ノーサイレンス
セクマイWebアンソロジー
出立の日
会田ルリのそれまでとこれから
並木満
2
それからルリはなずな総合病院に行っていない。いや、行ってはいるのだが、アヤに会っていない。和孝の通夜・告別式は折しも雨の中だったということは覚えている。斎場の葉桜が濡れていた。喪主はルリがつとめたが、達夫がルリを気遣って相当頑張ってくれた。
告別式の後にお礼の品をもって、達夫と二人でなずな総合病院に行った。心づけは受け取れないと最初は断られたが、達夫がどうしてもと頭を下げて、やっと受け取ってくれたと後で聞いた。その場にいたはずなのだがよく覚えていない。
はっと気が付いたら、家に一人だった。誰もいない二階建て3LDKの戸建ては、ルリにはあまりにも広かった。そうか、一人なのか。そう思ってリビングの窓を開ける。
外は雨上がりの空が広がり、新緑の匂いがした。かなしい気持ちがそこに確かにあるはずなのに、なんでそれ以上に、アヤに会えなかったことを残念に思っているのだろう。どうして寂しい筈なのに、心のどこかでほっとしているのだろう。
そうしてルリは一人で生活を始めた。思えば初めての一人暮らしだ。何時に起きてもいいし、何を食べてもいいし、何なら食べなくてもいい。洗濯物も最低限、三日に一度まとめて洗うだけになった。ああ、自由だ。このころ自分が老眼だと気が付いたので、遠近両用の眼鏡と手元のものを見るための眼鏡型ルーペを買った。そして若いころに買ってそのままにしていた本などを読むようになったので、あまり寂しいとは思わなかったのはそう言うところにも理由があるのかもしれない。
しばらくして、達夫が家にやってきた。一頻り一人暮らしのルリを心配してくるので、あなたの仕事はどうなのとたまには母親らしいことを言ってみたりした。県内の大学卒業後、東京の出版社で働いているこの一人息子が心配ではないわけではない。反抗期だってちゃんとあったし、和孝やルリと衝突することもあった。だがそれも、今の関係性を作るうえで必要だったのだといまさら思う。
ルリに代わって皿を洗う達夫が、何かを言いたげだ。昔からそうだ。彼がルリの家事という仕事場に上がり込んでくるときは、いつも何か大切なことを言いたい時なのだ。例えば小学生の時。あのときは百点満点中で五点のテスト結果を告げるときだったっけ。あとは中学生の時。あのときは学校に行きたくないと言っていた。一週間休ませたら何事もなく登校を再開したが、一瞬ヒヤリとしたのを覚えている。
ルリがそんなことを考えつつ、ああ、息子は大きくなったんだなと少し感慨にふけっていた時に、達夫はやっと口を開いた。
「……母さんに紹介したい人がいるんだ。来週末、連れてきてもいいかな」
なんとなくそんな気はしていた。というか、たぶんこの年あいで言ってくることと言ったらそれくらいだろう。そうか、大きくなっていたとは思ったがそんなに大きくなっていたのか。
「ええ、連れていらっしゃい」
よく考えたらもう達夫もいい年齢だ。なんだかんだ文句を言いながらも働いているし、病気をしているわけでもない。今どきの婚期というものはわからないが、十分に可能性はあるだろう。というか自分が今の達夫の年齢だった時はもう子どもを産んでいたのだから何も可笑しくはない。
どんな女性を連れてくるのかしら。こういう時に母としてどんな格好をすればいいのかしら。ああ、こういう時に年の近い似た境遇の友人がいればいいんだろうけれど……と少しだけ自分の友人を作る才能のなさにため息が出たが、週末になってその考えはまったく違っていたことをルリは思い知った。
「こんにちはルリさん、エマ・バルケネンデといいます」
達夫が連れてきたのは、背が高く目鼻立ちのはっきりとした金髪のオランダ人女性だった。聞けば翻訳の仕事をしているとかで、ネットで知り合ったのだと言う。
時代が変わっているとはうっすらテレビで見た気がしたが、まさか自分の息子でそれを体感するとは思わなかった。とっくにグローバルな世界とやらは来ているのだろう。こればっかりは友人がいても想定できなかったな、と思ったものだ。
エマはルリを前に臆せず、かといってずけずけと入ってくることなく接してくれた。ルリも最初だけは多少驚いたが、エマの人柄の良さに次第に表情を綻ばせた。
喪中ということもあり、二人の結婚は翌年になった。オランダからエマの親族を迎え入れて、結婚式は東京のホテルで挙げた。新居はルリの住むS市に越すことになった。気を遣わなくていいとルリは言ったのだが、私にとっての日本のお母さんはルリしかいないから、とエマに言われて今に至る。日本のお母さんという言葉が少しうれしかった。娘が欲しいと思ったことはそこまでなかったが、この関係なら娘がいてもいいなと思ったのだ。
ちょくちょくエマはルリの家に遊びに来た。彼女はルリの知らないことをさりげなく教えてくれる。嫌味ったらしくないから不思議だ。エマの無邪気な笑顔の賜物だろうか。なんとなく、達夫がエマに惚れた理由もわかった気がする。ルリですら少しドキドキするのだから。
それにしてもエマは達夫のどこを気に入ったと言うのだろう。エマより年齢も下だし、身長だって低い。顔も……和孝に似て四角い顔で、目の小さなところなんかは母親としてはちょっとかわいいと思うのだが、他人の女性が恋愛対象に選ぶかと言ったら微妙だ。それはその年のクリスマスに明らかになった。
あのクリスマスは楽しかった。エマと達夫の新居に招待され、少し贅沢なパーティをした。オランダ料理をはじめて教えてもらい、ルリが日本風にアレンジしたものは会田家の鉄板レシピとなった。新居のキッチンはアイランド式のシステムキッチンだ。ちょっとうらやましい。
「エマさんは達夫のどこがよかったの?」
思い切って聞いてみた。エマはニッコリ笑ってこう返した。
「達夫さんはね、わからないことをわからないって言ってくれるし、それにわからないことでも嫌な顔しないの。本当にすごい人。世界で一番尊敬してます!」
あら、なんだか嬉しい。勿論、それは達夫が自ら得た人徳なのだが、それを摘まずにいられた自分も褒められた気がした。よく和孝が達夫に、世の中のすべてを自分の先生と思いなさいと……そう言っていたのを思い出す。黙って聞いていた達夫が恥ずかしそうにしている。いい話を聞いたお返しに、ルリは時間がなくても簡単に作れるレシピをいくつかエマに渡した。
「ママ、あのね……」
だからだろうか、エマが妊娠した時にその話を誰よりも先に知ったのはルリだった。達夫に連絡し、大事な話があると言って呼び出したルリ宅で、何かやらかしたのかと不安げな顔でやってきた達夫の顔は今でも忘れられない。
「てっきり最近仕事が忙しいから、離婚を切り出されるのかと思った……」
「そんな話だったらママの家でわざわざ言わないでしょ」
翌年、エマは女の子を出産した。茉莉と名付けられた初孫の名に何も思わないわけではなかったが、祖母としての第一歩を穏やかに進めることができた。それから年を重ね、温かな関係は壊れることなかった。それはルリが何も言わなかったからだと思う。
しかしそうして守ってきたそんな仲だからだろうか。いや、達夫の仕事の都合もあるからではあるのだが、なずな総合病院に入院が決まったときも、達夫より先にエマに相談した。ただ、アヤのことはどうしても言えなかった。
ルリはあの溌溂とした表情も、暖かなところの匂いのするような声も一秒すら忘れられなかった。万里子との思い出と沿うように、それらは淡くなっていった。会いたくない気持ちは会いたい気持ちを少しだけ凪いでいく。会えなかったらそれはそれで悲しいが、それによってほっとしてしまう自分も想像できてしまって嫌だ。
しかし、よく考えたら十年もたっているのだから……あまりこういうことを考えてはいけないのだろうけれど、アヤだって辞めているかもしれない。それにあの病院にいたところで、ルリの事なんて忘れているにちがいない。それはそれで悲しいが……まあ、考えていても仕方がないのだ。入院準備に身が入らないのは、病気だけでは言い訳ができなかった。いっそこれは治らない病気で……和孝のようにあっという間に……と思わないこともない。息子家族の顔が浮かび、そんなことを考えてはいけないと思うのだが、ルリの想像は増していった。
入院当日、達夫の代わりにエマがルリを病院に車で送ってくれた。車内ではエマが最近追っかけをしていると言う男性アーティストの歌声が流れている。
「大丈夫、ママは運がいい人だから」
「……運、いいかしら……」
運が良かったと思ったことはあまりないかもしれない。まあ、不便なく生活できていることは運が良いのだろうけれど、あまり幸運だとは思ったことが無かった。
「バッチリ強運!」
楽しそうにそう言えるエマが素直に眩しい。まさか達夫が国際結婚するなんて思ってもみなかったが、エマのこういうところがいいのだろう。男の子は母親に似た人を好きになると言うが、我が家ではそうではなかったと言うだけの事だ。引け目を感じる理由にはならないはずだし、喜ばしい事ではあるのだが、どこか自分の若いころと照らし合わせてしまう。
「そういえば、ママにスマートフォンを買ったって達夫さんが言ってましたけど、なにかいい物見つかりました?」
「ああ……そういえば、これ、病院で使えるのかしら」
そういってルリは鞄から小さい箱を取り出す。便利だとは知っていたが、いまいち何が便利なのかよくわからず乗り換えに至らなかったルリだったが、この度ついにスマートフォンデビューを果たした。なんとなく取っつきづらくて箱に入れっぱなしのまま持ち歩いている。
どれがいいかなんてわからないから、電話とメールが出来ればそれでいいと達夫には伝えたが、気が付けば若者が持つような最新機種のスマートフォンを選んでいた。茉莉やエマも同じ機種だから教えやすいと言う事だった。
まず小学生の茉莉が同じものを持っていることに驚きを隠せなかったが、なんとなく孫と同じ機種を持つのは嬉しい。茉莉はブルー、エマはシルバーの機種だと言うので、ルリは残りのゴールドを選んだ。ルリには派手だと思ったが、どうせケースに入れるのだからと押し切られたと言ったほうが正しい。
「多分電話は談話室でしょうけど、メールとかなら病室でも大丈夫なはずです。あ、あとでライン教えます」
そうこうしているうちに、車はいよいよなずな総合病院に到着する。受付をして、少し緊張して待合室のベンチに座る。ああ、懐かしい。和孝のころと特に何も変わっていない様に見える。一階は受付と精算と外来があって、二階から上は病棟だ。たった二ヶ月しかいなかったが、まるで住んでいたかのような錯覚に襲われる。
待合のベンチに座って、エマにいくつかアプリを教わったが、よくわからない。ガラケーのように押せばいいわけではないので、これは家でもう少し予習をしてくるべきだったなと思ったが、よく考えたら教える人と同居していないのだからそれは無理な話しだった。あちゃあ、とエマと途方に暮れていると、後ろから声が聞こえた。
「……あれ、もしかして……ルリさん?」
その声はルリを現実に引き戻すとともに、過去の世界からすっと飛び出してくるような感覚を与えた。目の前には牧原アヤが立っていた。あのころと変わらない、茶色がかった髪をポニーテールにして。
「牧原さん……お、お久しぶりです」
「お久しぶりです。お見舞いですか?」
「……いえ、私が入院する事になっちゃって……」
「入院! そうなんですか、もう受付してます?」
そういってアヤはエマを見る。あれ、とルリが思ったのは、たいていの人はエマを見ると明らかに通じる言語を探った顔をするのだが、アヤはそういった顔をせずはっきりとこう言ったのだ。
「こんにちは、看護師の牧原です。まくしたてちゃってすみません……日本語と英語だとどちらが会話が早いですか……?Which is more appropriate to talk to you, Japanese or English?」
その言葉を聞いてエマは少し驚いたようだが、いつもの朗らかな笑顔でこう言った。
「日本語の方が嬉しいです。ママの前ですしね。私はエマ、この人の義理の娘です」
「ああ、あの息子さんのパートナーさんなんですね、宜しくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
そういって互いに深々とお辞儀をする。ルリもつられて頭を下げてしまった。
「会田さん、会田ルリさん。窓口へお越しください」
受付が名前を呼ぶので、それじゃあね、と手を振って別れた。通された病室は五一二号室。二人部屋だったが、今は空いていると言う。多床室でもいいとルリは言っていたのだが、内心はこのほぼ個室の状態に安堵していた。同じ病室の人と話が合わなかったらどうしようと言うのも引っ込み思案のルリの悩みの一つだったからだ。
「ここ、ナースステーションの目の前ですね」
「あら、本当だわ」
ナースステーションを見ると思いだしてしまう。和孝がこの世を去ったあの夜を。思った瞬間、恥ずかしくなってしまった。そうだ、さっきアヤと会ったのだ……久しぶりに。何か失礼な事は言っていないだろうか。変な顔はしていなかっただろうか。というか、アヤは英語も話せるのか。そういえば看護師になる前に一般職で働いていたという。なにか関係あるのだろうか。
彼女への気持ちはこんなに熱いものだったか。ただ単にドキドキしていたわけではなく、体中の血潮が熱く皮膚を貫くような錯覚すらする。久しぶりに会ったことで動揺しているだけだと思い込ませた。あんなに会うことに躊躇していたのに、実際に会ってしまったら嬉しくて仕方がなかった。それにも驚く自分がいる。
検査入院は短くても五日かかるという。エマは毎日は面会に来ると言っていたが、無理をしないように返した。これは自分の経験だが、面会をしないよりもした方が、家族としては気が楽なのだ。負担ではもちろんあるだろうし、エマには仕事もある。だからそれだけは、そちらを優先してほしいと要望は伝えた。今日は簡単にいくつか検査をした。その結果をもとに、更に細かい検査をするようだ。
アヤは別の階の担当をしていたようだが、夜勤の時は担当になるということで、翌日の夕方にあいさつに来た。相変わらず快活が服を着て仕事をしているような、明るくて温かな女性だ。ルリは年齢不相応なほどアヤの前でどぎまぎした。まるで万里子と初めて話したころのような、そんな新鮮で世界に色が付くような気さえした。
「今もルリさんって呼んじゃっていますけど、本当は名字でお呼びしないといけないんですよね……お気を悪くしたらごめんなさい。なんだか懐かしくて……」
アヤがそんなことを言い始めた。そういえば、昔は和孝の手前、名字ではなく名前で呼ばれていた。今はそうではないのだから、確かに何故看護師に名前で呼ばれているのだろうという疑問が他のスタッフや患者から持たれるかもしれない。
「大丈夫です……私もアヤさんって呼んでるし」
なんだか特別になれたようで嬉しいなんて、言えたらいいのだけれど。
「何かあったらナースコール押してくださいね。じゃあ消灯の時にまた伺います」
「ありがとう、よろしくお願いします」
そう言ってカーテンが閉まり、アヤは出ていった。カーテンの向こう側でルリが顔を真っ赤にしていることなど知らないだろう。
検査で何も見つからないのが一番いい、もちろん不安もあった、しかしこうしてアヤに会えることになったことを喜んでいる自分もいる。まるで和孝がこの世を去った時の、あの安堵感に対する複雑な感情に近い。寂しく思ったり心配したりするのがきっと普通なのだろうが、どうしてもそれだけではないことに困惑していると言ったほうがいい。
消灯後、なかなか眠れなかった。ごろんと寝返りを打ち、壁から伸びるナースコールを眺める。これを押すとアヤが……いやいや何を考えているんだ。静かな病棟は、時折足音が聞こえた。それがアヤの足音かはわからなかった。しかし彼女がそこにいるのが、頼もしく嬉しかった。
翌朝、検温を済ませたルリはそう言えばと思ってスマートフォンを見る。なんだかよくわからないが、通知がたくさん来ている。なんだか触っていいものかわからないでいると、アヤが朝食を持ってやってきた。
「おはようございます!あ、スマホにしたんですね」
「おはよう、それがよくわからなくって……買い替えたばかりだから、なにがなんだか……エマさんに聞いてみないとわからないわ」
そう言うと、アヤはスマホを覗き込む。近い、近すぎる。思わずスマホを取り落としそうになるがなんとかその薄い板を握る。
「あ、私と同じ機種だ……もしよかったら、申し送り報告が終わったら私ちょっとスマホみますよ」
「あら、本当?でも、アヤさんの帰りが遅くなっちゃう」
「いいんですいいんです、夜勤明けはもう帰っても寝るだけなんで」
そう言ってアヤは笑う。看護師という仕事のありがたさと少しの心配が混ざった結果、ルリは少し笑った。
アヤはその後、私服姿でルリの部屋にやって来た。さっぱりとしたシャツとタイトなパンツ姿は彼女の性格を表している気がする。終業後に患者を訪ねるのは本当は良くないらしいと聞いて、そりゃそうだろうと思ったが、今はただありがたい。
「うわあ、同じだと思ったけどこれ今年出た機種じゃないですか!すごい、いいなあ~」
「大丈夫かしら、そんな……そんな大層なものを……」
「アハハ、まあでも中身は同じなので大丈夫ですよ、これがLINEで、こうすると送れます」
アヤはいろいろと教えてくれた。特に助かったのがアプリというものの入れ方だ。あと、わからない時の検索方法も教えてくれた。
LINEも教わった。エマと達夫と茉莉、それにルリを入れたグループLINEというものがあることをやっと理解した。通知がたくさんあったのは三人がやり取りをしていたからであった。
「なるほど……なんとなくわかりました。ありがとう……本当ならエマさんに聞けばいいんだけど、あの人も忙しいし」
「エマさんは、この前の方ですよね。そうか、息子さん結婚されたんだあ……」
「私だってもうお祖母ちゃんだもの」
「あっ!そうなんですね!うわあ時間の流れを感じる~はあ……いや、なんか……ね、人生考えちゃう……」
思った以上にアヤがダメージを受けている。今、彼女は……というか、今に至るまでの彼女を知らない。恋人がいるのかとか、家族はとか。聞いてもいいのだろうか。なんだかそこまで厚かましくなりたくない。昔から、ずけずけ聞いてくる高齢女性がルリは苦手だった。同じことをしたくない。だが気になる。
「アヤさんって、ご家族は……」
一生懸命薄めた言葉だが、それでも振るうのはためらった。しかしここで何も話さないのも不自然だ。
「あはは、私は未だに独り者~、でも一人暮らしも慣れちゃうと楽ちんなんですよね。今年のお盆も実家に帰らなかったし……ていうか、この仕事してたら盆暮れ正月ないようなもんですから」
「ああ……」
「あ!牧原さん、なにやってんの?」
その時、後ろから可愛らしい声が飛んでくる。振り向くと、腰に手を当てた小柄な看護師が立っている。彼女には見覚えがあった。
「あ……師長。ごめんなさ~い、ちょっと世間話」
「もう、着替えてまで仕事しない!」
「仕事じゃないもん」
頬を膨らませるアヤが可愛い。それを見てルリも思わず笑っていたのだろう、それに気が付いた彼女はこちらを見て丁寧に頭を下げた。
「ごめんなさいね会田さん……お久しぶりです。昔、和孝さんの担当をしていた清水です」
「そうよね、そう、よかった……お久しぶりです。あの時はありがとうございました」
清水知紗、そう、アヤがナースステーションにルリを迎えてくれた時に一緒にいた先輩看護師だ。退職どころか師長になっていたらしい。知紗は目を細めて再会を喜んでいる。
「いえいえ、仕事ですから……で、牧原さん、何をしていたの?」
「いやー、スマホの使い方わからないっていうから、ちょっとだけ教えてただけで……」
アヤが頭を掻くと、知紗はもう、と厳しい顔をした。そうだ、初めて会った時もアヤを叱っていた。
しかしその時のような緊張感はない。今はもう、互いに心を許しているのだろう。
「熱意はいいけど、夜勤明けなんだし帰りなさいね。副主任がそんなんじゃ、若い子たちが帰りづらくもなっちゃうし」
知紗の言葉にルリは顔を上げた。副主任とは……聞いていない。知紗がナースステーションい戻るのを見送り、ルリはアヤにこう訊ねた。
「……副主任なの?」
「えへへ、実はそうなんです……シフト作って会議するくらいですけど」
それでもルリには眩しい。きっと並みならぬ努力をしたのであろう。ルリは思わずこう口にしてしまった。
「アヤさんは頑張り屋さんだもの、すごいわ」
ルリの言葉にアヤはまた笑って頭を掻いた。素直なところも非常に好ましい。ルリのようにすぐに過剰な謙遜をしてしまう人間からすると、その笑顔は言葉以上の力を持つ。
ああ、きっとこの笑顔はこれまでたくさんの人を助けてきたのだろう。
帰宅するアヤを見送る。きっと疲れているだろうに、ルリよりずっと若いとはいえ、本当に体にだけは気を付けてほしいものだ。入院しているルリが言えたことではないのだが。
その日、いくつか精密検査をした。昼の病棟は和孝のころと比べると随分明るく思えた。検査技師の若い男性の指示通りにいろいろと検査台に乗ったり、あれやこれやとされた。あっという間に昼食になる。今日はお風呂に入って良いとのことなので、決められた時間に風呂場に行った。あちこちに手すりの付いた風呂場を見て、そろそろ自分も家を改装したほうがいいのかもしれないとか、介護施設に入ることもあるのだろうとか、いろいろと考えた。風呂の時間は30分と決められていたが、ルリはもともと長風呂ができないので20分ほどで上がった。
陽が傾いたころ、達夫が面会に来た。担当している仕事が昼に終わり、その帰りだと言う。
「私のことはいいのに」
「いや、でも心配だからさ、検査はどうだったの」
「今日受けたばかりだから、明日になるんじゃないかしら」
達夫は仕事のことはあまり話さない。恐らく和孝が仕事を家庭に持ち込まなかったのを見て育ったからであろう。
家族としては助かるが、母親としては息子が無理をしていないか心配だ。そういう話を振るといつも達夫は話を逸らす。
「ていうか、母さん、LINE覚えたんだ?さっきちゃんと返信あってびっくりしたんだけど」
ここに来るまでに、達夫とルリはLINEでやりとりをした。なんとスタンプまで駆使したのだ。驚く達夫を見てルリは少し嬉しくなる。すべてアヤのお陰だ。彼女がいなければ、達夫と連絡をとるにも電話だったと思う。メールに慣れないルリだったが、却ってLINEのほうが直前のやり取りが見えて文章を入れやすいと言うのも利点だと思った。それに気が付けたのもアヤが教えてくれたからだ。
「看護師さんに少し教えてもらったの」
「そこまで世話になったの?あはは、看護師さんには頭が上がらないなぁ、本当に天使みたいだ」
「そうね」
達夫は茉莉の習い事の迎えがあるからと言って、夕食前に帰った。最近、水泳教室に通っているそうだ。
翌日、担当医師と少し話をした。由比と名乗る医師は、ルリよりは年下だがだいぶ年配で小柄な男性だった。柔らかい口調でこう話す。
「検査結果に特に問題はありませんでした」
それを聞いて安心した。肺の影は特に悪性ではなく年齢によるもので、それも自然と消えるそうだ。ただし、定期的に検査はしてほしいとのことだった。
かかりつけの末医師にも伝えておくと言う。どうも由比医師と末医師は面識があるそうだ。
「彼とは大学の同窓なんです」
そう話す由比医師は、末医師とは少し対称的だと思った。おおらかな話し声に対し、末医師は少し気難しいところがあるし、仲が良くなる要素は見当たらない。なんだか不思議な気もする。
「そうだったんですか、私は末さんと中学校が一緒だったです」
「おや、そうでしたか。昔はよくクリニックに会いに行ったものですよ、もしかしたら会田さんともすれちがっているかもしれませんね」
他愛もない会話をしたあと、退院の話をした。明日朝には手続きができるとのことだった。
由比医師や看護師に頭を下げ、その後談話室で達夫に電話をした。達夫が車を出せるとのことなので、すべて任せることにした。
安堵するとともに、少し寂しい気持ちもした。もちろん家には帰りたいが、長年一人で暮らしてきて一日誰とも話さないことがそれなりにあったルリにとって、病院で看護師らと話すことは刺激にもなったからだ。それに、何よりアヤともう会えないのかと思うと、寂しい。明日出勤だろうか。せめて、もう一度礼を言いたい。夜勤で巡回してきたのが知紗だったので、よっぽど訊ねたかったのだが、どうしても勇気が出なかった。
翌朝、朝食をとり、病院内のパジャマからいつも着ているブラウスとスカートに着替えた。小柄なルリにはやはりいつもの服がちょうどいい。達夫を待っていると、夜勤明けのはずの知紗が、失礼しますと礼良く部屋に入ってきた。
「あら、清水さん……本当にお世話になりました」
「本当に何もなくてよかったです。牧原さん、ほら入って入って」
「え?」
驚くルリに、まだ私服姿のアヤが照れ笑いを浮かべながら入ってくる。なんのことだかわからないが、願ってもいないことに動揺してうまく状況が理解できない。
「ルリさん、退院おめでとうございます!いや、なんか……今日遅番なんですけど、ちょっと早めに来たら師長がルリさんのこと教えてくれて……ちょっと、挨拶に」
「そんなご丁寧に……アヤさん、それに清水さん、本当にありがとうございます」
「夜勤明けで残るのは本当はダメですし、遅番がこんなに早く来るのも本当はダメなんですけど……特別です。牧原さん、ルリさんの話ばかりするんですもん」
「そんなにしてないですよう」
「だとしても、本当は特別扱いもダメなんですけどね」
そうは言うが、知紗もなんだか寂しげだ。ルリのことを好意的に見てくれているようでそれは嬉しい。
なんだか、暖かさを感じて嬉しいのだ。だからこそ、良いこととはいえ退院は寂しかった。
「私の話ばかり?そうなの?」
「いや、あの……そんなつもりでもないんですけど、なんていうかまあ、本当に会田さん達のお陰でここにいるようなものなんで……」
アヤの言葉はよくわからなかったが、ルリは感謝で頭を下げた。
達夫に連れられ、帰宅するルリを見届けて、アヤはふうと息をついた。まさか再会できるとは思わなかった。
十年、必死に仕事にしがみついたのは、彼女に会うためだったのかもしれない。
「本当に今回だけが特別だからね」
「わかってますよ」
「本当、あの時牧原さんが心折れなくて良かった。精いっぱい、自分で考えて答えを出そうと努力するきっかけだったと思う」
知紗の言葉は重い。あの時、アヤは教えられたことからは外れたが、人として、看護師として人に寄り添うことの大切さを学んだ。むしろ、和孝の件でアヤは看護に目覚めたといっていい。前の仕事を投げうって看護の道に入ったばかりのアヤにとって、自分の無力さと自分の本当の力を知ったきっかけは、ルリのあの時の会話がすべてだったと思う。
それだけではない……ルリにとってアヤが特別ではなくとも、アヤにとってルリは特別だった。最初にその顔を見た時から。
彼女について何も知らないけれど、その時からまさしくアヤはルリに仄かに好意を持っていた。だから初めて会った夕方、帰り際のルリに声をかけたのは、彼女が儚く消えてしまいそうになっていたのを止めたい人としての心もあったが、それと同じくらい彼女と近づきたい気持ちもあった。もちろん誰にも言っていないし、それは仕事をするうえでは情熱としては正しいが、判断には邪魔な感情だ。知紗も多分知らない。
「うん……そう、ですね」
「もう、惚けちゃってどうしたの。仕事まで時間あるんだから、お茶でも飲んでれば」
「そうですね、なんか、ちょっと初心に帰った気持ちです」
「それで結構。ところで牧原さん、来月のシフトまだできてないの」
「まだできてませぇん」
知紗は笑ってアヤの肩を叩くと、そのまま大きく伸びをして更衣室に向かった。知紗は厳しいが、それだけ優しい。十年でよくわかった。小柄で可愛らしい反面、夜勤明けにラーメン屋に一人で入り、大盛りで味の濃いラーメンを食べることが唯一の愉しみの知紗だ。たぶん今日もこれから街でラーメンを食べるのだろう。アヤの入職当時は軍曹と恐れられた彼女だが、今は……多少厳しいだけだと思う。きっと知紗も思うところがあったのだろう。
変わらぬ人などいないのだ。ルリだって孫がいると言っていた。きっとそこには多くの喜びがあったのだろう。それにそれだけではない人生もきっとある。アヤはそれでもいいと思った。また会えてよかった。自分の中で納得ができるチャンスを、看護の神が見ててくれたのだと思ったくらいだ。
だから、それが本当に最後の別れだと思っていた。しかし、アヤとルリの運命は、再び思わぬところで交差することになる。
ルリが入院する数日前の日曜日の事だ。達夫が茉莉を連れてルリの家にやってきた。入院前に必要になる物の買い出しの為、車を出してくれることになっていた。申し訳ないと思ったが、どうにもならないことも多かったのでそれは甘えようと思った。何より孫に会えるのは嬉しいことだった。
久しぶりに会う茉莉はまた身長が伸びたようで、ルリの身長を越えるのも秒読みと言ったところだった。そうでなくても今どきの小学生は背が高い子が多いのに、一七四センチのエマを母親に持っている彼女はもっと大きくなるだろう。そういえば昔好きだった歌にそういう内容の曲があったな……と思いながら茉莉を眺めていると、ルリの視線に気が付いたらしくおばあちゃん、と話しかけてきた。
「茉莉、今日はちょっと一味違うの。わかる?」
「あら、そうかしら……ちょっとよく見せて」
そういうと茉莉はニコニコ笑いながらルリの前に立った。そういえばどこか違うような……少し唸っていると茉莉はもう、とスカートを翻す。今日も可愛らしい格好だ。
「おばあちゃん、パパそっくり! 全然気が付いてくれないんだもん!」
「そんなこと言われても親子だもの……」
ぷりぷり怒る茉莉にルリは狼狽えることしかできない。今どきの子の怒りの勘所が全くわからない……と思ったが、よく考えたら達夫の世代どころか同世代のこともルリは完璧に理解できているか怪しい。
「母さん、今日こいつ化粧してるんだよ」
見兼ねた達夫がげんなりと肩を落としながらそう言う。きっと、朝からこの勢いなのだろう。
「えっ茉莉ちゃんお化粧してるの?」
「そう!ママの下地とファンデーション、あとリップも借りちゃった!」
「そんなことをしなくても可愛らしいのに」
「もう、本当にパパそっくり!メイクは自分のためにするんだからいつでもしていいの!」
そう話す茉莉はまだ小学生だと言うのに大人のように笑う。朝からこんな風なんだと達夫が笑う。化粧もちゃんと落とすのであれば、エマはそれでいいと言う。最近の化粧品は肌に優しいものが増えたとは思うが……昔から、というか大人になってからも薄化粧以上をしたことのないルリにとって茉莉のそういう言葉はよくわからない。
達夫の車に乗り、いくつか店を回った。入院するときに何が必要かのリストはすでに病院からもらっていたので、その通りに買い物をした。パジャマなどは院内でレンタルできると言うが、どうせなので新しく買って持ち込むことにした。まだ肺にある影がなんだかわからない以上、長期入院になるかもしれないと思ってのことだった。
途中、家電量販店に寄ったときのことだ。茉莉がルリの携帯電話を見て、こんなことを言い始めた。
「おばあちゃん、スマホにすればいいじゃん!茉莉、おばあちゃんとLINEしたい!」
そんなことで、これは完全に勢いだったのだが店員と茉莉に勧められるがままスマートフォンを購入してしまった。
達夫も連絡が取りやすいと言うので、その時はなんとなく自分でもこれを使いこなせるのではないかと錯覚してしまったが、結局退院してからやっと本格的に使うようになった。
アヤから教えてもらった通りに最初は調べながらいろいろとスマートフォンの扱い方に慣れようとした。入力には苦労した。達夫とエマと茉莉とのグループLINEも、ルリは眺めることが多かった。たまに話を振られるが、返信にはまだ時間がかかる。しかし携帯電話を手放してしまった以上、もうこの薄い板と向き合うしかないのだと思い聞かせた。
退院後、末医師の元に行った時のことだ。
「ああ、良かった。何かあったら大変だからね、もう僕たちも年齢が年齢だから」
そういう末医師は、カルテを眺めていたがふとルリのカバンのポケットから覗くスマートフォンに目を遣った。
「ああ、これ……孫に言われて買い替えたの」
「みんなこれだね。僕もスマホだけど、こんなに高価じゃなくてもなあと思って、最近もっと安いのに替えたよ」
彼らしい。流行りものに乗らないわけではないが、その上で自分で吟味するのは昔からだ。今もクリニックの設備は整っているし、定期的に新しくなっている。日々勉強だよと末医師は言う。
自分もなんだか頑張らなくてはと思い、その帰りにルリは本屋に行きスマートフォンのガイドブックのような本を買った。果たしてこれでいいのかはわからなかったが、少しずつ使い方を覚えていった。
ある程度それが生活の一部になったころ、ルリはいくつかの動画サイトを見るようになった。気になっていたが見逃していたり、和孝が好まなかったドラマなどを見るためだ。ドラマについて調べていくと、レビューをしている人のブログを見つけた。
ルリはその時気が付いたが、ドラマそのものよりもそれを見た人の感想を見る方が好きなようだ。何人かブログやサイトを見ていて、いくつかお気に入りのレビュアーができた。ドラマに出てきた料理の再現記事や、ロケ地の紹介記事なども楽しく読んだ。
そのうちの一人が、後になって思えばあれは広告記事だったのだが……とあるサイトを紹介していた。
それは女性同士の恋人や友達を探せるサイトだと書かれていた。その時は軽い気持ちでサイトを見た。これは誓って言えるが、友達を作る方に興味を持ったのだ。友人の少ないことは気にしていたが、今更友人作りをするのも尻込みしてしまうし、元来ルリは引っ込み思案だ。こういうきっかけがあれば、もしかしたら茶飲み友達でもできるのかもしれない。老後のことも気になる。今回の入院で、自分もいつまで元気でいられるかわからないと思い知ったからこそ、横のつながりが欲しくなったのだ。
サイトはシンプルで、いくつかジャンルに分かれた交流スペースがあった。会員になるとすべて見られると言う。
すこし考えた。こういうサイトは大体有料なのではないだろうか。気になって規約を見たが、長くてよくわからない。
とりあえず登録してみようと思った。その時ルリが想像していたのは、ケバケバしいデザインのいわゆる男女用の出会い系サイトだった。携帯電話を使っていたころに広告で見たものがそういうものだったから、その延長だった。何故かしら、ここは大丈夫であろうと思ったのだ。
会員登録をして、プロフィールを編集するよう求められた。本名はよくないことは知っていたので、好きなドラマに出てくる猫の名前にした。年齢や居住地を入力し、最後に求められたのはアイコンにするための写真だった。画像フォルダを見ても、買ったばかりのスマートフォンには特に写真がない。写真を撮るという文化がまずなかった。携帯電話を持っていたころも、茉莉の写真を撮ったくらいか。
顔写真がいいと書かれているが、気恥しい。結局、すこし影が入るようにして、顔全体は見えないように写真を撮った。
有料は主に広告を外したり、コミュニティを作るときには必須らしい。広告を見ることは苦痛ではなかったので、そのままにした。
友達作りのコミュニティで何人かとやりとりをした。不思議なのだが、女性たちのやりとりや写真を見ているとふわふわと、まるで自分が自分ではなく、このサイトを使うもう一人の自分が出てくるような気持ちになった。楽しいともまた違う、スリルと言ったほうが良いだろうか。実際、コミュニティの女性たちは若いユーザーが多く、やりとりをみているだけでも刺激的ではあった。ここまでルリはたったの一日でやってのけてしまった。
数日後、一人の女性がメッセージを送ってきた。アイコンを見てルリは少し息を呑んだ。万里子によく似ている。というか、記憶の中の万里子そっくりだ。
震える手で文章を作り、何度かやり取りをした。なんとか会話を持たせたかった。まるで万里子と話しているようで、それは楽しかった。ザクロと名乗る彼女は40代で、同じ県内に住んでいると言う。特に趣味が合うとかそう言うことはなかったが、やりとりの節々にこちらへの気遣いがあり心地よかった。
『三日後、市内に買い物に出るのでその時会えませんか』
突然彼女はそんなことを言ってきた。一瞬快諾しそうになったが、ちょっと待った方がいいとその指先を止める。暫く考えさせてほしいと返したが、その後、会ってみたい気持ちがむくむくと湧いてきた。よくないのではないか、騙されていないか。それは何度も考えた。しかし、今このタイミングを逃したら、彼女と会えないのではないか。そう思って、意を決してこう返事をした。
『わかりました。じゃあ三日後、駅の前で』
それから時間のやり取りをして、その日は終わった。やり取りを終えて急に怖くなったが、よく考えたらそれを求めてサイトに登録したのだから、誰にも相談のしようがなかった。
三日後、駅前で待ち合わせた。折しも初夏の頃。どのような格好をするべきかわからなかったので、普段の白いブラウスと茶色のスカートに、透け素材の少しだけ高いカーディガンを羽織った。エマからのもらい物だが、着る機会がなかったものだ。
目印が必要だと思ったので、手提げにこれまたエマからもらったものの使う機会のないまま飾っていただけの赤いスカーフを巻いた。
早く着きすぎたので、駅前を少し歩いた。ここ数年の再開発でショッピングモールができてた。昔はよく達夫を連れて駅前のデパートに行ったものだが、もうその頃の面影はどこにもなかった。
「あの、シラタマさんですか」
「はい」
声をかけられ、ルリは振り返る。そしてその姿を見て、声が出るほど驚いた。
「え、え……?アヤ、さん……?」
「ルリさん、やっぱり……」
「え?」
「行きましょう、ちょっとお話が」
そう言ってアヤはルリの手を取り、歩き始めた。振り払うことだけはできなかった。こうして再び交差した運命は、ルリのそれまでとそれからを大いに変えるものだった。