってしまう。そもそも、竹中が1人で持てるような重さではなかった。

 依頼の電話を受け取った者によると、正規料金でできないのであれば追加を請求してくれてもいいから持って行ってほしいとのことだった。小型の荷物で大仰な、と思っていたが、明確な寸法も、メジャーがないから分からない、重さも分からないと言うので、近場だからと配達がひと段落ついた後に竹中が寄ってみることになったのだ。

「夫が革でいろいろ作っとった人なんですけど、体も動かんようになってしまって。ずっと入院してましてな。息子たちも一人立ちしておらんし、もういらんから売ることになったんですわ」

竹中が紙を確認してみると、配達先は古道具屋であった。距離もそう遠くは離れていない。

「そうやったんですね。ただ精密な機械やったら、もしかすると揺れで調子狂うかもしれませんし、その辺の保証がうちではできないんですが」

老婆は顔の前で手を振った。

「ええねん、どうせ使わんものやし。とにかく場所をとるから早く片づけたいんです」

「古道具屋はこのミシンのこと知ってはるんですか」

「もうね、うちに来てもらって1回見てもらってるの。多少壊れててもええって。ただ道具屋さんの車には積めなくて。運んでくれたらええんですよ」

「なるほどですね。事情は分かりましたが、1人じゃ重くて荷台に積めないんですわ」

竹中は頭を掻く。すると老婆は、少し考えて

「やっぱりそうよねえ。ちょっと待っとき」

と、つっかけを履いて玄関を出て行った。

数分ほど経つと、がたいのいい青年が老婆と共に現れた。ごめんねえ急に頼んじゃって、と言う老婆に対して、青年は大丈夫やで、などと答えている。小さいころから知っているような雰囲気がある。竹中はそのまま青年と2人で息を合わせ、トラックの荷台に荷物を積みこんだ。

「おばさん、俺も行くで」

「ああ、いいのいいの。もう道具屋さんには頼んであるから。降ろすのはむこうのおっちゃんがやってくれるはずや」

竹中には初耳のことばかりで少々面食らう。お年寄りの電話は、本筋を離れて的を得ないことが往々にして起こりうるので、電話を受けたものもそうだったのかもしれない。青年は、またいつでも呼んで、と言い姿を消した。

 直進車が絶えず、なかなか右折ができない。信号機が黄色に変化し、前方からの車が途切れたタイミングを見計らって勢いよくハンドルを切った。その途端、ごとり、と荷台から重く大きな音がした。自然と声が竹中の喉から漏れ出る。動かぬように固定していたものの、梱包自体は老婆が行ったものだ。もしかすると中で何かが動いてしまったのかもしれない。竹中は後方を確認して、路上に停車した。

 周囲を見回し、他に車が来ていないことを確かめつつ、荷台に乗り込む。固定紐を手際よく外し、梱包布にくるまれた機械と対峙した。一見では、倒れた様子も何かが外れた様子もなかった。老婆は製品自体に特に拘りはなさそうだったが、仮にも売約済の商品である。運搬途中の損害であると、古道具屋の方に何を言われるか分かるものではない。買取金額が下がると、さすがに老婆から会社に連絡がいくかもしれない。イレギュラーな案件に親切心で対応をすると、どうしてイレギュラーなことが起こってしまうものなのだろうか。竹中は頭を掻きむしった。

 何はともあれ状態を確認しないことには、あれこれと考えあぐねていても仕方がない。竹中は荷台に鎮座してる、腰の高さほどの物体に巻かれている紐を解く。機械に覆いかぶさった綿入りの布を1枚取った。1枚、そしてもう1枚――。

 最後の布が取られると、ミシンの全貌が明らかになった。竹中はその1点だけを見つめて、全ての時が止まったかのように静止していた。先ほどまで覇気が無かった目は大きく開かれ、そこに太陽光が差しこまれることによって白目が濡れ光っていた。黒い四つ足テーブルは粗い網状に金属の意匠が施されており、中心には金色に塗装された"SEIKO"のローマ字があしらわれていた。その木製天板は使い込まれたためか角が取れ少し飴色になっている。机の下にはちょうど足が当たりそうな位置にブレーキのようなレバーが伸び、その右横には重厚な車輪のようなものが取り付けられている。そして何より、テーブルの上部に設置された本体の形の良さたるや。天板下から繋がっている部分は上部にいくにつれ徐々に細くなり、90°に曲がるあたりでふんわりと丸みを帯びて、また先で直角に下に伸びているその形は女物のブーツを彷彿とさせた。また、本体下部から左ににょっきりと円筒系の棒が生えていて、しかし機械的な曲線ではないあたりがなんとも手になじみそうで温かみを感じる。本体の最も右側に取り付けられた車輪のようなものは、これ以上ないサイズ感で、上から脚まで見たときにその車輪が全体のバランスを引き締め、華やかにしていた。竹中は細く、長く、震えるように息を吐いた。どうやらしばらく呼吸をすることを忘れていたらしい。大きく深呼吸をした。どのくらいの間眺めていたのか分からなかったが、梱包の埃っぽい綿入り布を握ったままの左手が痺れていた。竹中は、仕事中であることを思い出し、何度か瞬きをした。

「なんも壊れてなさそうで良かったわ」

他に誰もいないのにも関わらず、周囲に言い聞かせるように声を出したが、その語尾は消え入りそうだった。

 そこからどう古道具屋に預け、どう会社に戻り、どう帰宅したか正直覚えていない。ふと気が付くと、竹中はヤニとカビの臭いにまみれた薄暗い部屋で、壁にもたれかかりながらマイルドセブンを咥えていた。肺から煙を吐き出しても、メンソールの風味を感じるだけで、頭ははっきりしなかった。

 

 竹中はふらふらと歩いていた。顔は青いのに心臓は高鳴っている。北風が吹き、身震いをした。この手の冷えは、外気温からくるものなのだろうか。背中を丸めて、分厚い上着のポケットに手を入れて歩みを進めた。今日は仕事が休みの日である。竹中の目的地はただ1つだった。

 引き戸を開くと、取り付けられた鈴がカランと鳴る。数秒遅れて店の奥から、いらっしゃい、というけだるげな声が聞こえた。店内には置物や着物や帽子類、その他何に使うのかよく分からない古びた物が所狭しと並べられ、通路などもあるようで無いほど棚だらけだ。値札があるものもあれば、乱雑に籠に押し込められて、価格か分からないものまである。店に入っても暖かくはなく、どこかしらから隙間風が吹いてきた。竹中は目的の物をすぐに見つけると、ゆっくりと、まっすぐそこへ向かった。がらくたの中で、孤独に輝いているように見えた。この数日、寝ても覚めても頭から離れなかった物。竹中が運んだ黒いミシンは、背筋をしゃんと伸ばして上品に座っているような佇まいだった。塗装は少し剥げているものの、鈍く妖しく光っている。竹中はあかぎれだらけのごわついた手を伸ばし、指の腹を表面に近づけたが、すぐに引っ込めてまたポケットに突っ込んだ。よく見れば、右手の滑車は紐状の部品で机の下と連携している。動かしたらきっとくるくる回るんやろな。この小さい丸レバーは何なんやろ。何をどうしたらどこが動いて、どんな音が鳴るんやろ。俺の知っとるミシンと随分勝手がちゃうぞ。ここに針が来るんかいな。ああ、それにしても、黒と金ってこんなに組み合わせがよかったんか。金色のプレートになんか書いとるぞ。なんや、TE-1? 見れば見るほど内臓の温度が上がっていくようで、寒々しい店内なのに竹中の芯は燃えていた。口角は自然と上がり、まばたきの回数は減る。手書きの値札が、天板に乗っているのが見えたので竹中は腰を屈めた。

 "SEIKO  足踏みミシン セイコー製" 。"整備してません 自己責任でお願いします。返品不可"。その下に書いてある数字の羅列を見て、竹中は思わず目を剥いた。ポケットのくたびれた財布を思わず撫でる。予想はしていたものの、家の箪笥から取り出してきた札の数では、とても足りたものではない。竹中はそのゼロの数をもう1度数え、息を小さく吸った。

 腰を伸ばして店内を見回すと、奥から出てきたらしい初老の男と目があった。緑色の腰下エプロンを巻いて、いぶかしげに竹中を凝視している。

「縫物、されるんですかいな」

店主はそう口を開いた。とっさに竹中は愛想笑いをする。ミシンのことなど何も知らないどころか、手縫いさえほとんどやったことがなかった。店主は続けた。

「うちは詳しくないんで、壊れとるかどうかも分からんくて、お安くしとるんですわ。わざわざミシン屋に電話かけて、相場も聞いたんでね。整備できはるんやったらお買い得ですよ」

竹中は気まずそうに会釈しながら相槌を打つしかできなかった。

「お仕事で使うんですか」

店主が近づいてきたので、竹中は数歩退いた。トラック運転手の顔など覚えていないだろうが、運び入れたのは数日前である。思い出されて怪しまれたらたまったものではない。竹中は何かもごもごと言いながらぎこちない動きで店を出ることしかできなかった。

 ぎゅうぎゅうとした電車を降りると、竹中はすぐに駅ホームで煙草をくわえた。ふう、と息を吐く。他にも同じように煙をくゆらせている者がちらほらいた。格好悪く店内を飛び出したものの、財布の中はいつもよりかは随分満たされているので、特に目的地もなく電車に乗ったのだった。何の気なしに適当な駅のベンチに座っていたが、竹中はそういえば、と気が付いた。まだ若い頃あしげく通った電灯がある駅だった。ぽつんと1人で立っていた電灯、あれはまだあるだろうか。

 まだ夕方と呼べる時間だったが、この季節はもう日が暮れている。やはり、かなり景色が変わってしまっていて最早別の街だ。道の形自体が変わってしまったのではないだろうか、こんな調子ではあの電灯が見つかるわけはない。電灯どころか、竹中は歩いているうちに現在地すらよく分からなくなってしまっていた。ずらりと並ぶ居酒屋の暖簾、所狭しとスナックの看板が羅列するビル、びかびかと光るショーパブの電飾。細い路地にも、飲み屋という飲み屋が乱立していた。ちょっと顔を覗かせて見ても、やはり1階だからだろうか、空いている様子は見受けられなかった。人の波に流れ流され、眩しい飾りから遠ざかっていくように、いつの間にか奥まった商業ビルの中に入り込んでしまった。

 廊下は暗狭く、モルタル壁に塗られた白のペンキはかなり古そうであり、少し手を付くと砂が剥がれて竹中の指に引っ付いた。壁上方から出ている正方形の看板たちはピンクや青色、緑色など様々であったが、あの足踏みミシンのように美しい色彩はどこにもない。竹中は寸の間目を閉じ、先ほど見てきたミシンの流線形のフォルムと重厚な佇まいを思い出していた。扉の奥から賑やかしげなカラオケが漏れ聞こえる。どっと笑い声が上がり、拍手の音がした。竹中は1人で入れそうな店を求めて掃除されていないであろう階段を上った。

 まだ完全に上りきってはいないものの、2階は全体的に控えめな雰囲気だということが伝わってきた。"完全会員制"の札が貼られた扉が見え、竹中はたじろぐ。入れそうな店がないならもう帰ろうか、と思いながら最後の1段に足をかける。すると、竹中から2、3メートルほど離れた壁際に人がいて思わず声を上げそうになった。竹中は頭を掻き、すんません、と謝ろうとしたが、違和感を覚え思いとどまる。どうやら1人ではない。もう1人の姿は竹中の角度からは隠れてほとんど見えないが、男が誰かを壁に追いやっているのは確実だった。竹中はすぐに合点がいく。壁際の2人は接吻を交わしているのだった。腰と頭にそれぞれ手が回され、すっかり自分達だけの世界に没入している。変なところに出くわしてしまった、帰ろう。なるべく足音を立てずにそろりと踵を返そうとしたが、男の背中にどうも見覚えがあっってもう1度振り返った。竹中は眉をひそめ、男のひょろ長いシルエットを眺めた。あの赤茶髪はどこで見たんやっけな。その瞬間、竹中は足を踏み外した。視界が勢いよく上下に揺れたかと思うとどこまでも落ちていくような浮遊感に襲われ、大きな足音とともに竹中は小さく叫んだ。壁際の2人は勢いよく離れ、その音の方向を見る。竹中が踏み外したのは1段だけであったが、その音は廊下に残響し、3人は驚きで目を見張ったまま顔を見合わせた。

 「林……?」

考えが及ぶ前に赤茶髪に向かって声が発せられた。間違いなく、壁際で接吻していた男は林であった。今や林の顔から人懐っこい笑顔は消え、絶句している。仮にも40年近く生きている竹中は、街中で知人の交際現場を偶然見てしまった時、見なかったふりをしてその場を去る術くらいは身に付けていた。しかしこんな間抜けな質問をしてしまったのは、竹中の脳では処理ができない状況が目の前に広がっていたからであった。林が壁際に追いやって熱く接吻を交わしていた相手が、どこからどう見ても男にしか見えなかったのだ。中肉中背といった表現が似合い、黒い短髪とあごひげを綺麗に整えている、男だった。あごひげ男は林の方を見る間もなく急に走り出したかと思うと、竹中を追い越して階段を駆け下りていった。足音だけが響く中、竹中と林はただ向かい合っていた。1階から、わははという笑い声が間抜けに響いた。

「なん、で」

林はやっと口を開いたが、言葉という言葉がぐるぐると頭を駆け巡り、何も出てこないようであった。それは竹中も同じだった。状況が呑み込めてきた林の顔はみるみる青白くなり、ぶるぶると震え始めた。目頭にはじわりと涙が溜まっている。

「た、竹中さん、何で」

「いや、俺は、たまたま、ここがどこか、分からんで」

途切れ途切れしか出てこない。2人は頭を高速で回転させているようだったが、思考と呼べる代物ではなく、むしろ空回りをしていた。

「なんや、お前。お前」

低い声で竹中は続ける。

「林。お前、おかまやったんか」

その途端、林はがたがたと震えながらその場に崩れ落ちた。なんとかすぐに立ち上がり、つかまり立ちを覚えた赤ん坊のようによたよたと竹中に近づき、その肩を強く掴んだ。竹中さん、竹中さんとうわ言のように繰り返している。林は大きく息を吸った。

「後生や……! 誰にも、誰にも言わんといてくれ……!」

林の目からはぼろぼろと大粒の涙がこぼれ始めた。痛いほどに掴まれた手の振動が竹中の肩甲骨に伝わる。竹中は未だ動けずにいた。林はそのまま力なく、また膝をつき、大声で懇願した。縋ってひざまずく林を見下ろすと、そこには赤茶髪の頭髪があった。普段は俺より背が高いから、こいつのつむじを見るんは初めてやな、などと訳の分からない事だけ思考が明瞭だった。

 次の瞬間、すぐそばの店の扉が勢いよく開かれた。"完全会員制"と書かれた札が揺れる。

「あんたたち、騒ぐなら他所でやってくれる」

音量は大きくなかったが、凛としていてよく通る声だった。

「今準備中なの」

黄色のヒールで上げられているものの身長は元々かなり高い。林と違うところは、ひょろりではなくスレンダーという印象である。品のいい紫の七分袖ドレスから伸びた脚は筋肉質だ。店内から突如現れた人物は、肩にかけた黄色のショールを直しつつ、鋭い目つきで竹中と林に交互に目を向けた。数秒経った後、丁寧に外側にカールしたであろう艶めいた黒髪を手で軽く払いながら

「入んなさい」

と小さく言い放ち、紫ドレスは店に戻った。

 思考力が低下している男2人は言われるがまま、恐る恐る店の扉を開く。中は狭いカウンターだけのバーだった。開店前だからか、中は明るい。2人はこわごわと席に腰かけた。林の涙は止まっていたが、頬にはその跡が残っていた。紫ドレスが無言でグラスを拭いている中、しばらくしんと静まり返っていた。

「あと1時間で開店やから、それまでに話つけなさい」

林の席にちり紙をそっと置くと、2人に灰皿を差し出した。紫ドレスは変に声を作るようなことはしておらず完全に低い地声だったが、どこか艶があった。カウンターから丸く背の高いパイプ椅子を持ち出してきて、紫ドレスは足を組みながらハイライトに火をつけた。

 林は受け取ったちり紙で目元と鼻をぬぐう。鼻をすする音だけがしばらく続いて、数分経った。紫ドレスのハイライトはとっくに灰になっており、竹中もマイルドセブンに手を伸ばしたところで、林が口を開いた。

「ほんまに、誰にも言わんといてください」

とても小さな掠れた鼻声だったが、竹中は一言一句聞き取れた。竹中は唇を結んだり開いたりして、頭を搔きむしった。

「まさか、お前がな。正直驚いた」

林はもともとうつむいていたが、さらに深くうなだれ、眉間に皺を寄せた。

「竹中さんは、ちゃうんですね」

消え入りそうな声で林がラッキーストライクに火をつけると、それに反して、竹中は大きな声を出した。

「俺はそっちの人間やない」

ばん、と何かが振動した。2人が驚いて顔を上げると、紫ドレスが戸棚の取手に手をかけ背を向けていた。中の食器が揺れたのが、陶器の擦れる乾いた音が鳴る。

「何が何やら分からんけれども、部外者の私が口挟んでもいい」

ゆっくりと丸いパイプ椅子に座り直すと、有無を言わさない強い眼差しで竹中を一瞥した。

「私、"そっちの人間"って言い回し、好きじゃないわ。そっちってどっちなんよ。この人は自分が心地いいと思うものを選択しているだけ。私もそう」

林はゆっくりと息を吸った。

「まさか、人間がみな同じだと思っているの。それで、同じやない人を排除したいのね」

竹中は一瞬詰まったが、すぐさま反論した。

「でも俺は、今までおかまに出会ったこともないし、周りにもおらんかった」

「ねぇおかまって言うの、やめれくれる」

紫ドレスがため息交じりに足を組み替えると、黄色いヒールがかつりと鳴った。

「竹中さん、やったかしら。あなたこの赤茶髪の子と元々知り合いなんでしょ。今日偶然ここで出会わんかったら、ずっと知らないまま過ごしてたんでしょうね。ただ表面に出てきていないだけで、世の中には確実にたくさんおるのよ。自分が見たことがないからっていって、無いもんやと扱わんといて」

「それでも、俺は男が男とキスをする気持ちが分からへん」

「私やって、女の人とキスをしたいっていう気持ちが分からないわ」

アイラインで縁取られた瞳は、まっすぐに竹中を捉えていた。竹中の心臓が跳ねる。早打つ鼓動を感じながら、竹中はもうすぐ四十年になる自らの人生を思い出し、女とキスをしたくなった瞬間を必死に探した。しかし真っ先に脳裏に浮かんできたのは、梱包用の布の下から出てきた、埃っぽい古道具で鎮座していた、SEIKOの足踏みミシンだけだった。頭を振って、記憶の海に身体を沈める。必死にもがいても、ステープラーやプレーリーや電灯がコマ送りのようによぎるばかりで、排除しようとどれだけ努力をしても、あの凛とした佇まいの美しい足踏みミシンが絡みついて離れないのだった。

 「ね、竹中さん。好きな色って何色」

突拍子もない質問に、竹中は思考が追い付かず目をほんの少し見開いた。色自体にはこれといって特になかったが、今どうしても惹かれる色が口から出る。

「黒と、金色」

きょとんとしたような顔をしている林も促されて、俺は緑です、と答えた。

「私は紫が好き。紫と黄色と赤の組み合わせが特に好き。お花みたいでしょ。サフランっていう花。やから私、サフランって名前を自分にあげたんよ」

サフランと名乗った者は、ほんのり赤く色づいた厚い唇の端を上げた。

「海老が好き。ワイルドターキーが好き。香水を集めるのが好き。綺麗なお洋服を着るのが好き。紫が好き。筋肉質な男性が好き。黒色も緑色も、そんなに好きとちゃう。それだけよ」

サフランはハイライトに火をつけ、煙を吐いた。指に挟まれた煙草にはうっすら口紅がついていた。

「自分の知らんもんを受け入れるのって、抵抗あるわよね。これだけは覚えといて。拒絶をすることで、傷つく人がおるのを。ほら、隣にいるこの子は、竹中さんに何か悪いことでもしたの」

サフランがふっと顔の力を抜いて林のほうへ向き直ると、泣き止んでいたはずの林の目は再びうるみ始めた。ぐっと握りしめられた拳は赤くなっていた。

「お、俺は。男として、男性が好きや。結婚もしてた竹中さんは分からんかもしらんけど。頑張ったけれども、女の人は、どうしても好きになれへんかったんです。でも、この年齢で、結婚せんのは明らかにおかしいんで、見合いの話が、未だに来るんです。いつまでも男に執着してないで、早いとこ諦めなあかんのやって思って。た、竹中さんにもばれてしまって、どこにも俺の居場所はなくて、もし粟生田にも知られてしまったら、職場や家族にもばれてしまったら、仕事も続けられん」

数日前に、執着ってなんやと思います、と問いかけてきた林の表情を、竹中は思い出していた。林は鼻を赤くしながら、机の上にぽたりとこぼれた涙をちり紙で拭いた。

「サフランさん、俺、どうしたらええんやろか」

サフランは横を向いて暫く黙っていた。

「今さっき会ったばっかりの人がどうしたらええかを決めるなんて、私にはそんな権限ないわよ」

煙をくゆらせながら、独り言のように、まるで自分に言い聞かせるかのように続けた。

「執着は活力よ。何か行動を起こすための、強い活力。それがどんな方向に向いているかによって、毒にも希望にもなるわ」

 執着。竹中は頭の中でその言葉を繰り返していた。俺はなんで昔から、惚れた腫れたの浮いた話についていけへんかったんや。俺は冷たい人間なんやろうか。俺はなんでアメリカン・クラッカーのために友達の机をあさったんや。俺はなんで電灯を見るために電車であしげく通ったんや。暴れ狂う蛇のような渦が血管を駆け巡り、熱を持った大流が脳に流れ込んでくる。物欲でもない。所有欲でもない。独占欲でもない。"執着"という言葉は当てはまらない。俺は、俺の場合は何なんや。あの高揚感、温かみ、近くに居たいと思う感情は。そして、俺はなんで、麻祐美を愛せへんかったんや。

 サフランは腕時計を見て、慌てて立ち上がった。

「いけない、そろそろ開店時間やわ。さ、涙拭いてお帰りなさいな」

言い終わる前に、竹中が口を開いた。

「俺も。俺も、女を愛すことはできへんのや。俺は物を愛しとるんや。いや、俺が愛する対象は物体やったんや。今分かったんや」

その場にいたサフランと林はただ驚いて口をつぐむばかりだったが、サフランは一呼吸を置いて僅かに笑った。

「何、今好きな物でもいるのん」

「ミシン。俺は今、ミシンに惚れとるんや」

林は何が何やらよく分からない顔をしていたが何も言わずに竹中の横顔を見ている。サフランはカウンターに入り、手早くグラスを拭き始めた。そんな様子に竹中は問いかけた。

「なんや、驚かへんのか」

「何年この仕事やっとると思ってるのよ。確かに珍しいけどね」

サフランはさっさと立て、というジェスチャーで2人を出口へ促した。竹中は林の肩にそっと手を置いた。林はちり紙を目に当ててうつむいたまま1度頷いた。

「あんたたち、今度はお客として来なさいな。たんまりお詫びしてもらわんといかんから」

 

 翌日、机の上に置いてある灰皿を竹中はじっと見つめていた。質素なブリキのそれは、灰ですっかり黒くなってしまっており、吸い殻が山のように溜まっている。朝の事務所にはまだ竹中以外は誰もいない。竹中の目の下には濃いクマがあった。昨日家に辿り着いてから、ほとんど寝ずに部屋を片付けていたのだ。捨てていないゴミを全て袋に投げ入れ、布団を敷きなおし、物で溢れかえった廊下を整理し、箪笥や戸棚など色んなところに散らばった貯金を1箇所にまとめた。まだ始業時間ではないにも関わらず、電話のベルががジリリと鳴った。竹中は重い受話器を持ち上げる。

「竹中さん、ですよね」

電話の相手は林だった。

「今日、俺、休ませてもらってええですか。昨日のこと、やっぱりどうしても、どうしても怖くて」

細いあの肩が震えているのが思い浮かぶ。竹中は生唾を飲み込んだ。

「分かった。ゆっくり休め。その代わり林、お前に1つ頼みごとがあるんやけどええか」

林が電話の向こうで鼻をすすっている音がしたが、次の言葉を待っているのが分かった。

「昨日話してたことにつきおうてくれへんか。お前今日の夜に外出できるか。時間と住所言うから控えてくれ」

 日が暮れ始める頃、竹中は早々に仕事を切り上げ、上着のポケットに手をつっこみながら足早に古道具屋へ向かう。ちょうど緑のエプロンをつけた店主がシャッターを閉めようとしていたタイミングだった。

「すんません、今から入ってもええですか」

息が上がっているので、乾燥した唇から白い息が漏れ出る。

「すまんね、もう店じまいなんよ」

渋い顔をしながらシャッターをガラガラと閉める続ける店主に、竹中は急いでポケットから茶封筒を取り出し、勢いよく中身を見せた。家じゅうからかき集めた万札が、店主の濁った瞳の前につきつけられると、皺だらけの目元が大きく見開かれた。竹中の耳が真っ赤になっているのは、寒さのせいだけではなかった。

「あと、車も貸してください。担保として財布と社員証置いて行きますんで」

 竹中の運転する車が、かび臭いボロアパートの下に停まる。エンジンとライトを切ると、あたりは真っ暗になった。しかしそれでも、不安そうに立っているひょろりとしたシルエットが見て取れた。竹中は車から降りて、呼び出した男に声をかけた。

「すまんな、わざわざ来てもろて。電車で遠かったやろ」

「それは大丈夫ですが、急にどうしたんですか。運んでほしいものがあるって」

「そうやねん、1人じゃ運ばれへんのや。悪いが俺の部屋まで一緒に持っていってくれるか」

 2人の男は、古道具屋から借りた毛布にくるまれた"それ"を持ち、踏み外さぬよう慎重に階段を上る。金属製の階段はなんとも安っぽく、足をかける度にタンタンと鳴った。明かりはほとんどなく、申し訳程度の裸電球には蛾がたかっていた。おもちゃのような簡単な作りの鍵を開けると、がらんとした廊下が目の前に広がる。昨日整理したばかりなので、見慣れない景色はなんとも落ち着かなかった。そのままささくれだらけの四畳半に運び入れる。指は重みで赤くなり腰も痺れ始めていたが、竹中ははやる気持ちを抑えるのに精いっぱいだった。

 訝しげな顔の林を目の前にして、竹中は震える手で、覆いかぶさっている毛布の端を手にとった。

「自分が何を好きなんか、この歳になるまで分かってなかったんやな、俺は」

「竹中さん、いったい何なんですかこれ」

竹中はまるで王族から上着を預かるような手つきで、薄汚れた毛布をうやうやしく取った。黄ばんだ壁紙や雨漏りの染みがある辛気臭い部屋の真ん中に、重厚な雰囲気を醸し出す足踏みミシン、TE-1が現れた。どこをとってもバランスがよく、濡れたように黒く光るボディの真ん中で、薄暗い照明に照らされたSEIKOの金字が光っていた。四つ足テーブルの意匠はどことなく異国情緒があり、竹中は顔を上気させ、ほぅとため息をついた。

 林は何も訳が分かっておらず、依然としてぽかんとしている。

「竹中さんって、裁縫しはるんですか」

「いや、使い方は分からへん。一目惚れや」

赤茶髪はますます困惑の表情を浮かべる。はぁ、と気の抜けた返事をしたが、満足そうな竹中の顔を見て、林は何も言わなかった。

 竹中が木製の扉を開けると、強い風が吹き、2人は身震いをする。古道具屋から借りた車と毛布は、林に返してもらうよう既に依頼をしていた。古道具屋の近くの駅から帰るほうが彼の家まで近いので、林にとっても都合がよかった。会社から取ってきた地図を手渡す。

「林、会社辞めるなよ」

竹中は、運転席に乗り込んだ林に声をかけた。エンジンをかけるのに忙しいふりをして赤茶髪は何も答えなかった。

「俺は誰にも何も言わん。現に、お前にこんなことも打ち明けてしまっとる。俺とお前は最早同じ立ち位置や。お互い様やろ」

林はシートベルトをカチリと差し込んだ。首筋を指で軽く搔く。

「正直よく分からんのですわ。車が恋人、なんてよく言いますし、機器類が好きな人なんてたくさんいらっしゃるでしょ」

「ちゃう。俺はほんまに」

「でも励ましてくれてありがとうごさいます竹中さん。気持ち悪いやろに受け入れてくれて。それだけでも嬉しいですわ」

「林、ええかよく聞け」

「後生ですから誰にも言わんといてください。頼んます」

「俺は誰にも言わんって言ってるやろ。こんなんで仕事辞めるなんて笑えんぞ」

林は声を挙げて笑った。

「禁煙パイポのコマーシャルみたいですね。俺の場合は"コレ"っていえないでしょうが」

林は小指を立てて、声をあげて笑うと、細い顔いっぱいに笑い皺が刻まれた。

「おい冗談きついぞ」

借りた車が、ゆっくりと発進し始める。

「サフランさんの店、また一緒に行きましょね。連絡しますわ」

白い排気ガスを残して、テールランプが遠ざかってゆく。林を呼ぶ声が、彼の耳に聞こえたかどうかは分からなかった。

 

 それから林は数日間会社に顔を出していない。粟生田は、禿あがった浅黒い前頭部を撫でつけながらぐちぐちと不平をこぼし、セブンスターを灰皿に押し付けた。もったりとした甘い香りに竹中は顔をしかめ、ポケットに入れたマイルドセブン・メンソールを探った。だがしかしそれに火をつけることはしなかった。

 芯から冷え切った手を擦り合わせ、自宅へと帰り着く。金属製の階段を上ると、自室の扉の前に見慣れた人物が立っていた。短いファーコートの下に着ている赤茶の幾何学模様ワンピースは、この寒いのに膝が出ている丈で、緑のパンプスとの色彩がちぐはぐである。潤いがなくなりぱさついた髪が北風に吹き去られていた。麻祐美は竹中を見つけるや否や、ピンクに染めた唇を大きく開いてにかっと笑った。竹中は最早、眉毛を動かしさえしなかった。

「金ならないぞ」

「あんたはまたそんなこと言うてぇ」

竹中は素直に扉の鍵を開けて、女をちらりと見やった。いつもならば部屋に招き入れるようなそぶりを見せないことに違和感を覚えた麻祐美は口元に笑みの表情を張り付けたまま、体を硬直させた。おそるおそる一歩踏み出すと、つい最近まで足の踏み場も危ういほど物であふれていた廊下が、すっかりがらんとしているのが視界に飛び込んできた。麻祐美は眉間に皺を寄せて元夫の方を振り返ると、さっさと靴を脱いで家に上がろうとしている。訝しみながらも、麻祐美は玄関でパンプスとファーコートを脱いだ。部屋の中央にある蛍光灯の紐を何度かばちんばちんと下に引くと、点灯のあとに部屋が明るくなる。畳が見えなかった部屋はすっかり片付けられていて、家具とテレビと布団と、そして何より大きくて奇怪な機械が部屋の中央を陣取っていた。

「あんたこれどうしたんよ」

麻祐美の顔から笑みはすっかり消えていた。

「最近迎え入れてん。有り金ははたいたもんで、もう無い」

「これ、新しい仕事道具なん」

「ちゃう。使い方は今研究中や」

ピンク色の口角は今やすっかり下がって、だらしなく開いていた。竹中の肩を強く掴んで揺さぶる。麻祐美が持っていたファーコートが音もなく畳に落ちた。トイレの芳香剤とアジアのスパイスのようなぷんとした香りが、竹中の鼻をついた。

「こんなん何に使うんよ、こんな道楽にお金使って」

「お前に言われとうないわ」

軽く手を引きはがしたつもりが、 麻祐美の体は予想以上に軽く、バランスを失ったまま畳に尻もちをついてしまった。すまん、と起き上がらせようとしたが、手に取ったその腕のあまりの細さにぎょっとする。結婚していた当初は、こんなに肉がなかったものだろうか。赤茶色のワンピースから伸びるふくらはぎの肌のきめは粗くがさがさとしており、黒っぽい紫の痣の数が増えているのが目についた。

「その怪我どないしたんや」

麻祐美は目線を畳に落としたまま、竹中に掴まれていない方の腕でスカートの裾を伸ばして隠そうとした。竹中は有無を言わさず、麻祐美の長袖を上までまくり上げる。肘や二の腕には、水彩絵の具を塗り広げたような紫や、赤い傷痕が広がっていた。麻祐美の視線は虚空を滑るばかりで、何を言おうか考えあぐねている様子である。

 竹中は、怪我は全身にあるのかを目だけで問いかけた。麻祐美はぽつりと呟いた。

「仕事とはいえお酒ももう飲みたくないんよ。頼れるのは、あんたしかおらへんの」

目の前にいるのは、痩細って乾燥した、派手な中年女であるのには変わりなかったが、その瞳は少女の無垢すぎる瞳になっていた。外に助けを求める術も知らない、殻に閉じこもることしかできない、親をひたすらに信じて懸命に待ちながら生きる小さな子供。目の前に差し出される駄菓子が唯一の救いであるかのように縋る子供。竹中は問いかける。

「逃げられへんのか」

「女1人でどうやって生きていくっていうんよ」

見上げた麻祐美からはもうすっかり少女の幻影は消えていて、悲しげな顔をしている中年女がそこにいるだけだった。

 金銭的に援助しても、手に入れられるのは一時的な身の安全だけだろう。耳を揃えてきっちり返ってくる保障は無いに等しい。そもそも、自分の家賃さえ危うい状況であり、人に渡せる分はもう残っていないのだった。

「悪いが、俺は元の鞘に収まる気はない」

竹中は心の中で、そもそも鞘に収まってはいなかったがな、と付け足す。2人の形はばらばらで、無理やり共に生活することを強いられていただけだった。

「なんでよ、私達上手くやれてたやん。あんたが相手してくれへんかったから離れてもただけで。ほんまはずっと好きなんよ。なんか急に部屋掃除してほとんど物捨ててもて、なんで変わってしまったん。これが。これがあんたを変えた原因なんか」

麻祐美はよたよたと立ち上がると、TE-1を乱暴に掴んだ。

「触るな」

竹中が声を荒げると、麻祐美はびくりと跳ね上がり手を引っ込めた。隣人がどん、と壁を叩く音がしたが、竹中はお構いなしだった。TE-1の前に立ちはだかり、麻祐美を睨みつける。麻祐美はわなわなと震え始めた。

「あんた、頭おかしくなったんちゃうん」

「人に手を上げるような奴と、どっちが頭おかしいんやろな」

 麻祐美は落ちていたファーコートを掴み取り、足早に玄関へ向かう。歯を食いしばり、誰も私の味方なんておらへん、いいねん私が全部悪いねんから、と繰り返しながら。竹中は唇を真一文字に結び、眉根を潜めてその様子を眺めていた。その表情は、憐憫という表現が最も当てはまるようだった。緑のパンプスに足を入れるのにてこずっている麻祐美の背中に声をかける。

「その男、今どこにおるか分かるか」

麻祐美は鼻を啜りながらコートを羽織っていたが、それを止めて振り返った。期待の眼差しが全身から溢れていた。掌を返すその速度を見て、どれだけ窮地に追い込まれているのかが嫌というほど伝わり、ますます哀れんでしまった。

「なんなん、助けてくれるのん」

「勘違いすんな。俺の貸した金を取り返しに行くだけや」

竹中は玄関に背を向けて、畳の上に胡坐をかいた。麻祐美が今どんな表情をしているのか、竹中からは見えなかった。

「あんたって無愛想やけど、やっぱり優しいねんな」

 

 夜が更けても、竹中はじっとそこで胡坐をかいていた。麻祐美がいた痕跡は、ファーコートの抜け毛や変な香水の香りでさえ、何もかもがもうそこには残っていなかった。目の前にはただ、TE-1が静かに佇んでいる。竹中は立ち上がって、質素な灰皿を引き寄せてポケットを探った。1本取って口に咥える。ふと部屋を見回すと、壁紙だけにとどまらず、カーテンや家具がすべてヤニで黄ばんでいるのがやたらと目についた。改めて迎え入れたTE-1に視線を戻すと、妖艶な輝きを放つ金字が眩しい。竹中は細く長い溜息をついた。

 窓を開けて下を見下ろすと、ゴミの焼却穴が見える。竹中はその穴めがけて、まだ数本しか減っていないタバコと灰皿を投げ捨てた。灰を吸殻が北風に乗ってばらばらと舞う。投げたものがきちんと穴に入ったか、竹中は興味がなかった。夜空を見上げると冬の大三角形が瞬いている。今年はハレー彗星が回帰する年であることを、竹中は思い出した。

 窓を閉めて、ミシンと対峙する。そっと左手を乗せると、無機質な冷たい温度とつるりとした塗装の質感が伝わり、冷え切っていたはずの竹中の臓器はとたんに熱を帯び始めた。指先まで血が通いだすのが分かり、竹中はズボンで手汗を拭いた。針も取り付けていないし、糸も通していない。右足をそっとペダルに乗せると、プーリーが回転し、ガシャガシャと動く。予想以上に大きな音に竹中は足を戻したが、やがて、もう1度先ほどよりも優しく踏んだ。今度はトコ、トコとゆっくりと動き始める。竹中は目を閉じた。振動が足の裏や両腕から伝わって、己の肉体と混ざり合い、溶けてゆく。この快いリズムはまるで心臓の鼓動のようではないか。今回のハレー彗星は肉眼で観察することが難しいらしい。だが確実に、巨大な尾を引きながら、76年もの歳月をかけて回帰してきているのだ。おおよそ人間の一生と同等の歳月をかけて。瞼の裏では、星の金色の瞬きや、大気と金属の冷たさ、夜空の黒が、零したインクのように次々と広がり、マーブル状になっていく。俺がもし、次の彗星が来る未来に生まれていたとしたら。竹中は自らに問いかける。俺がもし、その時もまた同じものに惚れていたとしたら。周りは俺を、俺は自分自身を、どう見るんやろうか。

 竹中は穏やかな顔で、いつまでもミシンの振動を感じていた。

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