ノーサイレンス
セクマイWebアンソロジー
出立の日
会田ルリのそれまでとこれから
並木満
4
「アヤさんに会いたい。俺も家族を連れて来るから、みんなで話そう」
ルリは達夫からの電話を疑いながら取った。詳しくは今度会った時にとは言っていたが、あまりにも口調がいつも通りで不安になる。
このまま終わってしまうのではないだろうか。アヤと会うと言うのだからそんなことはないはずだと思うのだが、ルリが打ち明けた時の達夫の憔悴しきった表情を思い出すと、なんでこんなことを言ってしまったのだろうと後悔の念もある。自分だけのことしか考えていなかったのではないだろうか。それに達夫に先んじて告げたのも間違っていたのではないか、彼が言う通り、エマを除け者にするようなことだったのではないだろうか。
そんなことがあって、アヤにこのことを告げるのにも勇気が要った。食後、コーヒーを飲みながらアヤは少しばかり考えて、こう言った。
「私の伯母に会いませんか?」
「伯母さん?いいけれど……どうして?」
「彼女、女性専用アパートの管理人をやってるんですけど、ルリさんと年齢も近いしいろんな女性を見てきているし、話しを聞いてくれるかもって……ていうか、私も会ってほしいなって思っちゃった。家族で私がレズビアンなこと知っているの、その人だけなんです」
正直息子のことでいっぱいいっぱいで、誰かに会うのも少し躊躇うことであったが、アヤがそう言うのだ。達夫との約束の日取りをまだ決めていない今だからこそ、何か参考になるかもしれない。それ以上に、誰かに話を聞いてほしいのは確かだ。
ということで、よく晴れた空の下、ルリはアヤに連れられ猫山荘にやってきた。そこは隣の市の住宅街にあった。アヤの休みに合わせ平日の外出となったため、白昼の住宅街は人の気配がなかった。そんな中、アヤは一軒の家の前で立ち止まった。
「ここです」
「え?ここ、アパートなの?」
「そうですよ、ほら、一応外からそれぞれの部屋に入れるようになってますし、大家さんの部屋からも戻れますけど」
そう言われて建物の横を見ると、階段が見えた。建て増しを重ね導線はめちゃくちゃらしいが、それなりにプライバシーは確保されているらしい。外から見ると一軒家にしか見えないから、家の前のポストが部屋ごとに分かれているのが不思議なくらいか。
「万里さーん、アヤです~」
そう言ってインターホンに話しかける。万里という名前にルリは内心動揺する。まあ、孫と同じ名前の程度だと言い聞かせた。
しかしその行為はドアを開けた女性の姿を見てその願望はあっけなく崩された。
「おかえりなさい」
そこにいたのは……一目でわかった。何よりその声が、ルリをこの場から攫う。その瞬間様々な感情が、ルリが誰からも見えないように押し留めていたものが、まるで完全に開け放たれたあちこちに飛び跳ねるようだった。
「え…………片山、さん?」
震える声が漏れる。名前を確認することは確かに怖かった筈だが、そう思う前に言葉はルリの唇を染めた。女性も暫くそんなルリを訝しげに見ていたが、しかしはっとした表情をしてこう返してきた。
「あれ……?もしかして、嶋田さん?ルリちゃん?」
「え?」
アヤがぽかんとしているが、ルリはそれらを説明することができなかった。彼女……忘れもしない、片山万里子はすでにそのポニーテールを切ってしまっていたが、それでもその溌溂とした陽の当たる場所の香りのする声を懐かし気にルリに投げる。
ルリはうんうんと首を縦に振ることしかできなかった。万里子はアヤとルリを交互に見た。
「そんなことあるのね……久しぶり、嶋田さん」
「こちらこそ。あの……」
「ちょっとまって、立ち話もなんだから……中に入ってちょうだい、座ってちゃんと話したいの。アヤちゃんも入って、元気そうで何よりだわ」
そう言って促され、アヤと二人で家に入った。広い玄関には様々なデザインやサイズの女性用の靴が並び、スリッパ立てには来客用のほかに住人用と思われる色違いのスリッパがあった。
玄関から抜けるとそこはリビングで、落ち着いた色合いの家具で揃えられ印象を与える内装だった。ただ、何故かリビングから玄関に抜ける短い間にホワイトボードが置いてあった。すぐに住人との伝言ボードと気が付いたが、少し驚いた。
「ごめんね、そろそろ住人の一人が起きてくるころだからソファーに座ってて。コーヒーとお茶、あと紅茶があるけどどうする?」
「私はルリさんと同じで」
「じゃあ……コーヒーで」
そう言われた万里子が出すコーヒーは、可愛らしい猫の絵が描かれたマグカップの中で黒々としていた。信じられない。指先すら震えるようだ。まるで寒空の下でスープでも飲むかのようだった。彼女がいる、目の前に。しかし何故だろう、会って話したい気持ちがあったはずではあるのだが、何を話せばいいのかまるで分らない。
万里子はソファに掛けるとコーヒーに口をつけ、話を切り出す。
「ええと、なんていえばいいか。まずはアヤちゃんに説明するべきね。私と嶋田さん……ルリちゃんは中学校が一緒でね。よく休み時間に話したり、お昼を一緒に取ったりしていたの」
「そうなんですか?」
「う、うん」
「ルリちゃんに説明すると、アヤちゃんは私の姉の子なのよ」
「そうだったんだ……」
姉がいたことはなんとなく聞いていた気もする。懐かし気に目を細めるその姿は確かに年を取ってはいるが、あの頃のままだ。
確かに……初めて会った時にそう思ったように、アヤと万里子はよく似ている。まあ、ルリは相変わらずしどろもどろでろくに万里子の方をよく見られないのだが。そんなルリを訝ったのだろう、暫く黙っていたアヤが、こんなことを言い始める。
「もしかして、ルリさんの初恋の相手って……」
一番悟られたくないことだった。確かに、状況は全て符合するし、なんなら真実もその通りではあるのだが、アヤにも万里子にもそれは知られたくないことだった。ルリは思わずマグカップを取り落としそうになり、浮つく声で否定するが、うまくできない。
「え、ちょっと、待って、アヤさん……や、その……」
「ふふ、知ってるわよ」
「え?」
万里子の声に思わず、ルリは万里子の方をしっかり見てしまった。彼女は明るい表情のまま、ルリを眺める。
「ルリちゃんが私のこと好きなのは知ってたわ……というか、アヤちゃんの話を聞いていて後でわかったの。アヤちゃんは小さいころから女の子が好きな子だったから、もしかしたらルリちゃんもそうだったのかもって。アヤちゃんはね、お父さんにもお母さんにも何も言えなくて、頑張ってたんだけど……いつだっけな、言ってくれたの。あの時、思い出したの」
万里子の言葉は暖かく、それでいてまっすぐだった。彼女に気持ちを知られていた気恥しさもさることながら、それがアヤによって齎されていたことだなんて、運命の悪戯とは言うがこれはまさに悪戯としか言えなかった。それもまるで子どもが後先考えずに作る物語のような。
「諦めていたのに……あなたには静子さんがいて、卒業式のあと……焚火しているのをたまたま見かけたから……」
「焚火?」
アヤがこちらを見て、そのあと万里子を見た。万里子はああ……と天を仰いで、あれね、と呟いた。その声は万里子に似合わない少し冷たいものでもあった。そこに触れるのが怖くなり暫く沈黙が流れたが、それを破ったのは二階から響く足音と女性の嘆く声だった。
「ちょっと!万里さん起こしてよ~……あれ?お客さん……って、アヤちゃんじゃん?あれ?」
奥の階段から降りてきたのは、ルリよりも小柄で、あどけない少女のような女性だった。年齢はわからないが、少なくともアヤよりは年下だろう。短めのボブヘアをかきあげ、こちらに頭を下げる彼女は明らかに寝起きといった感じで、どう見ても部屋着だ。
「紹介するわ、うちの住人のメイちゃん。システムエンジニアをやってるのよ、とっても優秀なんだから」
「こんにちは、花小金井メイです……あの、すみません、夜勤明けでこんな格好……もう万里さん困るよ~言っててほしかったなあ」
「寝てるの叩き起こしたら可哀想でしょ」
「お客さんの前で部屋着で降りてきちゃった方が可哀想でしょ!」
軽い口調で言いあう二人は、まるで家族のようだ。住人と大家にはとても見えない。そこに入れないもどかしさをふと思い出す。静子と万里子のあの関係。今思えばルリがあの場にいたのは、不思議な縁だったと思う。
「あの、私……片山さんのクラスメイトだった会田ルリと申します……」
ルリがそう言うと、万里子が眉を上げる。
「あら、今は会田さんなのね」
笑う万里子にそう言えば何も言ってないことを思い出した。メイはそんな二人をきょとんと見ていたが、気にしていないのか階段脇のキッチンにある冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに入れると流し込むように飲んだ。
万里子は静かに話し始める。あの物静かだが少し湿度のあるクラスメイトの話を。
「静子はね……ううん、これは言わないって約束だったんだけどさ、まあ、卒業証書を燃やしてるところ見られてたんだから仕方ないか」
「あれ……卒業証書だったの?」
「うん、あの子、あのときもう県外に結婚が決まってて……本人はすごい、それを嫌がってて……今思えば、助けてあげられたかもしれない。静子はずっと高良くんが好きだったからさ」
「え?」
静子のあの時々見せるルリへの牽制のような眼差しは、万里子との間に入るなという理由ではなかったらしい。
しかしあの末医師……当時は医師ではなかったが……彼のことが好きだったなんて信じられない。彼女の視線の先に、あの気難しい少年がいただなんて思いもしなかった。それに結婚だなんて。全く聞いていなかったし、ルリの世代でもその年で結婚は流石に早い。
「え、知らなかったの?」
「あ、あ、いや……うん、知らなかった……あの子は万里子さんのことが好きなんだと思ってた……」
「あはは、まあちょっと私に依存はしてたんじゃないかな、あの子、私にしか話しかけられなかったみたいだし。高良くんは高良くんで人に興味ない感じだったから余計にね。でもルリちゃんが話しかけてくれたから嬉しいって、静子ずっと言ってたよ」
「静子さんが……どうして?」
そんな風ではなかった。彼女は何も言わなかった。ルリが万里子に惹かれて声をかけたことを拒絶もしなかったが、同時に歓迎もしていないと思った。それは静子が圧倒的に万里子の隣にいるが故に許されているだけだからだと思っていたのだが……万里子は笑う。
「あはは、だってルリちゃんは高良くんと仲良かったじゃん。一回ルリちゃん越しに話せたんだって。すごい喜んでたのよ」
「全然覚えてない……そんなことあったかしら……」
全く記憶にない。静子が喜んでいる姿など想像もできない。ああ、まただ。ルリがどれだけ努力しても、この二人の関係に入れない。
しかし、それでも彼女たちに関わったのは事実だ。万里子はそう言いたい風にケロリと笑う。
「意外とそんなものよ」
「……今、静子さんって……」
「ううん、そうか……そういう話になるよね……」
万里子は少し俯き、暫く言葉を転がしているようだった。話したくないのであれば、話さなくていい、ルリがそう言おうとした瞬間に、万里子は温くなったコーヒーをぐいっと飲んで話し始めた。
「いつだったかな……20代半ばで、死んじゃったって。なんでかは知らない。病気かもしれないし、事故だったかもしれない……どっちでもないかもしれない。でも本当に人づてに知っただけ。だからお葬式に私も呼ばれなかったの。あとでお香典を送ったんだけど、そっけなくお返しが来ただけ……相手の顔も知らない。名前だけ知ってる」
20代の姿でこの世から去った静子は、きっとその名の通り静かに人生を終えたのだろうか。望まぬ家族に隠され、親友だった万里子の弔問も受けず、彼女は今何を語るだろうか。骨となった若いままの彼女は、老いた二人になんと言うだろう。
万里子はこうも続けた。静子は少し難しい家庭の出身だったのだという。そう言えば、ルリは思い出そうとするのだが、今となっては静子の顔が上手く思い出せない。何かを諦めたような、悲しい顔をしていた気はするが、普段からそうだったわけではないはずだ。ただ、彼女の死を悼むことしかできない。
「そう……そうだったの」
「悔しくて仕方ない、本当にそう。そう言うのもあって、私は今まで結婚しないできた」
ルリは驚いて顔を上げる。確かに女性専用アパートと聞いた時点で薄々勘付いていたことであった。姪のアヤが懐いていると言うことも、よくある独り身の女性にあることだと言うことは知っている。伯母のほうが実の親より親代わりなんてよく聞くことだ。しかしその根底が、彼女のそう言った経験からくるものだと知る人は少ないだろう。静子がそれを望むとも思えない。
「万里さん、そうだったんだ……」
「うん、アヤちゃんがカミングアウトしてくれた時に……本当は話すべきだったかもしれないけど、今話せてよかった。この日のために言わなかったみたいだけど、本当に違うからね……でも、ルリちゃんがアヤちゃんとかあ……そうか、そうなんだね」
「な、なんだかそう言われると急に恥ずかしいんだけど……」
万里子はルリのそんな言葉にちょっと意地悪に笑った。
「あら、アヤちゃんと付き合うことは恥ずかしいこと?」
「そうじゃなくて、ええと……なんだか、私が貴方にずっと浮かれているのが全部わかられちゃったみたいで……」
しかし、今となっては、その気持ちも何故だろうか凪いでいる。それは隣にいるアヤのお陰なのだろうか。彼女が、足場のないふわふわとしたルリの手を取って、地上に立たせてくれたのかもしれない。アヤはそれに気が付いているのかいないのか、万里子に食って掛かるようにこんなことを言い始める。
「万里さんは知らないと思いますけど、ルリさんが初恋の話するときの顔めちゃくちゃ可愛いですからね?」
「アハハ、急に惚気ないでよ、よかったよかった……いや、なんか昔に戻るっていうけど本当に戻るね……じゃあ今度はルリちゃんの話を聞かせて」
請われて、ルリは少し自分の話をした。末医師の話も少しした。ルリが見合いで結婚した話。子どもができた話。何事もなく進んだ家族の話。そして、アヤとの出会いと再会について。そうこうしているうちに夕方ごろになっていた。
楽しそうにそれらを聴いていた万里子は時計をちらりと見ると、こちらに振り返る。
「そろそろみんなが帰ってくるから、ご飯食べていかない?うちの子たちに言ってるから買ってきてくれるはずよ」
「あら、そんな……いいのかしら」
「もうこっちはそのつもりだもの、じゃあ決まり。一応確認しておこうかな」
そう言って万里子はスマートフォンを手に取り、電話をかける。夜勤のメイ以外の住人にはアヤたちの来訪を伝えているようだ。アヤが嬉しそうに肩を揺らす。まるで子どものような振る舞いがルリを鮮やかにどきりとさせる。
「万里さん!私、お酒飲みたい!」
「わかってるってば……ああ、蛍ちゃん、今どこ?あらそう、ありがとう。いいわね~アヤちゃんがお酒を所望しているわ、アハハ、わかったわかった。はいはい……」
電話する万里子の横でアヤがルリに嬉しそうに話しかけてくる。
「蛍ちゃんはメイちゃんのお友達なんですけど、めちゃくちゃ面白いんですよ~見た目は可愛いですけど」
「なんだか、万里子さんも楽しそうで本当によかった……気にはなっていたから」
電話する万里子を見ていたら、アヤがルリの前にずいっと身を乗り出す。急に顔が近くて慌てるが、アヤはそのまま切り出す。
「ルリさん……まだ万里子さんのこと、好きですか」
「も、もう……なんだったか忘れちゃった。今はアヤちゃんが一番大切だもの、今思えば、恋に恋してたのかもしれないし……」
「……そうですか、私はルリさんだけが一番好きです」
ルリの頬が熱くなるので早く離れてほしい。好きではあるし本当に大事なのだが、精神が追い付かなくなってめちゃくちゃになりそうだ。それを見てアヤの表情が、少し明るくなる。万里子とルリ、そして静子の話を聞いて、思うところはあるのだろう。
だからと言ってこんなにストレートに愛情表現をされたことが今まで経験がなさ過ぎてどうしていいかわからない。どんな表情をすればいいのかとか、なんて言えばいいのかとか、一つ一つがかみ合わない。
「じゃあ気を付けて帰りなさいね……はあ、あんたたち、惚気合わないでよ、電話してる時にニヤついちゃうじゃない。それになんだかフラれた気分~!」
電話を終えた万里子がもう、と手を振る。ボディランゲージの大きなところは昔からだ。明るく、それでいて優しい彼女の反応にアヤも応える。
「気分じゃなくてフラれたんですよ!ルリさんは今は私が好きだって今言ったもん!」
「ちょ、ちょっと」
三人で騒いでいると、再び二階からトタトタと軽い足音が響く。先ほどまで寝起きの様相だったメイが身綺麗にして降りてきたのだ。
彼女は三人の様子に呆気に取られていたが、そのうち大袈裟に声を上げる。
「あぁ、よかったぁ、喧嘩しているのかと思った」
何を勘違いしたのか、へたり込む仕草まで見せるメイに、アヤが笑う。
「もう、すごい早とちりするじゃん。声そんなに響いた?」
「びっくりした……いや、大丈夫だけどさぁ」
笑いあう二人に微笑んでいると、万里子がそっとこちらに視線を遣る。
「アヤちゃん、いい子でしょ」
「……うん」
「さっきも言ったけど、ルリちゃんでよかったわ。息子さんの話だけど、たぶん大丈夫よ。ダメならダメで、死ぬわけじゃないし」
万里子の言葉に驚いてその顔を見ると、万里子はまっすぐこちらを見つめている。ああは言ったが、過去の感情をなかったことにすることはできない。でも今なら、過去の自分にそっと声をかけることくらいはできるであろう。
「ありがとう……片山さんのこと、好きで良かった」
「どういたしまして」
そして住人たちが帰ってきた。松原蛍という住人はアヤの言う通り顔立ちの整った綺麗な女性だったが、アヤとほぼ同等の酒豪で酒をたくさん買ってきた。もう一人は王花琳という中国出身の留学生だったが、彼女は自ら食材を買いキッチンに立ち、母から教わったという料理を再現してくれた。今はその三人と仲良く暮らしていると言う。酒の入ったメイが話す仕事の愚痴を笑い交じりに聞いたり、蛍とアヤの酒飲み合戦を宥めたり、花琳と少し彼女の田舎の話をしたりした。万里子はいつも笑顔だった。今までの住人の写真も見せてくれた。
帰り際、アヤと夜道を歩く。万里子のような生き方も、あると思う。しかし、その理由を考えた時に、果たしてそれでいいのだろうかとも思ってしまった。ルリが言えた口ではないことはわかっているし、今が幸せならばそれでいいとも思う。
アヤはあれだけ酒を呑んだのにも関わらず、楽しそうに歩いている。
「私、ルリさんにみんなを紹介できてよかった……親とはもう、しばらく連絡とってないので」
「いつか会えたらいいわね。勿論、アヤさんが望まないのであれば、それでもいい」
アヤが家族との暮らしで生きづらかったことは、もう知っている。しかし、いつか、何かのきっかけで人というのは変わってしまうと思う。ルリもそうだったから。確かに理想論ではある、会えないだろうとも思っている。しかし、そういう時が来たら、笑って会おうと思った。
「じゃあ、また今度」
そう言ってアヤと別れた。それは達夫たちが来る十日前のことだった。
そしてその約束の日。ルリの家でアヤとエマ、達夫、茉莉が揃うことになった。前日、アヤもルリもよく眠れなかった。時間より先にアヤが家に来たので、ルリと二人でそれを笑いあった。夏の始まりで、開け放した窓からは陽射しが燦燦と注いでいる。
車の音がし、達夫がやってきた。どきどきしてドアを開けると、やはり緊張した顔の達夫が立っている。向こうではいつも通りのエマと茉莉がいる。エマはアヤを見かけると、ああ、と手を叩いた。アヤもエマに頭を下げる。全員が家に入りリビングに集合すると、アヤは三人の前にアヤを紹介した。
「こちら、牧原アヤさん」
「お久しぶりです」
「エマさんとは入院した時に会ったことがあるわね」
「あの時はお気遣いありがとうございました」
「いえいえ」
エマとアヤがそれぞれ挨拶を交わしていると、茉莉が割って入ってくる。もう今か今かと待っていたのだろう。
「こんにちは」
「この子が孫の茉莉」
茉莉はアヤをじっと見つめる。アヤは茉莉の背丈に合わせて少しかがむと、笑って挨拶をした。
「どうもこんにちは」
「この人がおばあちゃんの彼女ってこと?」
「あはは、そうなります」
茉莉はふうん、と言うとアヤをよく観察しているようだ。茉莉にどう説明するか悩んでいたのだが、エマが予め説明していたらしい。
確かに、その方がいいと思う。アヤの存在を茉莉に隠すことは、茉莉にとって大きな裏切りになってしまうのではないかと思ったからだ。それは達夫への後悔でもある。しかし、その時と今では状況が違う。今は、自然体で茉莉たちにアヤを紹介することができる。
後ろから達夫が緊張した顔のまま声をかける。
「どうも」
「あ、初めまして。牧原アヤです」
「ああ、どうもご丁寧に……会田達夫です」
そう言って何故か達夫は名刺を出したので、アヤも鞄から名刺を取り出す。エマが呆れたように笑った。
「どうしてここで名刺交換するかなあ」
「あはは……」
そうこうして、テーブルに揃った。もともと四人掛けの小さなテーブルに詰めて座り、コーヒーを出したところで達夫が切り出した。
「あの……最初に僕の考えを言いたいんだけど」
「うん」
達夫はしばらくして、皆の顔を見ながらこう話し始める。
「僕もエマと知り合って、自分たち夫婦が特別だとずっと思ってたんだけど、実際そこまで他の夫婦と変わらないと思うんだ。なんかよくわからん偏見に晒されて、苛立つこともあったし……普通なのにって思うこともあった。多分さ、それと同じで、母さんとアヤさんも、たぶんそんなに特別に見なくていいと思ってて……ただ、僕は母さんと父さんのことを知っているから、母さんがずっと、嘘をついていたんじゃないかって思ってて」
「うん」
「それで、なんか……それが寂しかったんだと思う。でも、今はそうじゃないと思うよ」
「……そう、寂しかったのね」
「あのね、ママ」
エマが、頷きながら達夫に続いて話した。彼女もまた、日本では外国人というマイノリティだ。達夫と結婚してもそれは変わらない。エマは、しかしそれに笑顔で立ち向かうことで切り開いてきた。そして達夫と結婚したのは、そんな彼女を心から尊敬してくれたからだと言う。
そんな達夫にルリとアヤの話を打ち明けられ、エマはこう言ったのだと言う。
「ママはママの選んだ人と幸せになればそれでいいんじゃない……って言ったの」
「今は僕もそう思う。今まで通りの僕たちの普通に、アヤさんを足してもそんなに変わらないと思っていて……説明が難しいし、普通ってなんだよって話だけれど……とにかく、母さんも僕も親子だけど、それぞれが自分で決めて生きることの障害になるのは違うと思った」
茉莉は砂糖と牛乳の入ったコーヒーを少しずつ飲みながら、アヤをじっと見ている。
「看護師さん、大変?」
茉莉は突然アヤにそう訊ねる。大人たちが目を丸くしていると、茉莉はエマのバッグからタブレット端末を出して、画面をアヤに見せる。ルリものぞき込むと、それはいわゆる電子書籍だった。子ども用に編集されたもので、『医師になる方法』と書かれている。
「茉莉、将来お医者さんになりたいんだけど、病院って大変?」
「病院にもよりますけど……例えばうちなんかだと、医者と看護師他のスタッフ……例えば介護さんとか、リハビリさんとか栄養士さんとか、いろんな人がいるんだけど、全員で患者さんの情報をやり取りしないといけなくて、それがちょっと大変」
「そうか……お医者さんって、女の人どれくらいいるの?」
「最近は増えて来たけど……まだ看護師の方が多いかな、うちの病院は男の人の看護師って三人しかいないんだ」
アヤと茉莉はそう言って病院の話や、看護師から見た医師の話をしている。ルリはエマにこう訊ねた。
「茉莉ちゃん、お医者さんになりたいって、初めて知ったわ」
「最近ね、総合内科医が主役のドラマがあって、それでなりたいって言い始めたの。最近塾通いも始めて」
そのドラマはルリも見ているものだった。そうか、こんな風に何かになりたいと言うきっかけができることもあるのだ。女性内科医が様々な難しい診断を迫られるシーンが面白い。アヤは勤務スケジュールの都合でドラマはあまり見られないのだが、存在は知っていたらしく、頷きながらこう言った。
「もちろんドラマと現実は違いますけど、茉莉ちゃんみたいな明るくて挨拶ができる人がお医者さんになってくれると、看護師は仕事がしやすくていいです」
「それって、挨拶しないお医者さんもいるってこと?」
「……まあ、全員が全員、そうではないけどね……あはは」
茉莉とアヤがソファに移り病院や看護師の話をしている中、達夫がルリに向かってこう言った。
「この前は……ごめん。本当に、何も知らないで決めつけて、なんだか言った直後から自分の中でも『違うな』って思っていたんだけど……実はさ、あのあと仕事先の友人とちょっと会ったんだよ。それで、いろんな家族の話をしたり、実際会いに行ったりして……それで出た答えが、さっきのなんだ」
「私も……ごめんね。エマさんのことは本意じゃないの。一緒にいた時間がもちろん達夫の方が多いから、その分私も罪悪感があったの。でもね……あなたがその友達と会ったように、私も会ったのよ。初恋だった人に」
「え?」
「なんだかね、会って話したら……今好きなのはアヤさんで、あの人じゃないってわかった。もちろん、家族としてお父さんも大切。でも、だからと言ってもう隠したりはしたくない。あなたにも、エマさんにも、茉莉ちゃんにもね」
そうか、と達夫は頷く。きっと思うところはそれぞれあるはずだ。しかし彼はこう言った。その目には優しさが含まれていた。いつも通り、普段の達夫だ。彼は優しい。思えば和孝も、口には出さないがこういう目をよくする人だった。
「いつか、その人に僕も会いたい。母さんが好きになる人に興味がある」
「私も、あなたのそのお友達に会いたいな、いつか会わせてね」
「ママ!アヤちゃんとLINE交換していい?」
「ああ、じゃあ、グループLINEに入ってもらおうか」
「そうね」
アヤは笑って立ち上がる。緊張が抜けたのか、達夫の提案にほっとした顔をした。アヤは家族の話をあまりしない。これから聞くこともあまりないだろうが、彼女の中で、新たな家族としてエマや達夫、茉莉が加わるのであればそれは嬉しい。
「いや、いいんでしょうか……なんだかトントン拍子で……緊張してたから余計びっくりしちゃった。あ、LINEこれです」
「うん、だって家族だもの、私もアヤちゃんって呼んでいい?エマって呼んでいいから」
「そう……そうだね。いきなり呼び捨てはちょっとあれだから、エマさんで。あと達夫さん、よろしく」
「じゃあ僕はアヤさんって呼ぶよ」
茉莉はその後、アヤと個別でLINEを交換したらしい。嬉しそうな茉莉に、達夫も安堵の表情を見せる。
「実はさ、茉莉にどう説明するかとか、茉莉がどう思うか悩んだんだ……でもエマの言う通り、会わせて正解だった」
「でしょ?子どもだって、ひとりの人間なんだから」
達夫がコーヒーを淹れる。当たり前にキッチンに立つ彼の後ろ姿を見て、ルリはエマと達夫の関係性を羨ましく思うと同時に、自分とアヤもきっと大丈夫だと思った。
「じゃあ、今日は家族が増えたってことで、何か美味しいものでも食べに行こう!」
エマの提案にそれぞれが笑顔で、その日の夕食をどこで過ごすかを調べ始めた。
これはルリに家族が増えた最初の日に至るまでの話で、この日からが新たなスタートとなる。新たな日々を祝福するように、日の長くなった空は美しい夕焼けに染まっていた。