​ふうてん

堀内しるし

1. 眞山あき(36)


 

私、生まれも育ちも葛飾柴又です。

帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、

人呼んでフーテンの寅と発します。

 


棚にずらりと並んだ【男はつらいよ】DVD全49作からひとつを選び、デッキに挿入する。

安いチリワインをコップに注ぎ、さばのオイル漬けの缶詰を開ける。

風呂に入って部屋着に着替え、いつ寝落ちしてもいい状態にしてから、再生。

これが眞山あきの金曜夜の習慣だった。

 

映画の筋はだいたい同じである。

日本中を放浪する寅次郎が地方でマドンナに恋をして、ふられる。

いってしまえばそれだけの話。付け足すならば、それに妹のさくらをはじめとする「くるまや」の面々が振り回されてひと騒動起きる。

 

あきにとって、この映画は自分自身の状態を知るためのバロメーターだった。

仕事でとても疲れた時、無性に寅さんに会いたくなる。

逆に、1本で足りずに2本3本と立て続けに観たくなったら、疲れている証拠だった。

 

あきはカー用品販売の会社に勤めている。

秋田県秋田市。本社は東京で、秋田には製造工場とカスタマーセンターがある。

営業や商品開発は本社、人員がとられる部署は地方に置くというのは企業がよく採る手法だった。地方ならば最低賃金が低いので人件費が節約できる。地域全体において就労場所が少なく、介護や土木などの業種に偏っている上に往々にして職場環境も悪いため、まともな福利厚生を提供するだけで有り難がられたり、県に表彰されたりする。

あきもまた、その労働条件に釣られて入社した一人だった。

 

大学進学で上京し、その後数年のフリーターと社会人生活を経て戻ってきた時には三十路を迎えていた。

姉と妹はすでに結婚し、どちらも子供を一人ずつもうけている。

都会でいくらか企業勤めの経験を積んでいたあきだったが、田舎には特有の面倒くささがあることを知った。

「あきちゃん相手いねんだが?」「産めねぐなる前に、ちゃんとせねばだめだ。おめ一人の問題でねえんだがら」

先輩社員やパートの主婦勢には口々に言われたものだった。帰郷して実家に顔を出したその日に、近所のおばさんが見合い写真を持って現れたことにも驚愕した。

「そんた年だもの、おかしげんた人だ思われんべ。あきちゃんってば、まさか、そっち系だが?……うそうそ。冗談だ。都会の人さは冗談通じねが?」

そんな言葉を浴びるたびに、あきはどんどん硬くなった。

心も、そして体そのものも縮み、こわばっていくのを感じた。手にすくった雪をぎゅっと丸めていくと、どこまでも小さくなって、どこまでも硬く、最後には石同然になるように。

 

その週の金曜日も帰宅してから寅さんを観た。

【男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎】32作目の作品。竹下景子がマドンナ役で、住職にふんした寅さんが見よう見まねで法事をこなすシーンは傑作だ。

妹のさくら、その亭主の博、その息子の満男、おばちゃん、おいちゃん、タコ社長。その団欒の外に、寅さんがいる。

その傍らに自分がいた。「お兄ちゃん、そちらの方は?」と、さくら。

そうか、今回のマドンナは私か。さて、これからどうやって寅さんを振ってやろうか……。

ワインを2本開けて、テレビをつけたまま眠っていた。


 

あきの仕事は、カスタマーセンターの管理統括である。

入社してからはまず研修として電話の受け手を命じられた。電話は基本的にパートが受けて、社員はサポートや管理に回るのだが、二年目までは現場に入り実戦のノウハウを身につける。

電話の内容は多種多様だった。カーナビやドライブレコーダーの操作方法、車検とタイヤ交換の見積もり、ワイパーの性能、エンジンオイルの良し悪し。

業務については、はじめに想像していたほどのストレスは感じなかった。

もちろん最初は不安で、胃に穴が空いたらどうしようとふるえていたものだったが、一年も経てばかなり順応した。

誠意を尽くして対応すれば事足りる案件がほとんどであったし、口の悪い客も当然いたが余程のクレーマーは月に一度ほどしか現れなかった。たとえ出現しても音声は録音されていたし、「ころすぞ」などの言葉が相手から出れば恫喝になるのでむしろ話が簡単になった。

 

そして、あきにとっては何よりも栗田いずみと出会えたのが救いだった。

 

いずみは社員候補として入社してきた。

本人はパートを希望していたが、職場ではもっとも若い26という年齢のため、会社側の期待が込められた肩書きが追加されていた。

彼女はいつもモコモコふわふわした感じの服を着て、コンビニのレジ横で買えるタイプのアイスコーヒーを飲んでいた。

「眞山といいます。栗田さん、これからよろしくお願いしますね」

「……なんで敬語?」

初対面での会話はこうだった。つづけて、いずみは

「だって上司でしょ」と、あきの顔を指さした。

あとで振り返ると、部下が口にするにはだいぶあべこべな物言いだった。

いずみとは反対に、あきは誰に対しても敬語で通していた。

それはパートが全員年上の主婦だったことも原因のひとつだろう。加えて、休憩室で彼女たちが使う秋田弁の「遠慮のなさ」についていけなかったことも関係している。

「……敬語が、すきで」

よくわからなくなって、そう返した。

いずみは一瞬きょとんとしたものの、

「すきならいいね。よろしくです」と、ガソリンスタンドの店員くらい真っ直ぐにお辞儀した。モコモコのフードがあきの顔に当たった。

 

いずみは、たびたび激昂した。

彼女はなにしろすぐに怒る。椅子から何度も立ち上がって、相手がまるで目の前にいるかのようにまくしたてるのだ。どうにか敬語は使っていたものの、ただ使っているだけにすぎない。

「そんなに怒ってない……怒るほどの相手じゃない」

電話を終えるとコーナーに戻ったボクサーのような鼻息を漏らして着席するのが常で、まるで説得力がなかった。

半月ほどして、あきが教育係としてサポートにつくことになった。

「まずは冷静に」パソコンのディスプレイにそう書いた付箋を貼った。

 

まずは事実確認。

感謝が大事。

口調+態度も敬語で。

あんた、お前、ワレ→お客様。

引き分けだったらこっちの勝ち。

付箋は日を重ねるごとに増えていった。

 

「そりゃ正論だろ、とおっしゃいますが、お客様。正論も通用しなくなったらこの世は終わりじゃありませんか。世のなか理不尽は多いでしょう。生きてく上では黒も白、白も黒と言わなきゃならない時があります。生活のためです。ただ、そんな生活を積み上げていって、残るものはなんなんでしょうね……お客様。正論を吐く人間というのは、ただ正義だの道徳だのを述べて誰かをねじふせようとしているだけじゃないのかもしれませんよ。ええ私だってそうです。生活、つまり生き延びるため。明日のおマンマにありつくために日々汗水垂らして働いてます。こうして弊社のルールを説明してますがね、それが世の中のルールというわけじゃないのは百も承知ですよ……ひとつ最後まで正論につきあってくれませんかね。その聞き分けの悪いカーナビもこうして縁あってお客様と出会ったわけで……」

 

まるで啖呵売である。

こう矢継ぎ早に言葉を繰り出せる人間もなかなかいない。クレーマー並みといっていい。

そして、電話が終われば大体の場合、さして大事には発展していないのだった。

他の従業員は一様に彼女のことを問題視していたが、あきはむしろこの仕事に向いているのではないかと感じていた。


 

ある冬の日の、休憩室。

あきがコンビニで昼食を買って戻ってくると、テーブルに突っ伏して寝ているいずみの姿があった。

沖縄黒糖のかりんとう、源氏パイ、Mサイズのアイスコーヒー、懸賞クロスワードの雑誌。

エアコンの作動音に混じって、すこやかな寝息が聞こえる。

無理もない、とあきは思った。

その日は早朝に大雪が降り、社員総出で駐車場の雪かきをした。秋田市にしては記録的な量で、バス通勤のパートはほぼ全員遅刻したが、運悪く徒歩で出社できる距離だったいずみは作業に付き合わされることになった。真っ赤なモコモコの服に雪のつぶがついてまだらになっていた。信号機がかすむほどのホワイトアウトに、寄せても寄せても振り続ける雪。いずみ、そしてあきも朝から汗だくになってスノーダンプを押し続けた。

 

それにくわえて、午前中にいずみが対応した客がひどかった。

上司を出せとか、社員教育がなってないなどのステレオタイプの発言はせず、どこまでもねちっこくやるタイプ。最終的に手に入れる商品券や割引クーポンを自分の論理力の証明にしようと考えているようなクレーマーは、たいして声も荒げないから対応が難しい上、社員と交代しても「さっきの人と話したい」などと言ってくるからタチが悪い。貧乏くじをひいた担当者はひたすらに精神を消耗させられるだけだった。

 

早退するかどうか、起きたら聞いてみよう。

……いや、早退してもらおう。

 

あきはそう考えながらテーブル上を少し整理して、サンドイッチを食べてペットボトルの無糖紅茶を飲んだ。

食べ終わってもまだ時間があったので、クロスワードを解いた。案外難しい。

 

備え付けのワードローブにいずみのコートがかかっている。

今朝ついた雪のつぶが溶け、裾と袖口からしずくが垂れていた。

 

ぼさぼさの、栗色の髪。寝息。ふたりきり。

かすかなコーヒーの香り。遠くで、電話を受けているスタッフの声がする。

あきはふいに、この状況がたまらなくなった。

自分でもなんだかよくわからない。

暖房の稼働音、乾いた空気、眠りこけているいずみ、滴る水。


 

タテのカギ

8. 元横綱、大乃国。スイーツ好きで知られる◯○○◯◯親方。

「○ばた○○」


 

ボールペンは握っていたものの、マスに入る文字などはもちろん頭に浮かんでこなかった。

「とけそう?」

いずみの声がした。

彼女はあきを見つめていた。

頬に寝あとの筋が入り、髪の生え際はすこし汗で濡れている。口の端のくぼみにわずかな透明のよだれ。

「はい、とけそうです」

いずみが言うのとは別の意味で、あきは答えた。

 

その晩、あきはBSの映画チャンネルを観た。

自分で選ぶのではなく偶然流れてくる寅さんを、しかも途中から観るという行為にはまた違った趣きがある。

放送していたのは【寅次郎忘れな草】。

浅岡ルリ子演じるリリーは後の作品でも幾度か登場して、最終作ではついに寅次郎の想いに応える人物である。

 

ワインのせいかもしれないが、リリーは初登場の時からはっきりと寅次郎の運命の人にみえた。



 

2.栗田いずみ(26)


 

「こったな人だぢって、まぁ趣味なんだべな。こんた格好してよ……しょしなぁ」

 

男は爪を切りながらテレビを観ていた。

「しょし」は、恥ずかしいという方言である。

「オカマを自称するタレントが一般男性と合コンする」という企画のバラエティ番組が流れていた。別室でその様子をモニタリングしている芸人たちが外見についての品評を加え、その場を盛り上げていた。

 

「なんつーがよ、切実でねぇんだよな。それが相手さも伝わるんだべ」

 

男は秋葉といい、当時所属していた吹奏楽部のOBで県立大学4回生、単位が足りず留年が確定しているなかで親が買い与えた車を乗り回して遊びほうけていた。

いずみはこの男のどこに惹かれたのか、その頃には忘れてしまっていた。

おそらくは粗野で向こう見ずな性格を「大人びている」「余裕がある」と勘違いしたのだろう。


 

いずみには、同時期にもうひとり気になってる相手がいた。クラリネット奏者の先輩でひとつ年上の女性だった。

どちらかといえば、より好意を抱いていたのはクラリネットの方だったが、いずみは男を選んだ。自分の意思を正確に測ることなく、「その方が自然」と判断したことを、この時とても後悔していた。

 

「……切実じゃない?」

「んだべ。じゃない、っつうよりか、さ。わがんべ?切実さが足んねえって感じ。こういう……な?人種っていうか、人ってのはさ、やっぱおれらの好きとかとは違うんだべな」

 

秋葉は爪を切り終えた足の指先をフッと吹く。そして、やにわに立ち上がっていずみに背を向けた。ジーンズのポケットをまさぐり、ばっと振り返ると、手品のように口に避妊具を咥えている。

「おれの方が、しったげ切実だべした……」

甘くつぶやくと、倒れ込むようにしていずみに覆いかぶさった。

 

「しょしな……」

いずみは手近にあった秋葉のニンテンドーDSを握り、こめかみを殴りつけた。数回打ちつけてから床に放ると、ゲームが勝手に起動して、「最初から」と「続きから」を選択できる脳トレソフトのオープニング画面が出た。いずみは部屋を出ることに決めた。

秋葉を角で殴らなかったのは、自分について新たな情報を与えてくれたことに対するせめてもの感謝のつもりだった。

「……どさ行ぐ?!」

背後で秋葉が叫ぶ。

「おめ、……おれど別れんのが? こんた夜中……あど電車もバスもねぇべ。どごさ行ぐんだ?」

「風に聞け、カス」


 

栗田いずみは、いつでも風に吹かれていたかった。

人づてに聞いたことよりも自分で感じたことを素直に信じて生きたい。

そして、自分の中にけっしてブレない軸があればこそ、風は感じることができる。

どこで暮らしても、たとえ天変地異が起きても軸さえあれば平気なはず。

そのためにはまず自分自身をつぶさに点検して、自分が何が好きかを知りつくし、多くない引き出しにしまうことだ。

 

モコモコの服。ローリエ多めのピクルス。アイスの実の巨峰。猫のあくびのにおい。コンビニレジ横のアイスコーヒー。誰かの作る夕飯を待ちながら見る相撲中継。

私は、異性よりも同性が。

 

そう認識しても、いずみはさほど動揺しなかった。

点検の末に出した答えならば、納得して、それにしたがって生きるだけだ。

 

「フーテンですね」

 

秋葉とのエピソードを話したいずみに、眞山あきは真面目な顔で答えた。

フーテン。語源を辿るとあまり良いものではないが、映画「男はつらいよ」の主人公のような放浪者、異端者としての生き方のこと。

いずみはその映画は知っていたものの観たことはなかった。

 

「とってもいい考えだと思います。寅さんみたいで」

 

あきは咳払いをひとつして、いずみに向き直った。

 

「寅さんも同じように言うんです。第29作目【あじさいの花】。風の吹くまま、気の向くまま、って。マドンナの住む街に立ち寄ってくれないかってお願いされるんですけど、じゃあ、風に相談するよって……言うんです」

「へえ。あー、同じか。……同じか?」

「同じです、いずみさんと。あ、あとこれは有名なんですけど、甥っ子の満男に言うせりふ」

 

あきが口調を真似る。

「困ったことがあったら風に向かって俺の名を呼べ。どっからでも飛んできてやるから。……っていう……格好よくないですか?……あ、だったら口上かな。やっぱり。よし、いきますね……エー私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。不思議な縁もちましてたった一人の妹のために粉骨砕身、売に励もうと思います。さあさ、四角四面は豆腐屋の娘、色は白が水臭いときた。どうだ、おい、よーし負けちゃおう。どうだ畜生!もってけオイ!」

 

そこからも口上をさんざん聞かされたあげく、翌日「(あくまで!)自分的ベスト5」というメモの貼られたDVD5本を渡された。

いずみはこれまでの人生ずっと周囲に変わり者扱いされてきたが、いずみからすればあきの方がよっぽど変わっていた。


 

10も年下のいずみが敬語をまったく使わないのも意に介さないし、仕事でアドバイスや注意をするときでさえ、相手を傷つけないように周りくどい言い方をしているのがわかった。

とはいえ、誰とでも上手く調子を合わせようとしているようでもない。

職場の休憩室ではやれ不倫だの妊娠がどうだの下世話な話題になることが度々あったが、そういう時にあきはすっと席を立つ。去った後の場は、実に何とも言えない空気に包まれる。きっと見た目ほど器用ではなく、根の部分は頑固なのだと思う。

 

ある日の午後、会社前の道路を消防車が数台通り過ぎて行った。

けたたましいサイレンの音が鳴り響き、従業員たちが窓際に駆け寄る。見ると、水をふくんだ墨のような煙が青空にぽんぽんと浮かんでいる。ほどなくして、会社からほど近い飲み屋街「川反」のビルで火災が起きたのだとネットに情報が出た。

 

いずみは席に座って携帯をいじっていた。どこで火事が起きようがまるで興味がなかった。

そこで、同じく座ったままでいるあきの姿が目に止まった。

皆とは反対に、廊下の方を見ている。授業中トイレを我慢している子のようにそわそわしていた。

視線の先を辿ると、席からちょうど入り口をまたいだ廊下の壁際に消火器があった。

彼女はそれを透視するかのようにじっと見つめていた。

 

あの黄色いピンを引き抜き……

ホースとレバーを握って……

あの粉末をぶちまけてみたい……

千載一遇のチャンスが訪れるかもしれない……

 

眼差しの意味をいずみはそう理解した。あきはあれを使いたいのだ。

しかし、さすがにここまで火の手は及んでこないだろうと思う。仮に火の手がここまできたとして、それは消火器を使うタイミングではなく逃げるタイミングである。

 

あきが消化器にそうであるように、いずみもまた目が離せなくなっていた。

フーテンの素質は、あきにこそあるのではないだろうか。少なくとも、火事が起きた時に消化器を見て胸を高鳴らせる人間をいずみは他に知らない。


 

ある冬の日の、休憩室。

いずみはテーブルに突っ伏して寝ていた。

珍しく、ひどく落ち込んでいた。

休憩時間に入ってすぐにコンビニへコーヒーを買いに行った。レジで会計を済ませ、Mサイズのカップを抽出マシンに置いた後、誤ってSサイズのボタンを押してしまったのだ。

当然、流れてくるエスプレッソは少なく、氷の嵩の半分ほどで終わる。むろん薄い。

いずみは自己肯定力が桁外れに強く、あらゆることを他人のせいにできる一方で、どうあがいても自分以外の誰のせいにもできない出来事に打ちのめされやすかった。

くよくよしているうちに、朝の雪かき作業の疲れも相まって眠りについた。

 

目を覚ましたら、すぐそばにあきがいた。

熱心にクロスワードパズルを解いている。

いずみの視線にまったく気づかないほどの熱中ぶりである。

少しの間、彼女はその様子を観察してみた。

最初は順調のようだったが、途中で天をふり仰ぎ、首をかたむけた。

携帯を一度取り出して、画面を操作しようとして、やめる。

少ししてから、また携帯を手に取り、またやめた。

きっと答えをネット検索しようとしたのだろう。が、それはフェアでないと思い直したらしい。その雑誌自体、随分前から休憩室にあるものだから懸賞の応募期間はとっくに過ぎているはずだった。

あきは腕組みをして目を閉じ、ふたたび思案に暮れた。

 

いずみはまた消火器のことを思い出す。

このひとからはなぜか、目が離せなくなる。

なにか自分にとって大事なものが、むきだしのまま日の下に晒されているような、そんな焦りにも似た気持ち。家ではなく街なかで偶然、自転車に乗っている母親を見かけた時のような。

夏の終わりと秋の始まりの、涼しいと肌寒いの中間の風が胸を通り過ぎていった。

 

いずみが自分自身を点検しはじめたのと、あきがその視線に気づいたのはほとんど同時だった。

 

今回だけはすぐに答えが出ないかもしれない、といずみは思った。

 

「とけそう?」

少しだけ間が空く。

「はい、とけそうです」

「……あと何問?」

「タテのカギが、あとひとつだけ。……いずみさん、あの映画観ました?」

「映画……映画。ああ、あじさいの。まだ」

「あ、時間ある時で。全然」

「うん。観ないかもだけど」

「えー。観てー」

「ふふ。わかった」

「……あの、寅さんってね、クレームでよみがえったんです」

あきはいずみの顔を見すえ、居住まいを正した。

「初めはテレビシリーズだったんです、男はつらいよ。テレビドラマの最終回で、寅さんはハブに噛まれて死ぬんです。それに視聴者がクレームを入れて。自分たちの寅さんを殺すなんてけしからんって。それが結果として映画化につながったんです。……だから、なんていうか、クレームも全部が全部、わるいことじゃないっていうか……うん。関係ないかもですけど」

「へえ、…………ああ」

そこでいずみは午前中、クレーム対応で散々な目にあったことを思い出した。あきが自分を励まそうとしてくれていることもわかった。

「ごめん、あれ全然気にしてない」

「……あ、よかった。じゃあ、すごく」

 

あきは心底ほっとしたような顔をして、それから再びクロスワードに戻った。

「スイーツ好き……力士……」

いずみは身を起こして、ムンと大きく伸びをした。首を回すとぱきりと音がした。

クロスワードのページを覗き込み、あごに手を当てウウンと考え込む。その仕草はやや芝居がかっている。

つぎの瞬間。ものすごい勢いで顔を近づけ、あきの唇をうばった。

頭突きされた、と一瞬勘違いしたあきは身をのけぞらせて固また。

が、まもなく、長いまばたきをするように瞼を閉じた。黒糖の甘みがつたわる。

 

いずみは唇をくすぐるように動かした。

「芝田山親方」

 

思ったよりもすぐに答えが出た。


 

おしまい