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出立の日
会田ルリのそれまでとこれから

並木満

3

ルリは心臓をばくばくさせながらアヤの隣を歩いていた。

ショッピングモールを抜け、アーケード通りの小さな商店街を端から端まで歩いた。途中で夕方5時を告げるチャイムが鳴った。初めて会った日も、そういえば鳴っていた。しかしその時は、まだ子供だった頃の達夫が帰ってくるのが遅くてやきもきしたあのチャイムの音だとルリは思い出していた。そして同じチャイムのはずなのに、何故か聞こえ方が違う気がする。もしかしたら、達夫にはこう聞こえていたのかもしれないなと何となく思った。

途中の路地でアヤは曲がった。何も言わなかったし、何も言えなかった。どこに連れていかれるのだろう。それすらわからない。

路地を歩いてすぐのところに、コンクリート打ちっぱなしの建物があった。ああ、近所なのに知らない建物があるものだなあとぼんやり思っていると、アヤはそこで止まり、建物の半地下にルリを促した。

「え、あの、アヤさん……ここは?」

「……入ってください、別に悪いことはしないから」

半地下の向こうには明らかにスナックだとか、バーの類の店が入っている。ルリの六〇余年の人生でこういう場所に入ったことはなかった。

ドアには簡素にOPENと書かれた札が下がっており、横には「鈴ノ音」と店名が記してあった。恐る恐るドアを開けると、チリンと小気味のいい音がする。店内はカウンター席が7つだけの小さなものだったが、初めての光景にルリは状況を理解するのにも時間がかかった。

カウンターの中にはアヤと同年代くらいの女性がそんなルリを怪訝そうに見ていたが、後ろにいるアヤの姿に表情を明るくさせる。

「おかえりなさい」

「……ルリさん、こっちの席にどうぞ。何か飲みます?」

「あ……ええと、そうね……」

奥の席に通される。洒落た椅子に腰かけると、アヤはルリに小さなメニュー表を見せた。

こういう場ではお酒を飲まなければならないだろう。ルリの数少ない知識がそう言っている。いや、正直酒どころではなく、知りたいことだらけなのだが、ルリの中では既に思考の優先順位がごちゃごちゃになっていた。

……カウンターの天井にはきれいなグラスが行儀よく吊るされている、奥にはボトルがこれまた整然と並んでいた。

だがルリはここ数年酒といえば毎晩の薬酒くらいで、最後にちゃんと飲んだのは和孝の法事の時以来だ。

そもそも和孝が家で酒を飲む習慣がなかったこともあって、ルリは酒の前に圧倒的に情報弱者というやつだ。最近ネットで知った言葉で果たして使い方が合っているかは知らないが、料理酒ならばわかる程度のものだから、弱者と言って差し支えはないであろう。

「あら、無理してお酒を飲まなくていいのよ、ノンアルコールのカクテルもあるし、お茶もあるわ」

硬直したルリを見て、カウンターの中で女性が優しくそう言う。黒髪の艶やかで、化粧もしっかりとした綺麗な女性だ。そう言われるとなんだか安心していいのか、余計に気を使うべきなのかわからないが……そう言ってくれるなら甘んじよう。

「あ、あの、じゃあ……ウーロン茶を……」

「はぁい、私の名前は鈴子よ、よろしくね」

「私は……会田ルリです、よろしくお願いします」

名前を言うことをなんとなくためらったが、アヤの手前もう引き返せない。何が始まるのかわからないが、少なくとも敵意はないようだし……大体アヤがそんなことをしてくるはずがない。そう言い聞かせて頭を下げた。鈴子はにこりとルリに微笑み、その笑顔をアヤにも向けた。

「……で、アヤちゃんは何を飲むの?」

「スレッジハンマー」

「まあ止めないけれど……」

随分と物騒な名前の酒があるのだなあと思ってアヤを見ると、彼女はバツが悪そうに髪をかき上げた。普段は後ろで結っている髪の毛は今日はその戒めなく揺れている。それはそれでどきどきする。

「ええと、ルリさん……本題なんですけど、ああ言うサイトってずっと使ってました……?」

「初めてです……」

「ですよねえ……よかった……」

それからアヤはルリに、あのサイトは緩やかに友人を募るものではあるものの、ユーザーによってはその日限りの相手を探している場合があることや、メッセージだけで気軽に会うことはあまり良いことではないことなどを話した。実際アヤも昔別のサイトで女性と会ったことがあるそうだが、その時のトラブルの話もされた。アヤは普段あのサイトでは趣味の旅行の話をネット上でするだけにしているという。

ルリは自分がしでかしたことの重大さがいよいよその手を伸ばして自らに迫っていたことを実感した。アヤだったからよかったようなものの、もしも悪意のある人であったら?きっとルリ一人ではどうにもできなかっただろう。

しかし一方で、こうしてアヤに会えた事実は変わらない。ルリは彼女をじっと見ていた。

「どうして出会い系サイトに登録したんですか?」

アヤの質問は当然のことだ。いつまでも黙ってはいられなかった。ルリは少しずつ言葉を織る。

「説明が難しいのだけど、最初は確かに好奇心だったの……ドラマのことで話せる友達が欲しかったのも本当。でも、登録して、いろんな女の人を見ているうちに、なんだか自分が自分じゃないような気がしてきて……怖くなって、本当はもうやめようかなと思ったんだけど」

「……」

アヤはルリの言葉を遮ることなく、黙って聞いていた。少し難しそうな顔をしている。幻滅しただろう、心配もしただろう。だから、ここで誤魔化してはいけないと思った。それには多大な勇気が要るけれども。

「アヤさんの写真を見て、アヤさんに……似ているなって……」

「え?」

「……その……私、アヤさんのことが……す、好きみたいで……」

言ってしまった。こんなことを言うこともなく人生を終わるとばかり思っていたから、ずっと押し留めていたその言葉はもっと大きくて強いものだと思っていたのだけれど、実際に転がり出たそれは笑ってしまうほど小さくてか弱かった。

「ルリさん、もしかしてずっと……私のこと、好きでいてくれたんですか」

アヤの方を見る。彼女の顔にいつもの明るい表情はなかったが、けしてルリを蔑んでいるわけではなかった。

「ええ……その、アヤさんが……私の初恋の人に似てて……」

「初恋の人?」

それは長年積み重ねてしまった、いっそ暗いといってもいい感情でもあった。アヤも万里子も別人だと頭ではわかっているし、別にこの二人に惹かれていることをマイナスに思っているわけではない。しかし自らの幼い初恋を、目の前にいる彼女にぶつけてしまっている申し訳なさがどうしてもチラつく。アヤと話しているその瞬間瞬間に、それらはルリとじっと目が合うのだ。

「うん、変でしょう?もう何十年も前の話だし……アヤさんにね、少し似てるの」

そう言って力なく笑うことだけができたことだった。アヤはしばらく黙っていた。そして、少し照れるような……それを隠すような顔をして、こんなことを言い始める。

「私は……どんなに頑張ってもその人にはなれないですけど、牧原アヤとしてルリさんと……幸せになれたら嬉しいです」

「……え?」

驚いて思わず何度も言葉を反芻する。どうして、というよりもまず、彼女がなんて言っているかを理解するのに時間がかかった。ルリの反応を見て、アヤは顔をやや俯かせて、しかししっかりした声でこう言った。

「私はルリさんが好きです、だからここに連れて来たし、サイトに登録したのにちょっと怒っちゃったりしたんです」

そういってアヤは頭を掻く。少し乱れた髪の毛が、アヤのそれまでの人生のすべてのようだった。彼女の言っていることはルリにとってあまりにも都合が良すぎて、こんなことがあるのかと思わず疑ってしまうようなことばかりだった。

「アヤさん、でも私……ううん、待ってね……」

「その、すぐに答えを出す必要はないと思います……なんか、私の方から変なこと言っちゃいましたけど」

「違うの、すごくうれしくて……それなのにすぐにそれを言葉にできなくて……」

そう言っている間に、ルリは自分が涙ぐんでいることに気が付いた。それまでの過去を否定するつもりはない。家族がいたことを嘘にするつもりもない。しかし、それよりも前のルリの本当の気持ちが、いままさに土から這い出てきて初めて太陽の光を浴びている。

その後、アヤの生い立ちを聞くこともできた。幼児期から既に女性にしか興味がなかった彼女を、最初は微笑ましく見ていた親も次第に心配になったのだろうと言う話。中学生の頃、弁護士を志したアヤはどうしても県内上位の学校に行きたかったが、女子高だからと却下された話。仕方なく共学の別の高校に行った話。

親との関係は、それから少しずつ変容したと言う。ルリはその話を何故か親目線ではなく娘だった頃の自分と当てはめて聞いていた。年齢や立場を考えれば親としてアヤの親に何か思うところがあってもいい筈だったが、ルリの脳裏には短大にしか行けなかった娘の頃の自分の影がちらつく。別に四年制大学に行くことを強く望んではいなかったが、女子だからと短大を勧められたのは今も腑に落ちない。

アヤは鈴子にスクリュードライバーを頼むと話をつづけた。高校卒業後、大学進学のために上京したアヤは法科大学院まで進んだが、司法試験に落ち、パラリーガルとして弁護士事務所を転々としていたという。だがとある事務所でレズビアンであることをアヤの意図しないところで暴露され、退職を余儀なくされたのだという。

「そんなことが……」

人の口に戸は立てられないとは言うが、ルリは愕然とする一方で、やはりと言う気持ちにもなった。自分が隠してきた理由がそこにあったからだ。

「そういうのをアウティングっていうのよ。ちょっと前にある大学で似たようなことがあって、自分がゲイであることを予期せず広められたされた学生さんが自殺する事件もあってね……」

鈴子がウーロン茶のおかわりを出しながらルリにそう言う。そう言えばそんなニュースを見た気がする。

「まあ、私も迂闊だったんですけれどね……本当なら法曹を目指す身として戦わなくちゃいけなかった。けれど、もう自分のために戦えないってそう思っちゃって」

「あの時のアヤちゃんは荒れてたわねえ……ああ、そのころ私、アヤちゃんと出会ったのよ」

「そうだったっけ……」

「アヤさんはそのあとに看護学校に……?」

ルリの問いにアヤは目線を一度天井にやると、ルリの方を見た。少し寂しそうな顔だった。

「変えたかったんですよね、何もかも。看護師が大変な仕事だっていうことはもちろん理解してましたし、憧れだった法曹の道を断つことに無念さがないわけではないです……でも、自分だからこそ救える何かがあればいいと思って、気が付いたら看護学校に入ってました……なんか、こう言っちゃうとかっこよく聞こえるんですけど……実際は全然」

「か、格好いいです」

「え?」

ルリは、アヤと初めて出会った日のことを思い出していた。彼女のあの姿が、真っ暗なところで悲しむことすらできなかったルリに光を当てたのだ。彼女からしたら何事もないことでも、それがどれだけルリにとってありがたかったか知れない。

「アヤさんは、本当に格好良くて、素敵で……あのとき……主人が亡くなる前にバス停で話したことで、人に生かされることってあるんだなって思ったんです。それに、ナースステーションの時も」

「あのとき……」

アヤはそう言ってふっと笑うと、ああ、と顔を手で押さえた。

「あのとき、私仕事辞めようかなって思ってたんですよ。心折れてて……もっと言うと、もう自分には何も守れないんじゃないかって。でも、ルリさんと話してて思ったんです。まだやりたいことがあるって、まだ、看護師としてなにもしてないって……本当は、あんなふうに『絶対治る』なんて看護師は言っちゃいけないですし、ナースステーションに入れたのも本当はダメです。でも、あれは自分が人間としてやりたかったことだな、そういうことを無視しちゃだめだなって気が付けたんですよ。だからルリさんは恩人です」

「そう……そうだったの、でも、私は本当にアヤさんにあのとき声をかけてもらえて嬉しかったの、本当はあの場から逃げ出したいってずっと思ってて、でもそれでも……何も解決しないことはわかってたんです。だから、あの時、アヤさんが引き止めてくれたようなものなんです」

アヤは口元を手で押さえ、その言葉を聞いていた。何度も、何度も手繰るように反芻しているようだった。

「よかったんだ……あのとき、声かけて……」

何度も頷き、アヤの肩に触れた。震える肩は初めて会った頃より華奢に思えた。

それまで黙って二人の様子を見ていた鈴子が、そっと冷蔵庫から二つ何かを取り出すと、それを二人の前に出した。それは手作りと思われるプリンだった。

「いいもの見ちゃったから、サービスにプリンどうぞ」

「ありがとう……てか、プリンなんて作ってるんだ」

「お客さんには出さないの、自分のためのやつ。だけど今日は特別に食べさせたげる。美味しいから覚悟して」

店を閉めた後に一人で食べるのが日課なのだそうだ。白い容器に入っただけのプリンは綺麗に化粧をして髪を整えている鈴子に対してあまりにも素朴だが、案外そんなものなのかもしれない。

「鈴子さん、ありがとうございます」

「ルリさん。この子、ちょっと頑張りすぎるとこもあるし、意外と不器用な子だけど……本当にいい子だから、よろしくね」

鈴子はそう言ってルリに頭を下げた。母親じゃないんだからとアヤは笑う。ルリもつられて笑いながらプリンを口にした。少し固めのプリンはほろ苦いカラメルと相まって舌を喜ばせる。

「美味しい」

「本当だ。なんだろう、最近固いプリン流行ってるけどそれともまた違う……美味しい」

「でしょ?」

鈴子は得意気に笑う。スモーキーなピンク色の唇が無邪気にプリンのこだわりポイントを挙げてゆく。笑いあい、何気なくアヤとルリは視線を交わす。まるでずっとそういう親しげな関係であったように。

こうしてアヤとルリは、ゆるやかで暖かな交際を始めた。


 

アヤの職場は、五年前に待遇改善が行われだいぶ休みがとりやすくなったのだという。昔は残業もざらにあったが、今はほとんど定時で帰れているそうだ。通常の日勤に加え、早番と遅番、夜勤が交代であるという。

「遅番が一番嫌なんですよね。帰りが遅くなるからちゃんとご飯用意できないし……」

何気なくアヤがそんなことを言う。ルリは少しだけ考えて、思い切ってこう切り出した。

「遅番って何時に終わるの?」

「大体夜八時くらいですね」

「……もしよかったら、うちでご飯食べにこない?」

「いいんですか?」

「誰かに食べてもらえると思えば……その、料理のし甲斐もあるし」

ルリの提案にアヤは嬉しそうに頷いたが、その直後に少し表情を固くした。

「その……ルリさんの家に、私が行っていいんでしょうか……なんだか急に緊張してきました」

そういえばアヤが家に来たことは当然ない。パジャマ姿を見られているがそれは入院中のことで、なんとなくそれで生活をすべて晒していた気もしたのだが、よく考えたらそんなこともなかった。

かたちだけ見れば、ふたりは交際しているはずなのだから家に行くことなど造作もないだろう。しかしまだその状態に二人とも慣れていない。

「いいのよ」

そうは言ったが、ルリだって内心どきどきしていた。まるで自分が悪いことをしているような気がする。和孝はもちろんのこと、達夫たちに打ち明けていないことはこの頃から既にルリの心に少しだけ曇らせていた。

「お邪魔します」

初めてアヤが家に来たのは、それから数日たってからだった。手洗い場からリビングに案内すると、アヤはふとひっそり佇む仏壇に目を遣る。悩んだ結果、最低限の位牌と写真だけの簡素な仏壇は、ルリにとっては最早生活の一部ではあったがアヤにとってはそうではない。

アヤは仏壇に手を合わせる。

「和孝さん……あの時はすみませんでした」

「アヤさん、いいのよ」

「いえ、これは私のけじめです。正直言って、和孝さんのことがなかったらむしろ私、看護師を辞めてたかもしれないので……だから、言い方は変かもしれませんけど、勉強になりました。ありがとうございます。お陰でルリさんにこうして再会できました」

深々と礼をするアヤの横顔を、ルリはただ黙って見つめていた。和孝の存在をルリの人生から消すことはできない。彼との結婚生活は、ルリの人生を語るうえで無視することはできない。それは同時に、ルリが言い出せなかった言葉の存在も肯定する。

しかしアヤは、そのおかげで出会えたとこうして感謝しているのだ。和孝にも、彼と共にいたルリにも。

胸に落ちるじんわりとした気持ちにまだ名前は付けられない。決めあぐねている間に、アヤはキッチンの方に向き直っていた。

「わあ、すごくいい匂い……安心する。家に人がいるって、いいなあ」

そう言ってルリに顔を向けた。アヤの実家の話はまだ断片的にしか知らない。それも乗り越えなければならない壁の一つでもあるが、それでも今は、ふたりでテーブルに向き合い食事をすることが幸せであった。

ルリは特に料理が得意というわけではない。毎日やっているから否応にも身に付いたところはある。それだって和孝と結婚していた経験がなければ、身につかなかったのではないかと思う。

「美味しい」

アヤが嬉しそうにルリが作ったハンバーグを食べる。達夫が好きなメニューだったから、何かあるとすぐ作った。達夫の話をしようか迷っていると、アヤは目を細めてこう言った。

「子どものころ、ハンバーグを作ってもらったとき……私だけハンバーグが小さくて、弟が大きかったことがあったんです。今思えばほとんど同じ大きさだったんですけれど、それで喧嘩になっちゃって。怒られたなあ……」

ハンバーグを見つめるアヤの寂しげな眼差しには、それだけではないであろう家族との蟠りが沈んでいる。ルリに全てはわからない、今何を言えばいいのかも、どういう表情をすればよいのかも。しかしこれだけはわかる。目の前で、話を聞くことが一番大事なのだということを。

「アヤさんだけのハンバーグ、作ってあげなきゃ」

ふと漏れた言葉はアヤに向けて言った言葉ではない。自分に向けたものだ。しかしアヤはその言葉に、何度も頷いてこう言った。

「私、どこにいても、絶対ルリさんのところに帰ってきます」

「……待ってるわね」

アヤが帰った後、ルリはソファに座ってスマートフォンを眺めていた。台所の片づけは二人でやった。なんだか不思議な気持ちだ。何年も心に引っ掛かっていて、それでいてもう縁は結ばれないだろうと思っていたアヤが今日家に来たのだ。

アヤは駅に着くと、すぐにルリにLINEでお礼を送信してきた。可愛らしいスタンプが躍る。最近覚えたのでよくはわからないが、時間をかけてゆっくりと返信した。内容は大したことではなかったが、なんだかんだ返すのに二〇分もかかってしまった。

『また、いつでも来てください』

アヤはすぐに返事を寄こした。通知音がスマートフォンとルリの心を揺らす。便利だが、便利すぎて距離がわからなくなりそうだ。

『じゃあ、金曜日にまた伺ってもいいですか』

『もちろん、待ってます』

こんなに簡単に約束ができるのだ。昔ならば、電話をしなければとかいろいろと考えることが多すぎて結局長続きしなかっただろう約束なのに。金曜日、カレンダーを眺める。素直に待ち遠しかった。

次に来た時、アヤはシフト表をコピーして持ってきた。それでいくつか話し合って、会える日を共有した。また、鈴の音にもお礼のために顔を出した。鈴子が実は中華料理、それも町中華と呼ばれるような庶民的な中華料理屋の餃子が好きと聞いて餃子を包んで持っていき、鈴の音で焼いて食べた。カウンターの奥には三口のコンロがあったので、その三つが全部フライパンで埋まった。ホットプレートが欲しいとか、たこ焼きも作れるものがいいなどいろいろと話した。

アヤの仕事の話もこの頃になるとよく聞くようになった。看護師には守秘義務があるので詳細な話ではないが、様々な理由で入院する患者や家族の話をうっすらと聞いた。現代の医療現場の問題など、ルリが知らなかったような話も出た。ルリはアヤと会うと、何かあったら末内科に行こうと強く思うようになった。検査入院の結果はなんともなかったが、元気な人でも突然この世を去ることは和孝の件でわかってはいたし、アヤの話を聞くにつれどんどん他人事ではなくなっていった。なんだか世界が少し広がって、怖いとか、よくわからないことが少しだが消えた気がする。

また、最初はルリもうっかり忘れていたし、アヤも気を遣っていたのだが、よく考えたらアヤはとても酒を好む人間だったので、ルリの家でも少し晩酌をするようになった。それまで毎日、ふとしたきっかけで思い出していた万里子の笑顔はこの短期間であっという間にアヤで塗りつぶされた。しかしその下にはまだ瑞々しく青春の匂いもある。今は遠いその過去も、少しずつ受け入れられるようになったから、こうして笑えているのかもしれない。




 

会田ルリは、達夫にとって静かな母だった。今もそうだと思っていたはずだった。

子どものころはそれなりに怒られることもあったはずだが、記憶に残っているだけでは、母が怒っているところをあまり見たことがない。哀しそうな顔をすることはよくあったから、それを見て自然と反省することが達夫にとって当然だった。

エマとの出会いはインターネットがきっかけだ。彼女は母とはまったく違うタイプの女性だと思った。無論、彼女のほかにも以前には交際していた女性はいた。しかし、気が付くと何故か関係が薄まり、空中分解することが多かった。そのたびに何が原因なのか反省したが、答えはエマに出会うまでわからなかった。彼女は自分の気持ちを率直に達夫に言うことができる人間だった。それは、達夫にとってけしていいことばかりではなかったし、ルリのような静かな女性とばかり付き合っていた達夫には、うるさく思うことだってあった。

しかしエマは、ただ正しいことを正しいままに伝えるだけの人間ではなかった。達夫に今何が問題なのかを伝える技術にかけてエマは天才だった。それを聞いていると段々何が問題なのかがわかってきて、自然と達夫も自分の気持ちを素直にエマに言えるようになった。その姿勢をエマは褒めるが、むしろ達夫こそよくエマを褒めるようになった。エマの言葉をもっと理解したくなってオランダ語も少し勉強したし、自らの考えや目にしたものについて言葉を尽くすことの努力を惜しまないようになった。目に見えて変わったわけではないが、そういう意識下の考え方はがらりと変わったといっていい。

一番変わったのは環境だろうか。達夫の説明で仕事のチームの空気が良い意味で緊張感を持つようになったし、同時に和やかにもなった。自分がわかっていることをそのままにするわけでもなく、共有して確認することを大切にした結果、議論は以前より活発になった。ひと仕事が終わった後、次のチームに入った時はリーダーを任された。何もかもうまくいっていた。エマには感謝しかない、だからなんの躊躇いもなくプロポーズした。それが当然とは思わなかったし、むしろ特別だとすら思っていた。国際結婚なんて自分がするわけないと以前なら言えただろうし、珍しくないと言うのは今の時点ではまだ正確ではないと思たから。

達夫は、むしろ好奇心深く物事を多角的に見ている方だと自負していた。書籍編集の仕事は、そういう人間でないと務まらない。だから読書量や人と会う機会だって多い筈だった。

それらの自信を根底から崩すのが、まさか母のこんな一言だとは思わなかった。

「好きな人がいるの」

母は静かな人だから、父が亡くなっても自らの生活を粛々と進めているあまり面白くない人だと思っていた。エマとの結婚を歓迎したのも、特に何も考えていないのだろうと勝手に決めつけていた。未亡人の彼女を労ることはあったが、よく考えたら達夫はルリの人生を真正面から受け止めたことがあっただろうか。彼女はそれから、少しずつ今交際している女性の話をし始めた。達夫はそれを大人しく聞いていたわけではないのだが、驚きのあまり何も言えずただ黙っていただけにすぎない。折しも梅雨の終わりごろ、しとしとと降りしきる雨の中、老いた母に大切な話があると呼び出された達夫は、彼女からの言葉を抱えきれずにいた。

「その人が……その、看護師さん?」

達夫は記憶から色々と引っ張り出していた。正直アヤの名前すら覚えていなかったし、顔もおぼろげだ。そんな彼女が母の特別な人だなんて、達夫は一切知らなかった。ルリが申し訳なさそうに表情を歪ませる。どうしていいかわからない。何が正解なのかも、何が達夫の考えなのかもわからなかった。それから話し始めたルリの初恋の話は、やはり達夫の根底をぐらつかせるに足りる事実だった。

「どうして何も言わなかったの?」

別に母を責めるつもりはなかった……と思う。しかし、ルリが話し始めたことは、達夫のそれまでの過去にひびが入るような事実だった。ずっと母は、中学生のころの初恋の女性の姿を目の端にとらえていたのだ。自分と家族がいる状態で本当のことを言っていなかったし、達夫が存在する以上、達夫もルリが異性愛者だと疑わなかった。今まで向けてきたあの優しいルリの表情は、嘘だったということか。無意識で頭を横に振る。別に母を責めたくない。しかし、知りたいことが多すぎて何から聞けばいいかわからない。出口がまるで見えないし、出たところでそこが達夫の望むところなのかもわからない。

「ごめんなさい……」

ルリは俯き、謝るばかりだ。そうじゃない。謝ってほしいわけではないと思う。むしろ何かこちらがとんでもなく悪いことをしているのではないかと思った。

「そ、そうじゃなくて……母さん、その……何か、間違いなんじゃない?そんなこと、だって……」

エマが傍にいるべきだったと思った。何故かはわからないが、いつも達夫を導いたのはエマだったから。しかし今は今で、試練なのかもしれない。エマが今ここにはいないが、別に今までエマやルリだけに育てられたわけでもない。

「間違いじゃ、ないの」

何か上手くいかない。こんなはずではなかったという言葉ががんがんと頭の中で響く。例えばこれが、母のただの初恋の話で終わるのであれば、まだ少し疑うだけで……いや、それが楽だとは思わないが……しかしルリは今、アヤと交際をしている事実がある。その二つの事実にまるで網をかけて揺らしているようだ。達夫の人生がルリの人生から簡単に振り落とされてしまいそうだ。それが怖いと素直に思った。

「……ごめん、なんて言っていいか、俺もわかんないんだけど……」

「何も言わなくていいの、ただ、知っておいてほしくて。だって……何も知らないのは、嫌でしょう?」

「それはそうだけど……俺、知らないことっていうか、わかんないことばかりで」

別に偏見があるとか、そういうわけではないと思っていたはずだった。仕事やネットで最近はLGBTについての記事を見ることだってある。むしろ達夫はそういう人に敬意を持っていたつもりでいた。しかしどうしたことか、一番身近な存在である母親からのカミングアウトに対して、達夫ができることなんて何もないと思った。

「と、とにかく、いったんこの話ここでやめよう。俺もちょっと色々、考える時間が欲しいって言うか……」

職業柄、先延ばしは良くないと思ったが、今はその方がいいと思った。今慌てて何らかの決断をするのは良くないことだと思ったからだ。自分の中で落としどころを探りたい気持ちもあった。

「うん……なんだか、ごめん」

「母さんが謝ることは何もないから、でもちょっとだけ時間が欲しいんだ。あと、この話……俺だけが抱えるのちょっと今はしんどいかもしれない。エマとか……相談していいかな?」

「勿論いいわ、エマさんにも話してほしいというか……その、今度エマさんもいるところで私も話したいとは思ってて、でも達夫には先に言っておきたかったの」

その言葉に、達夫はなぜかムッとしてしまった。それは息子としての面では必ずしもなかったと思う。

「……それって結局、まだエマを家族としてみなしてないってこと?それはエマが嫁だから?日本人じゃないから?」

「そう言うことじゃないわ、そういうことじゃなくて……お父さんのこと、知っているのはあなたくらいだから」

雨に濡れた夕暮れが何かを言いたげに迫ってくる。こんなに母のことをずっと考えていた日はないと思う。彼女はずっと隠していた。それに対してどうしていいかがわからない。というよりも、どういう感情を持ちたいかがわからない。達夫はまだルリに母として、茉莉の祖母としてやってほしいことがあるように思う。別にそれはアヤと交際していることとなんら関係はない筈だ。しかし整理が付かない。ずっと初恋の人間を忘れられず、それで今も今で交際している女性がいる。その事実が達夫の中で噛み合わない。

喧嘩別れのように言葉少なに家を出た。こんなことは初めての事だった。

車にキーを挿し入れると、オーディオから軽快な音楽が流れる。簡単なラブソングは、いつもならば耳馴染みがいい筈なのに今日に限ってノイズにしかならない。世に出回るラブソングが当たり前だなんて思ったことはないし、むしろ懐疑的ですらあったはずなのに、達夫よりもそのラブソングに傷つく人がいて、その通りに振舞うことを許されない人がいる。それが母だったのだ。オーディオをオフにすると、車内はエンジンの音だけが静かにやかましい。

ふと、過ぎってしまうのだ。これは別に真実ではないことくらいわかるのだが、しかしその妄想は達夫にこれが真実だと吹き込む。

達夫の存在により、ルリは和孝と別れられなかったのではないだろうか。和孝と一緒にいるルリは幸せではなかったのではないだろうか。本当はもっと自由に生きたかったはずなのではないか。ルリという女性の、その物静かな佇まいに達夫は息子として、家族として甘え続けていただけなのではないか。

溜息をつく。考えても何も始まらない。来週から新たな企画が立ち、一番気にかけている部下をプロジェクトのリーダーに据えようとしている。仕事は別に苦ではないが、何もしたくなかった。

帰宅後、迎えるエマと茉莉を見て、達夫は少し疲れたように笑うことしかできなかった。当たり前のように手に入れたわけではない家族も、ルリからしたら当たり前に手に入れた家族なのかもしれないと、少し猜疑心にすら駆られていた。

 

「どうしたんだ、浮かない顔してんな」

達夫の横で酒を飲む大柄の男は、取引先の社長である小平大だ。社長と言っても長い仲で、その歴史は大学時代まで遡る。平たく言うとゼミの同期だ。まあ、小平は長く浪人していたのでだいぶ年齢は上なのだが。小平は今、いくつかのECサイトを運営している。こちらから書籍の取り扱いを持ち掛けたのがきっかけでそこから取引先としての関係がスタートしたが、仕事外ではただの同期だ。懐かしさだけは未だに感じないが。

なじみの居酒屋で酒を傾け、達夫は少しずつ小平に現状を話し始めた。母親のこと、母親の恋人のこと、恋人とその周囲の人々のこと。それを受け入れられない自分がいること。一頻り話していて思ったのは、受け入れたくないわけではないと言うことだ。なんとなく実態がつかめないから、そこにある違和感に恐怖心を持つのだ。

小平はいつもならば達夫の言うことを茶化したり大声で笑ったりする、そういう騒がしい男なのだが、珍しく黙って話を聞いていた。今や肩身が狭くなった紙巻煙草に火をつけて、ふうと一息紫煙を吐き出すと、達夫にこう提案した。

「週末、俺の部下の家に行くか」

「……お前、俺の話聞いていたか?」

「聞いていたさ、お前さんの話を一番聞いてくれそうな人間だよ。ちょっと待ってろ、確認とるから」

そう言って小平はスマートフォンを胸ポケットから取り出す。身長も体重もある小平の大きな手が、慣れた手つきでそれを操作すると電話をかける。

「拝島か、ああ、俺だ。今ちょっといいか? いや、まあ、大した用事じゃなくて……週末どっちか空いてるか?ダチをお前と充さんに会わせたくなってな。ああ、詳しいことはまたあとで、ああ、そうしてくれ……」

小平はそうして拝島なる人と話している。口ぶりからしてよほど仲がいいのだろう。いくら親しい上司と部下の関係とはいえ、業務時間外に電話をかけるのはどうかと思ったが、私的な理由だからいいのだろうか。そういえば昔からこの男はそういうところがある。人の懐に入るのが上手いというか、適度に弱味を見せられるのだ。そういう彼の生きざまに達夫自身救われたこともある。

達夫はぬるくなったビールを喉に押し込みながら、母の横顔を思い出していた。なんの気はなしに見ていた横顔だった。

「……ああ、大丈夫? わかった、いい感じの酒でも持っていくさ。じゃあまた詳しくは明日」

そう言って小平は電話を切ると、こちらに視線を寄こして悪戯に笑った。とっくに不惑を過ぎているのに、本当に子どものような顔をする男だ。そういうところは信頼している。だが子どもというのは時に残酷な選択をするものだ。

「じゃあ達夫、土曜日な。昼頃……そうだな、12時に夕陽が丘駅で落ち合おう。北口だぞ」

「何が何だかわからないんだが、俺はその部下に会うんだな?」

「そうそう、まあそんな硬くなるなって」 

そしてその週の土曜日、達夫は隣町の夕陽が丘駅の北口に11時に到着した。これは悪癖なのだが、達夫は約束の時間を心配しすぎてとても早くに目的地に到着してしまうところがある。どこか落ち着ける場所でもありはしないかと探したが、夕陽が丘駅は洒落ているカフェが多く、つまり達夫が入るには聊か躊躇するような場所しか見当たらなかったので、駅前のベンチで人の波を見ていた。土曜日の駅前はカップルや女性同士、または家族連れで溢れている。今度茉莉とエマを連れてこようか……駅を出た横にある比較的新しめの案内板には駅前の喫茶店、ケーキ屋、雑貨店などの広告が躍る。やはり達夫よりも茉莉たちの方が喜びそうだなと思う一方で、そう思うのも実は押し付けなのかもしれないとか、とにかく少しの情報でも悩んでしまっていた。

「よう、待たせたか」

誰かがポンと達夫の肩をたたく。ハッとして顔を上げると小平は苦笑いをしていた。

「思ったより人混みがすごいだろ?」

「ああ、入れそうにもない店が多いな」

「アハハ、お前はそうだろうな。ああ、あのケーキ屋のモンブラン美味いぞ」

「お前、ケーキ屋に入るのか」

指さしたのは小さな店構えの……いかにも女性向けといったような淡い色の壁をしたケーキ屋だ。なんだか裏切られた気分になる。小平のような……恰幅が好くて、剃っていてもわかるくらい髭が濃くて、飾り気のない……世間一般で言うところの立派なおじさんが、あんなに洒落っ気のあるケーキ屋に出入しているのは、それだけで達夫を驚かせるものだった。

「入るも何も、俺は甘いものも辛いものもしょっぱいものも好きだからな。目的のためなら手段は選ばんよ。まあその結果この前体重が三桁を超えたが」

「節制してくれ」

「できる範囲で頑張る」

いつもの調子で小平と達夫はタクシーに乗り込んだ。狭い車内で小平といくつか昔の話をした。気が付けばタクシーは一軒の家の前で停まる。

その家は二階建ての可愛らしい家で、庭には花がいくつも植えられていた。母ルリも、そういえばいっとき庭にスミレなどを植えていた時期があった。子どもの頃のことだ。一度跳ねたボールを拾いに行くので踏み荒らしてしまったことがあったが、ルリは怒らなかった。その代わり、庭に花を植えたのはそれっきりになってしまっている。今思えば、申し訳ないことをしたと思う。達夫がそんなことを考えながら庭を見ていると、視界の隅で何かが動いた。

「ああ、おかえり」

そう言って二人を出迎えたのは、今の今まで庭で作業をしていたのだろう……ルリと同世代くらいの女性だった。彼女は白いタオルを頭に巻き、その上に麦わら帽子をかぶって、軍手を取りながらこちらに近づいてきた。土の匂いが瑞々しい。彼女は確かにおかえりと言った。もちろん達夫にも。なんだか不思議な気分だなと思ったが、小平もただいまと返すものだからどうすればいいか愈々わからなかった。何度か頭を下げる。小平はニコニコ笑ってこう続ける。

「元気でしたか。ああ、もう桔梗の季節なんですね」

「アハハ、元気元気、年取ってもいらんないよ。桔梗はねえやっと咲いたとこ」

「この人がこの前話してた会沢達夫さん。俺の友達」

小平がやっと切り出してくれたので、また頭を下げた。女性はあっはっはと快活に笑う。

「そんなん見りゃわかるよ。話聞いてたんだから。達夫さん、拝島茜と申します。よろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

「大ちゃんのお友達のくせに真面目じゃないの、大丈夫?」

「あ、アハハ……」

愛想笑いを浮かべても、どこかしっくりこない。咄嗟にこの女性を得意ではないタイプだと達夫は思った。しかし茜はそんな態度を意にも返さず、笑って二人を家に誘った。

家の中は雑然としていた。まるで子どものころの自分の部屋のようだと思った。雑誌の切り抜き、読みさしの新聞、年季の入った壁には絵や写真が飾られていた。山の写真が多かったが、もとよりインドア派の達夫にはどこの山かを判別することはできなかった。

ふと奥に目を遣ると、達夫よりも若い茶髪の男性が奥から出てきた。少しチャラついてる感じがして、やはり達夫の得意なタイプではないと思ったのだが、彼は満面の笑みでこちらに手を振り駆け寄る。

「あ、小平さん!遅かったじゃないですか」

「これでも急いだんだ、ほらよ、酒」

「わーい!あ、この人が話しに出てた友達の人ですか?」

「あ、どうも、会田達夫です」

「拝島礼です……なんて、堅苦しいのは似合わないから、礼でいいよ」

「あはは……」

また、愛想笑いだ。これはダメかもしれないとすら思うのだが、小平の手前それを顔に出すこともできない。後ろからは茜が洗った手をタオルで拭いてやってくる、クロスの敷かれたテーブルに促され、椅子に座った。六人掛けのテーブルは花が飾られている。湯呑とお菓子が並ぶそこに、二階から降りて来る足音が聞こえた。

「あ、どうも、小平さん」

「ああ、久しぶり。あれ、なんか雰囲気違うじゃん、髪切ったの」

「ええ、随分前に礼に刈られましたよ……あ、どうも、玉川充と申します」

深々と頭を下げる黒髪で身なりのきちんとした……言ってしまえば少し地味目の男性は、なんだかこの中で一番達夫と話が合いそうな雰囲気ではあった。充は戸棚から名刺ケースを取り出すと、一枚の名刺を差し出す。小平が運営する会社の法務部に所属していることがわかった。言われてみればそういう雰囲気でもあるかもしれない。いやこれも偏見というものなのか。

「あ、すみません……ちょっと今日は名刺を持ってきていなくて」

「いえいえ、何かの縁があるかもしれないので」

深々と礼をし返すと、後ろで礼と小平が何か話している。

「あれ、ユキちゃんはまだ帰ってないの」

「そろそろ帰ってくるよ、今どきの小学生は忙しいんだから」

なんだかんだと五人で席に着く。勧められた緑茶は色合い良く、いい香りがした。盆に敷かれた可愛らしいペーパーの上に盛られたお菓子たちは、普段会田家にあるものとそう変わりはなかった。互いに軽く自己紹介をすると、達夫は小平にせっつかれ本題を切り出す。

「実は母のことで、この……彼に相談したら今日お誘いいただいた感じなんですけど……」

そう言ってしばらく、達夫は母のことをどう説明したものか悩んだ。自分のことを産んではいる、父もきっとそれなりに好きだったのであろう。でも彼女はずっと隠していた。女性に惹かれる母の一面は、達夫にとってはもっと早く打ち明けてほしかった話でもあり、聞きたくない話でもあった。どちらだなんてわからない。口ごもりながら、なんとか言葉を捏ねくり回し、やっとすべて話したころには、少し涙が浮かぶほどであった。

黙ってそれを聞いていた小平らは、達夫にそれぞれお茶やお菓子を勧める。少しぬるくなったお茶は苦みが程よく美味しかった。それを見ていた礼が切り出す。

「なるほどね……まあ、俺たちの話をした方がいいかな」

それを見て充も頷く。それから話し始めた話は主に礼と充の関係についてで、二人はパートナーシップを結んでいるカップルだということだった。制度のことはネットニュースで見かけた程度で、詳しいことは知らなかったし、実際にそういうカップルを見るのも初めてだった。礼は人懐っこく笑う。

「俺も母ちゃんに自分のことを言えたのは結構後だったし、いつだっけ?大学中退したときだっけ?」 

「言ってきたのはアンタが鍵師の修行から逃げてここに戻ってきたとき。でも、なんとなくだけどそうなんじゃないかと思ったときはあるよ」

出てくる言葉がいちいち引っ掛かるのだが、とりあえず流しておく。礼は盆の上のクッキーを一枚手に取り齧ると、少し考えるように首をひねりこう言った。

「まあ、なんだろう、俺なんかは偶然充と出会えて、偶然こうして母ちゃんたちと暮らしていけてるけど……一口にゲイとかレズビアンとかいっても、いろんな人がいて当たり前だからなあ。異性と結婚して、それこそ子どもがいる人もいるし……」

充がちらりと礼を見て、そのあとに達夫に目線を遣る。

「そうですね、僕は自分がゲイだという理由で実の家族とは縁を切ってしまったのですが、それも仕方がないかなと思います。でも」

「でも?」

「できることなら、もっと僕の話を聞いてほしかったと思います。僕の両親は結局、礼に会うことすらしませんでしたから」

充は厳格な家庭で育ち、いわゆるお受験をして小学校から有名私立校に通っていたのだと言う。両親はただ、充に安定した人生を送ってほしいと願い、環境を整えるために勉強をさせたのだろうと充は言う。だが彼にはそれが苦しかったと話す。

達夫はルリや和孝を思い出していた。けして彼らは達夫の進路や環境に口を出すことはなかった。もちろん、大学進学の時は多少助言をもらった。和孝は通いやすい大学にした方がいいと言い、ルリは自分の好きな分野を扱う大学に行けばいいと言った。高校生のころの達夫は小説家になりたい夢があったから、必ずしも大学に通う必要を感じていなかったが、今思えばそれもお見通しだったのかもしれない。作家は早々に諦め今は出版の道に進んだが、大学の時に学ぶコツを理解していなかったらこの道で食べることもできなかったと思う。

一方充は大学受験を失敗したのだと言う。2年間浪人したが、その頃は大いに荒れていたそうだ。

「自分がゲイだと言うことはもうわかっていましたけど、親に言える状態じゃなかったです。ネットで何人かと知り合いましたけど……なんというか、価値観が合わなくて」

そしてやっと入れた大学で礼と出会ったという。礼は礼で高校生のころから遊んでいて、ゲイバーに潜り込んだり、一時は体を売ることもあったそうだ。礼の父……茜の夫は家族に暴力をふるう人で、礼が中学生のころに離婚したという。充との出会いはけしてドラマティックではなかったと言うが、彼と話していて礼は自分が変わったと断言した。

「それまで勝手に生きて来たけど、この人がいるからちゃんと戻ってこなきゃって思うようになった」

「礼は頭が良いのにそれを無駄遣いしているように見えて、だから手が離せなかったんですよね。心配だったし、それは都度伝えていました」

「母ちゃんの前で母ちゃんみてえなこと言うなよ、恥ずかしいな」

礼が唇を尖らせる。素直に振舞う彼は見た目だけなら奔放さを感じるし、その過去に特に驚きはなかったが、彼がしっかり受容されて暮らしていることの方が興味深かった。茜が湯呑を置いて笑う。

「実際母ちゃんみたいなもんでしょ。一番あんたが甘えたかった時期に私がちゃんと向き合えなかった自覚があるんだから。充さんがちゃんと礼の手を握ってくれたのは私としても有難いよ」

礼を見つめる茜の眼差しは優しい。なんだか最初に馬が合わなさそうと思った自分が少し恥ずかしい。人柄を一目で判断されることなど、達夫だっていやなことではないか。

「ただいま!」

そのとき、外から弾んだ声がしてバタンと勢いよく扉が開いた。目の前には赤いTシャツにGパン、茉莉と同い年くらいの少女が飛び込んでくる。二つに結んだ髪を揺らして、彼女は息を切らして入ってくる。茜はそれを見て笑いながら頷く。

「おかえり、手を洗っといで」

「お客さん来るっていうから走って帰ってきちゃった!こんにちは!」

「こ、こんにちは……」

礼が立ち上がって彼女を洗面所に促す。慣れた口調だ。

「わかったから手を洗いに行って」

「はあい」

少女は紫色のランドセルを大雑把に置くと洗面所に走っていく。全開で水道を使っているのだろう、ざばざばと水の流れる音もした。

礼は離れたところでその様子を注意深く聞いているようだった。

「あの……彼女は?」

達夫が目を丸くしていると、小平がそういえば言ってなかったなと椅子に凭れる。椅子が壊れそうなのでやめてほしいが、存外頑丈らしい。

「あの子はユキちゃん。礼の姪……だけど、いろいろあって茜さんの養子になって一緒に住んでる」

礼が洗面所を伺いながら何故か得意気に断言する。

「まあ、俺の妹だよ」

「礼ちゃん!タオルない!出して!」

洗面所からユキの大声が響く。相変わらず水の音がする。礼ははいはいと洗面所に向かう。

「タオル出してから手を洗えっての」

「だって水出しちゃってから気が付いたんだもん!」

礼とユキのやり取りを眺めていた。傍から見たらどのような家族なのかわからないだろう。それを知識としては持っていたはずだし、エマと結婚するにあたり、むしろ自分たちが好奇の目で見られることを意識していたはずだ。

しかし、話していて腑に落ちたことはあった。礼も、充も、茜も、ユキも……普通だ。なんの違和感もない。ただの家族であって、そこに個別の特別性はあるだろうが、大きなくくりで見ればなんの特別さもない。充が礼に声をかける。

「ユキちゃんのタオル、別に用意して掛けておこうか?」

「いや、でもタオルはその都度取り替えた方が衛生的じゃない?」

「ううん、どうしようか……あ、すみません、いつもこうで」

充が達夫に気が付いて笑う。どんなに記事を読んでも、本を読んでも、映像を見たところで、こういう日常を送る人々に流れる人々の自然さまではわからない。少しずつ同性愛者やセクシャルマイノリティをめぐる目線も制度も変わってきて、必ずしも良いことばかりではないが確かに前進はしているらしい。ユキはその間、小平の隣の椅子に座り、お茶を真似して飲み始めた。小平は独身で子どももいないが、ユキと楽しそうに学校の話をしている。

達夫は充たちに少し茉莉の話をした。聞けばユキは茉莉の一学年年下だそうだ。昔から実年齢より落ち着きがあり、大人びていた茉莉の話をしていると、途端に家族が恋しくなった。その中にはルリもいる。

「達夫さんって、結局どうしたいの?ちょっと失礼な言い方かもしれないすけど」

礼がそう言う。達夫はこの感情の変化をなんとか言葉にしようとした。

「僕は……今まで通り、母と妻と子との関係を続けたいですね。なんだか、それが相手の女性のせいで崩れちゃいそうで……怖かったんですけど、でも」

「うん」

「そこまで大きな変化って、ないのかなって……ううん、上手く言葉にできないんだけど」

物事に変化のないものというものはなくて、少しずつ変容するのであろう。年齢やさまざまな事情は避けられない。だが、それでもそれは日常に立ち返るものだと思う。

「あんまり関係ないことなんだけど、昔はゲイ同士のコミュニティって限られた場所でしかなかったけど、今はそうじゃなくて……だからそういう場所の文化って言うか……人が集まらなくてもよくなってきていて。もちろんそれでもコミュニティを守るために集まっている人だっているし、俺もそういうところにいたことがあるから、あっていいとは思うんだけど……なくなってもいい世の中になったほうが、なんだろう、安全が広い?っていうか……なんかごめん、俺の方がうまく言えないんだけど」

「わざわざゲイタウンにいなくても、安全が保障される社会であればその方がいいって礼は言っていると思うんだけど、違う?」

「……たぶんそれで合ってる、ありがと」

充の補足に礼が笑う。幸せそうだ。それは達夫がどう思っていようが事実として、彼らは彼らの力で生き抜いている。そう思うと、やはりルリと向き合わねばならない、そう思った。

それから拝島家で暫く話をして、夕方には四人に見送られて再び小平と共に駅に向かった。タクシーの中で、達夫は呟いた。

「いろいろな家族の形があったほうがいいとは思うんだけど、いざ自分がとなると躊躇しちゃうんだよな」

小平は笑う。狭い車は彼の動きとシンクロするように上下した。

「お前さん、人は善いけどちょっと慎重すぎるんだよな。まあ俺も決めつけや押しつけはしないつもりだが、もう一回、腹割って話してみたらどうだ?家族だから話さなくてもわかるなんて、そんなことはないからな」

「……そうだな。ありがとう小平」

「いいってことよ」

ついでとばかりに小平に次の仕事の催促をされ、達夫はまた、日常に戻っていった。しかしその経験は、達夫に一つの決心をさせる。

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