ノーサイレンス
セクマイWebアンソロジー
出立の日
会田ルリのそれまでとこれから
並木満
1
会田ルリは困っていた。困ると言うほどの事ではないと自分でも思う。しかし困っていた。思い返せば今までの人生の殆どは何か知らかで困っていたと思う。もうすぐ古希だというのに恥ずかしいものだが、うっすらとした困りごとはいつまでもルリに降りかかった。
そもそものきっかけは、何の気はなしに受けた健康診断でうっかり肺に影が見つかったがばかりに、なずな総合病院に検査入院することが決まったことだ。
会田ルリは困っていたし、憂鬱だった。なずな総合病院は隣町の比較的新しい病院なので、そこに問題も不安もない。しかしあの病院には会いたいけれども会いたくない人がいる。別の病院をと思ったが、県を跨いだ大きな病院しか空いていないと聞いて諦めた。ルリを案じてわざわざ近くに住んでいる息子夫婦にこれ以上迷惑はかけられない。ルリの個人的な困りごとはあっさり流れてなかったことになった。
とりあえずルリは目の前のことを片付けようと思った。ちょっとした現実逃避だ。まずは近所の町医者に診断報告書を持って行くことにした。ようやく冬が終わり、陽射しに暖かみが感じられるようになった頃。ルリの家から徒歩十五分圏内にある末内科医院は患者もまばらで、平和そのものだった。受付スタッフに用事を伝えると、すぐに診察室に通してもらえた。
窓からは柔らかな日差しがルリの一抹の不安と懸念を笑っている。確かに笑ってしまうような理由ではあるのだが、それが明るければ明るいほど、ルリはより一層眩しくて困ってしまう。
末内科医院はルリのかかりつけの町医者である。そして院長の末高良医師はルリの幼なじみでもある。少し口は悪いが、なんでも相談できる良いかかりつけ医だ。
「病院から連絡はもらったよ。で、入院はいつなの?」
「それが来週の月曜日からで……もう、急なことでびっくりしちゃって……」
「そうかい……まあ、こればかりは早く精密検査をすることに越したことはないからなぁ」
末医師は仰々しく眼鏡をかけ直すと、ルリが持ってきた報告書を見ながら唸った。目鼻立ちの神経質そうなところは昔からだ。昔のS市は今以上に田舎だったが、その中でも珍しい都会的な彼の風貌に、憧れをもって接する女子が多かったとルリは記憶している。
「それにしても相変わらず向こうの医者ってのはみんな雑な字だな。読むのに苦労するんだ。こっちはもう七〇近いっていうのに……」
そう言えば末医師は書道も嗜んでいた。それに剣道も。医師一家に生まれ育ち、文武両道で顔もいいとなれば、そりゃあモテるというものだ。実際彼はこの医院を継ぐまで東京で暮らし、そこで知り合った綺麗な女性を妻としていた。過去形なのは、彼女はこの田舎でも都会でもない中途半端なS市の暮らしに耐えられなかったようで、結婚して一〇年もたずに東京に戻ってしまったからだ。
そう言う噂はすぐに広まる。それでも末医師はこの市に留まり続けて診療を続けている。彼がどう思っているかは聞いたことがない。
「君の旦那さんのときもそうだったよ。僕はどうも病院に勤務している医者ってのは苦手だね」
「そう……もう一〇年も経つのによく覚えているわね」
「……忘れんよ、忘れられないね」
一〇年前に他界したルリの夫・和孝は、末医師と親しかった。よく休日になるとゴルフに行っていたのが懐かしい。互いに数少ない友人だったのではないだろうか。もう一〇年、まだ一〇年というべきか。なんとなく遠い目をしてしまう。
「いつも飲んでいる薬とか、塗り薬ってどうすればいいのかしら」
ルリの言葉に末医師はこちらに視線を投げる。やはり年は取ったな、と思う。それはルリもそうなのだが。
「ああ、そうだね。あとでまた病院に電話するよ。ついでにこの報告書を書いた医師にもちょっと文句を言ってやろうと思う」
多分だが、彼は本当に文句を言うのだろう。そういう人間だ。そうしてルリは家に帰ることになった。陽射しはいまもまだ眩しい。困った。とりあえず今日はカレーにでもしようか。
末高良はS市でも有名な医者一家の長男だ。上に姉が五人いて、やっと生まれた長男だったという。姉たちに囲まれて生活していたからか女慣れしていた。そういうこともあって、いつまでも男慣れせず引っ込み思案だったルリにも自然体で話しかけてくる数少ない家族以外の男性だった。
スーパーで食材を眺めながらルリはふと思い出した。ルリたちが中学生の頃に、既に東京の高校に行くことが決まっていた高良とこんな話をしたことだった。
「僕なんかよりも君みたいなひとこそ東京に行くべきだと思うがね」
「どうして?」
「僕は嫌々東京に行くのさ。それが修行だからね。君のような子が都会に出ることで、どうなっていくのかをちょっと見てみたいな」
それになんて返事したかは覚えていない。ぼんやり思っていたのは、彼の少しだけ横柄な態度に惹かれる女の子たちの気持ちはさっぱりわからないと言うことだった。
ルリはそのころ、恋をしていた。誰にも言えなかった恋だ。半世紀以上前、ルリがまだ旧姓の嶋田ルリと名乗っていたころの話。
ルリが恋していたのは、隣のクラスの片山万里子という女子生徒だった。溌溂とした太陽のような女性だった。特別優等生でもなければ不良でもなかったけれど、クラスでも目立つ方の女子生徒だった。その笑顔は誰にも平等に降り注ぐ初夏の陽射しのようだった。そんな彼女の笑顔を独り占めしたいと思うようになったのはいつからだっただろう。そんな彼女の笑顔に若干の後ろめたさを感じるようになった頃だろうか。
彼女の髪型をまた印象深く覚えている。少し茶色がかった髪を後ろで綺麗にまとめたポニーテールが、どこか彼女らしかった。ルリは万里子と中学二年生のころに少しだけ親しくなり、それから一緒に昼食をとったりしていた。1960年代の話だ。世間が高度経済成長に沸き、オリンピックだ、ビートルズ来日だと、とにかくなにもかも大騒ぎする時代だった。
万里子には芳川静子という幼馴染がいた。名前の通り物静かな女子生徒で万里子とはタイプが違っていたが、それが逆によかったのだろうか、クラスは違ったがいつも一緒にいた。
ルリは静子に明らかに嫉妬していた……と思う。明確にそれが嫉妬だったと気がついたのは後になってからなのだが、万里子の隣で笑っている静子になれたらどれだけ幸せか日々夢想していた。結局万里子とはそこまで仲良くなれずに、中学校を卒業した。
卒業式の日のことはよく覚えている。帰り道に、空き地で万里子と静子が一緒にいるのを見たのだ。二人は焚火をしていた。小さな焚火の前で、卒業証書を握り、泣きながら笑っている二人を見て思ったのだ。この二人の間には到底入れないし、入ったらいけないのだ……と。静子の進路は知らないが、万里子は地元を離れるらしいと風の噂に聞いた。だから、きっと最後の思い出作りだったのだろう。
それからルリは高校に進学し、なにごともなく短大を卒業する。しばらく事務員として仕事をしていたが、お見合いで和孝と結婚した。特に感情はなかった。周りも結婚しているし、親の勤め先の伝手だと言うからルリに断る選択肢はなかったと今なら思う。
結婚してから六年で長男である達夫を産んだ。それなりに生活してきた。そう思っていた。夫の和孝は寡黙だがルリに依存も干渉もするタイプではなかったし、息子の達夫もやんちゃだったが優しく育った。周りからは見習いたい家族だとよく言われた。ルリはそう言われるたびに、どこか心の奥をきりきりと爪で引っ掻かれるような気がした。だがそれはなかったことにしていたし、いまさら言ってもどうにもならないと諦めていた。そうして達夫が大学を卒業し、気が付いたらとっくに五十路を越えていた。
自分の人生とは何だったのだろうと思い悩む暇を、運命は待ってくれなかった。達夫が独立して仕事が軌道に乗るのを見届けるように和孝は膵臓がんであっという間にこの世を去ってしまった。還暦を目前に、ルリは独り身になってしまったのだ。
ざらざらと流れてくる記憶はすべてどこか手触りの悪いものだったが、むしろそれが味というものだろうか。思うようにならないのが人生とは言うが、思うことすらなかったのかもしれない。
結局カレーを作る気力もないことに気が付いたので、総菜を適当に放り込んで家に帰った。昔なら絶対に考えられないことだが、いまルリは一人なのだから、何をしてもいいのだ。この生活にも慣れた。一人でいることは、苦痛ではない。
家に帰り、窓辺にある和孝の遺影に手を合わせる。写真が全くなかったので、結局社員旅行の集合写真を切り抜いたものだ。至極つまらなさそうな顔をしている。旅行を好かない人だったから、きっと苦痛だったのだろう。
食事を済ませて、いつものルーティン通りドラマを見てその日は寝た。今期はありきたりな恋愛ドラマばかりだ。
和孝がこの世を去るまでの二ヵ月間は忘れられないと思う。何せ夫婦そろって健康だけが取り柄のような状態だったから、慣れない病院での生活には四苦八苦した。ルリは毎日病院に通い和孝を見舞った。病院がルリの生活の中心になっていった。非日常が日常になり、ルリは自分の人生を省みることすら逆転的に非日常になったのだ。
そんなときだった。ルリは一人の女性看護師と出会う。それはまさにそれまでの日常を取り戻すような出会いだった。困りっぱなしで決着をつけていなかったことがすべて、ルリの人生として降りかかったといっていい。
あれは四月の上旬だった。和孝が入院して一か月ほどたったころで、外は桜が咲いていたと思う。なにせ桜などにも目もくれず一生懸命生きていた。来年の桜は二人で見られないかもしれない……なんて独白が入るのは、小説やドラマや映画だけの話だ。実際はそんな余裕なんてどこにもなかった。
「牧原アヤです、新人ですがよろしくお願いします」
……ルリはアヤを見た瞬間、思わず叫びそうになった。アヤはまるで万里子の生き写しのような、快活そうな茶色の髪をポニーテールにした女性だったのだ。何よりずっと忘れていた、万里子の声そのものだった。思わずぽかんとアヤの顔を見てしまったものだ。
「え……ええ、よろしくお願いします」
「すみません、私、変な顔していましたか」
アヤが不安げにそう言う。確かに少し緊張しているようだった。和孝も怪訝な顔してルリを見るので、慌てて否定し手を振った。
「いえいえ、ごめんなさい、知り合いに似ていたものだからびっくりしてしまって……夫のこと、よろしくお願いします」
知り合い、とルリは心の中で繰り返す。知り合い以上のなにものでもないのだが、実際口にすると、瘡蓋をはがされるような痛みが襲う。知り合い以上になりたかったが、それももう叶わない。万里子だってもう還暦前のおばさんになっているだろうし、きっとルリのことなんて忘れている。
そう、忘れているのだ。当然、ルリだって忘れていなければならない。だが、ルリは普通のおばさんになったこの年になってなお、心のどこかで万里子という思い出を片時も離すことがなかったのだ。今は隣に和孝がいるのに。
ルリのそんなうっすらとした悲しみをよそに、その言葉に安心したのかアヤはにこりと笑う。
「この春に看護学校を出たばかりなので、むしろ教えていただくことが多いかと思います。こちらこそよろしくお願いします」
還暦を前にして、ルリはアヤに心を奪われてしまったのだ。このときアヤは三十八歳だった。
なずな総合病院には敷地内に売店代わりのコンビニと、コの字型の建物にぐるりと囲まれた中庭がある比較的新しい病院だ。
もともとこの場所は別の病院があった。ルリはそこの産科で達夫を産んだのだが、当時は野戦病院のような古くて暗い病院で、生まれたばかりの達夫を抱えてびくびく怯えていた苦い思い出がある。薄緑色の壁に安い蛍光灯がちらちらしているのがえも言えず怖かった。なんとなくその記憶が強くて、小児検診はそれこそ小児科もやっている末高良医師の医院に行っていたほどだ。あまり評判も良くなく、気が付いたら更地になっていた。そしてなずな総合病院として生まれ変わっていた。
だが先述の通りルリも和孝も、そして達夫も病院というものに縁遠かったため、この新しく生まれた病院というものの世話になることはなかったのだ。
はあ、とため息をつく。こんなはずではなかったと思ってしまえば、全てがこんなはずではなかったことだ。病気のことも、夫婦関係のことも……結婚したことも。なんとなく万里子の顔が浮かんだ。ああ、あの頃に帰りたい……なんだか急にどうでもよくなってしまった。帰りのバスと逆方向のバスに乗って街の方に出てしまおうか。もういっそ、新幹線や飛行機にでも乗って、ここではないどこかに旅立ってしまおうか。そういえば、今まで生きてきて飛行機に乗ったことがなかった。でも、飛行機に乗ってどこに行くと言うのだろう。間近に迫る夫の死を前に、自らの人生も儚く思ってしまう。そんなときだった。
「ルリさん」
中庭のベンチに座って遠い目をしていたルリに声をかけたのは、私服姿のアヤだった。白いシャツにデニムパンツ、黒い薄手のカーディガンを羽織った飾り気のない装いが、かえって彼女の魅力を増している気がした。
あ、変なところを見られた。そう思ってルリは顔を強張らせる。本当にアヤの声は万里子に似ていると思う。この懐かしい暖かな声を聴くと、胸の奥が騒めくのだ。
「ま、牧原さん」
「名前、覚えてくださったんですね、嬉しいです」
アヤはそう言ってルリの隣に座った。少し、ドキドキする。いやいや何を考えているのだ。そう思うが、思えば思うほど変に意識してしまっていけない。そんなルリの心境を知らず、夕方五時のチャイムが鳴る。日が伸びてだいぶこの時間になっても明るくなってきた。何か話さなければ。そう思って出てきた言葉は呆れるほど凡庸なそれだった。
「お仕事終わりですか?」
「そうなんです、勤務初日なのでちょっとくたびれちゃいました」
素直にそう言える彼女は、きっといい看護師になるのだろうなと直感的に思った。あまり看護師との触れ合いはないのだが、なんとなく、だ。
「でも皆さんがとても優しいのでほっとしました。私、一般職からの転職組なので、年齢とか……その、気になっちゃって。でも気にしていたのは私だけだったみたいです」
そう笑うアヤがまぶしい。そういえばルリは短大を卒業した後に数年だけ一般企業で事務員をしていたが、結婚してからはずっと専業主婦だった。時折、近所の付き合いで掃除などのボランティアをすることはあったが、引っ込み思案で友人の少ないルリはあまり馴染めないでいる。
アヤもいろいろあってこの仕事を選んだのだろうが、溌溂と働く姿はそんなルリとは真逆だ。
「私も牧原さんみたいな看護師さんがいてくださってほっとしています……夫も私も、病院知らずだったもので……」
「そうなんですね……きっと和孝さんも元気になりますよ。今は頑張りすぎない感じでやっていけたらと思っています。ルリさんが倒れたら大変ですから」
白衣の天使という言葉をあまり実感したことはなかったが、ルリは本当にこの時アヤが天使に見えたのだ。夫のことだけでなく、自分の心配までしてくれるなんて、素晴らしい人だと思った。そんな人を、かつての初恋の人に似ていると言う理由でなんとなく親近感を覚えていたのが少し恥ずかしくなってくる。
「あ、バスが来た。ルリさん、駅前まで行きます?」
「いえ、私は反対方面なんです」
「わかりました。では私はここで!声かけちゃってごめんなさい、また明日!」
「はい、また明日」
アヤはベンチから中庭前のバス停に走っていく。その後ろ姿を眺めながら、ルリはなんとなく胸が締め付けられるような気がした。夕方のほの暗さに染まっていく空の下、少し生温い風に晒されルリだけがバスを待っている。かつての初恋の相手と、これから恋人になる相手、二人の女性の出会いをルリは深層心理でなんとなく察していたのかもしれないが、この時はまだ、なにも知らないただの初老の女性だった。
駅前とは反対方向の……住宅街へ向かうバスがやってきたので、ルリは立ち上がる。バスのライトに照らされ、ルリはふとこう呟いた。
「私、牧原さんに名前を教えたかしら?」
和孝が亡くなる二週間前の話だ。
……アヤはルリに声をかけたことを、その二週間後に後悔することになる。四月下旬の夜半、和孝の容態が急変した。ちょうどその日は入職して二回目の当直だった。慣れない業務の中で、アヤは先輩看護師について回るのでやっとだった。
震える指でカルテの電話番号をなぞりルリと彼女の長男に連絡をしたが、何を話したかは覚えていない。和孝をICUに移送したあとの病室で、アヤはルリの小さな背中に何も言うことができなかった。
回復が見込めない患者の家族に、元気になるなんて簡単に言ってはいけない。そう看護学校で教わったはずなのに、初日でそれを破ってしまった。それの報いのようにいまルリは肩を落としている。一生懸命言葉を探した。だが沈黙は容赦なくアヤを責めた。
アヤにとって会田夫妻は入職日に最初に挨拶をした患者とその家族だ。静かだが仲睦まじそうにしている二人は微笑ましかった。ナースステーションでカルテや情報書の見方を教わっている時に、和孝の詳しい病状を知った。あんなに穏やかな二人がこんな運命を背負うなんて、きっと思ってもいなかっただろう。カルテには家族の歴史も詰まっている。もちろんルリの名前も書いてあった。
なんとなく覚えていたのだ。患者を贔屓してはいけないとわかっていたが、簡単な名前だったし、どうしても脳裏に焼き付いてしまったのだ。まあ、それだけの理由ではないのだが。
……ICUから出てきた担当医がルリと長男の達夫に状況の説明をしている。先輩看護師に連れられてアヤはナースステーションに戻った。珍しくナースコールも鳴らず、目の前の病室のいつも騒いでしまう患者も寝入っているようだった。まるで何かを察しているようだ。
「当直二度目で急変は早い方ですよ」
小柄でくりくりした目の先輩看護師、清水知紗はそう言って労うようにアヤにコーヒーを渡した。彼女はアヤより年下だが、看護師歴十年以上の大先輩だ。確かこの病院ができた時に新卒で入ったと言っていた。可愛らしい見た目とは裏腹に陰では鬼軍曹と呼ばれているらしいが、まだアヤはその所以を知らない。
「でも牧原さんが早めに経験できてよかったです。こういうのって、実習とは全然違いますから」
「そうですね……」
なんとなくぼうっとしてしまう。いかんいかん、そう思って頭をふるっていると、知紗は笑って立ち上がる。
「私、巡視に行ってきます。後でこういう時の記録の書き方を教えますから、まあ休んでいてください」
「……はい……」
普段なら、自分が巡視をすると言うのだろう。でも、立ち上がれなかった。知紗がナースステーションから出ていくのを見送って、アヤは視線を床に落とす。
なんだか、思っていた世界と同じような、違うような、そんな気がする。思い切って飛び出すように会社を辞めて、看護学校に入って、就職活動をして、気が付いたらここにいる。あっという間だった。確かに自分の意思で選び取ったはずの人生だ。順風満帆とは言わないかもしれないがこうして先輩や患者に恵まれている。充実した日々だろう……傍から見れば。だがその実感がない。というか、それがわかるまでに達していないと思う。
はあ、とため息をついた。ただがむしゃらに頑張れば、報われると思っていた。もちろんそんな甘い世界ではないと頭ではわかっていたが、心のどこかで期待していたのかもしれない。そのがむしゃらさがなければ、この年になって全く畑違いの仕事をするために看護学校に入り直すこともなかったのだ。否定はしたくない。患者に寄り添い、看護を通して彼ら彼女らの人生を見た。入職してまだ一か月もたっていないが、まるで人生を何度もやり直したような気分だ。会社員時代の新人とはまた違う世界観の違いに眩暈がしそうになる。
『きっとアヤちゃんはいろんな人を助けられるよ』
何故か看護学校時代にフラれた恋人のことを思い出す。何がいけないのかわからないが、それからアヤは恋人がいない。
「あの……」
聞き覚えのある小さな声がして、アヤははっと顔を上げる。
「あ、会田さん」
「お仕事中ごめんなさい、主人も少し落ち着いたみたいなのですが……長男は明日も仕事だから帰したんですけど、私はちょっと心配なのでここにいてもいいでしょうか」
「ええ、もちろんです……そういえば、談話室にそういうときのための……」
そこでアヤは言い淀んでしまった。ルリの肩が震えている。きっと不安で押しつぶされそうなのだろう。あの若い息子は帰ってしまったと言うし、こういうときに彼女を一人にしていいものだろうか。誰か一人を特別扱いしてはならないと教わってはいる。でもこの場面は……。
「牧原さん?」
「……いえ、ここにいましょう。椅子ありますからこっちへどうぞ」
そう言ってアヤはナースステーションのカウンター横にある扉を開いて、入るようにルリを促した。
「え、でも……」
「大丈夫です。だって、談話室だと一人になっちゃうじゃないですか。私でよければお話聞きます」
そう言うと、ルリは心底ほっとしたような顔をして、アヤの隣に座った。夜勤者用のコーヒーをマグカップに注いで渡す。今はそれしかできない。本当ならばもっといい方法があるのだろう。しかし今のアヤにはこれしかできない。カップを手にしたルリはしばらく黙っていた。アヤも、なんとなくそれを見守っていた。還暦前だと言うのにルリは若い。本人がそれに気が付いているかは別として、まるで少女のような顔をするときがある。先ほどもそうだった。なんだか年上に見えない。守らなければと思わせる何かがある。
ナースステーションの置時計が午前一時を告げる。ルリが少しずつ話し始めたのは、夫婦の思い出話だった。
「……主人とはお見合いでした。二回目の顔合わせではもう結婚の話が出てきたので、あまり互いのことを知らないで結婚したんです。ああ、でも今もそうかもしれないわ……私、あの人のこと何も知らない……」
ルリはどこか遠い顔をして、か細い声でこう言う。
「そのせいか……悲しくないんです……私って、非情なんでしょうか」
そんなこと、ないですよ。
アヤはもちろんそう言うつもりだった。だが、言葉が出てこなかった。非情なはずがないのだ。彼女の話ぶりを伺うにそこには確かに愛情があったはずだ。暗い病院の明るいナースステーションで、二人は黙ってしまった。ひとたび気まずい空気が流れると、それらは無邪気にナースステーションを走り回る。
それをかき消すように向こうから足音が聞こえてきて……振り返るとそこには知紗が目を丸めて立っていた。
「あれ、会田さん?……牧原さん、これはどういうことです?」
「え、いや、その……談話室だと会田さん一人になっちゃうし……」
「どんな理由があっても、個人情報もあるんですから患者さんの家族とはいえステーションに入れてはだめですよ」
理路整然と話す知紗は、間違ってはいないのだろう。彼女は正しい。でも、ルリを一人にできなかったのは事実だ。
「……はい」
そう言って頭を下げていると、知紗はその低くなったアヤの耳元に小声でこう言った。
「でも今回は特別です。むしろよく引き止めてくれました」
「え?」
どうしてか、と問おうとしたその時、内線が入った。