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鈍色の轍

和泉陽

僕は産まれた時、女の子だった。

今は男性として社会生活を送っている。

それ以外は、至って普通に生きている。

 

「ふざけるな!お前じゃ話にならん、責任者を出せっ!」

「大変申し訳ございません…」

よくあるパターンだ。毎日これだけたくさんの電話を受けていたら、中には怒り狂って問い合わせてくる顧客もいる。新人さん達なら尚更、対応のツメが甘くて怒らせてしまうことも多い。なので新人研修の時点でこのような模擬対応は必ず行うようにしている。僕はチャットに書き込んだ。

「巻き込まれず落ち着いて。問い合わせ内容を整理してお伝えし、話を戻してください。」

おろおろした女性の新人オペレーターさんがヘッドセットを押え、怯えた表情でこちらをちらりと見る。僕は安心するように頷き、続きを促した。

「大変申し訳ございません、期日までに安心1週間パックが届かなかったということで…」

僕はチャットモニターを見ながら気持ちと声を怒り狂った顧客に切り替える。

「安心1週間パックじゃない、お試し1週間パックだよ、何度もいってるだろ!お前じゃ話にならんから責任者を呼べと言っているだろう!」

「申し訳ございません…」

これは、ダメだ。萎縮してしまって対応自体が成り立たない。

「お疲れ様です、一度振り返りましょうか。模擬対応とは言え、こういうお客様は気持ちがしんどくなっちゃいますよね。」

「はい…忍さん、迫真の演技で、模擬対応とは思えませんでした。」

そう、チャット越しに指示を出していたのも、模擬対応の顧客役をやっていたのも、僕だ。僕らは高血圧や糖尿病など、なんらかの理由で普通の食事に困難を抱えている方に向けた配食サービスのコールセンターで一次対応をしている。僕はこのコールセンターが立ち上がってからずっとこの仕事に携わり、今では新人教育をする機会も増えてきた。自慢じゃないが、一次対応をしながらチャットでスーパーバイザーとやり取りしつつ、電話対応記録をつけ、かつ他のオペレーターさんの電話対応のサポートが出来るオペレーターは、誰でもできるわけではない。新人教育の際、ひとりで顧客役をしながらチャットで指示を出すということは、スーパーバイザーさん達にも難しい。でも僕は出来る。脳の回路が普通の人は直列回路だけれど、僕のそれは並列回路になっているかのように同時多発的に複数の業務をこなすことが出来た。だからと言って、スーパーバイザーに役職が上がることもなく、相変わらずいちオペレーターのままで、時給も上がらないけれど。

「電話対応はひとりで取っているわけではないので、自分では無理だと感じたらスーパーバイザーに回しちゃって大丈夫ですよ。僕らは悪いことをしているわけじゃないから、必要以上に謝る必要もないし。でもスーパーバイザーに申し送る時にスムーズになるように、お客様が何を求めていて、何に怒っているのか、キャッチできるとだいぶスムーズになるよね。」

「そうですよね、研修でもそう教わったんですけど、実際にやってみると思ってたより怖くて頭まっしろになっちゃって。」

僕にはその感覚がわからない。それは8年間やってきた経験からくるのか、あるいは僕自身が怒りという感情に対して慣れ過ぎているのか、初めて電話を取った時からどんなに怒られても、理不尽なことを言われても、恐怖を感じたり傷ついたりは、しない。僕は僕を育ててくれた人に教わった台詞をそのまま伝える。

「大丈夫、ヘッドセットから包丁は飛んでこないから。それに怒っている人は赤城さん自体に怒っているわけではなくて、起こった出来事やその対応に怒ってるわけだから、冷静に対応すれば何も問題はないよ。」

赤城さん、という20代前半のまだ若いオペレーターさんは少し不安げな表情でメモを取っている。今回の研修は赤城さんひとりだ。同期はいない。少しかわいそうだなと思うが今回は募集自体があまり多くなく、採用されたのは彼女1人だった。そして採用されたオペレーターの半分くらいは半年以内に辞めていく。研修期間は1週間しかなく、独り立ちしてもサポート体制には限界がある。コールセンター内の人間関係も複雑だ。それに耐えられる人しか生き残れないので、せめて僕が担当した人には出来るだけ研修の時点で多くを吸収して欲しいと思う。時計を見やると午前が間もなく終わろうとしていた。窓にかけられたブラインドから漏れる光がオフホワイトに染められた無機質な研修室を照らし、白いテーブルとパソコンモニターに反射していた。それから少しクレームの際に二次対応につなげていく工程をおさらいすると、12時のチャイムが鳴った。

「それではお昼休憩にしますか、午後からは自分のブロックのスーパーバイザーさんと実際に一緒に電話を取ってみることになると思います。僕との模擬対応はよっぽどのことでない限りこれが最後だと思いますが、頑張ってくださいね。応援してます。」

僕が研修で携わるのは基礎的な一次対応と、二次対応に繋げていくための模擬対応だけで、その後の人材育成は各ブロックのスーパーバイザーが行うことになっている。僕の所属する東海ブロックは入電自体が人数に対して少ないのでマンツーマンで指導も出来るが、赤城さんがこれから配属される関東ブロックは入電は多くオペレーターは少ない。人が育たないのは関東ブロックの大きな課題だが、いちオペレーターの僕がそれに対して出来ることはない。せいぜい自分の任された模擬対応を出来るだけ丁寧にやることくらいだ。そんなことを考えながらトイレの前を通ると、12時休憩のシフトの人達で賑わっていた。僕は職場で自分のセクシュアリティをオープンにしている。だからみんなが僕が実は女性なことを知っているし、上司にも相談して、男子トイレも女子トイレも両方使っていいことになっている。しかしそれはどちらも好き勝手に使っていいということではなく、出来るだけ人に合わないように使い分けてほしいという配慮だ。男性として生活しているのだから男子トイレを使うべきだという人も少なからずいる。僕自身もそうすべきではないかと思う時は多々ある。しかしやっぱり納得出来ない。何より不快なのだ。男子トイレを使うということは僕にとって、男性として割り当てられるにも関わらず、全くもって自分が男性ではないことを突きつけられる。そんな理由から僕は大抵休憩時間ではない時か、あるいはセンター近くのコンビニまでわざわざトイレを借りに行く。今日は僕は13時から休憩のシフトであったため、トイレは素通りして東海ブロックの事務所に入る。トイレはお昼休憩の時の買い出しついでに行けばいい。

東海ブロックに戻ると、女性陣が今日も賑やかに仕事をしていた。各エリアごとに事務所は分かれている。最近僕が関東ブロックから異動してきた東海ブロックは、僕以外20代女性しかいないことで有名だ。関東ブロックの男性陣はそんな僕に対して「ハーレム」と呼ぶ。

「忍、お疲れ〜、どうだった?」

東海ブロックのスーパーバイザーを務める梓から声をかけられる。どうだった?とは恐らく今日の新人研修の話だろう。僕は自分の席の椅子を引き、パソコンを立ち上げながら答える。

「どうだろうねぇ、栄養士としては問題ないと思うけど、あとは電話対応への慣れじゃないかなぁ。」

ちなみに僕の苗字は佐藤という。コールセンター内でも佐藤と名がつく者は多く、片手では足りないほどの佐藤が働いているため、前に所属していた関東ブロックでも今いる東海ブロックでも、誰もが僕をファーストネームで呼ぶ。梓は僕より若く、2年前にオペレーターとして入職したが、関東ブロックから東海ブロックに一昨年異動になってからはスーパーバイザーとして働いている。東海ブロックに移る前から一緒に働いていたので、距離感は近いが立場が違う。その時期僕は性別適合手術で1ヶ月近く仕事を休み、戻ってきた時には社内の体制は大きく変わっていた。全てを性別のせいにするつもりはないが、ホルモン治療などで体調を崩しやすく、不定期に休みをもらわなくてはならない僕は出世からは無縁だった。パソコンを開くと僕の担当の顧客からのものやら社内メールやらが溜まっていた。向かい側に座りながら事務処理をする雨宮さんがサンドイッチを頬張りながら口を挟む。最近着ているオータムイエローのハイネックのセーターが東海ブロックをより賑やかにしている気がした。

「忍さんは自尊心が低すぎるんですよ。給与は変わらないのに新人教育やたら回されて。会社に搾取されてると思いますけどね。」

雨宮さんは鋭い。栄養士としても的確だし、電話対応もとても丁寧だ。そしてあらゆることにシビアだ。無駄が少ない。僕は溜まっているメールに次々と目を通しながらそのことについて少し考えてみる。

「どうだろうね、俺みたいに不定期に休む社員を雇い続けてくれるだけでもありがたい話だと思ってるからかなぁ。そんなふうには思ったことないかも。」

「そういうのを無自覚に搾取されてるって言うんだと思いますよ。栄養士としてもオペレーターとしても優秀なのに、スーパーバイザーにもせず研修にだけ使うなんて。梓さんもそう思いませんか?」

梓の返事を待たずして電話が鳴ったのですかさずヘッドセットをして電話を取る。研修を受け持ってしまったせいで今月の受電数がこなせていないため、一本でも多く取りたかった。

「はい、すこやか配食サービスです。」

「あの…すみません、女性の方いらっしゃいますか?」

たまにこういう方から電話が来ることがあった。女性ならではの疾患に対する相談であったり、単に女性の方が話しやすいからという理由の場合もある。しばしの間の後、僕は続けた。

「あぁ…そういうふうに聞こえてしまいましたか…。」

ヘッドセットからは女性とおぼしき方が慌てふためいた様子で

「すみません声が低かったもので、つい男性だと思ってしまって。」

「大丈夫です、よく言われるんですよ。」

僕はにこやかに笑声で答え、そのまま淡々と対応した。ヘッドセットを外すと雨宮さんがこちらを見ながら妙に感心した様子で言った。

「なるほど、そういう手がありましたか。」

「俺は何も言ってないよ。向こうが勝手にそう思っただけで。」

僕の声はホルモン治療で低くなってはいたが、何せ元が女性であるために、そこまで低くはない。顔が見えなければ、どちらとも取れなくはないと自分では思っている。梓が呑気に答える。

「忍はいいね、男の気持ちも女の気持ちもわかって。便利だよねー。」

どうだろう。自分ではあまり便利だと思ったことはないし、産まれた性別と生活する性別は一致しているに越したことはないと思っているが、こうして若い女性ばかりの部署にいてもすぐに馴染めるのは、僕が元々女性だからだろう。そういう意味では便利なのかもしれない。男性として生活することを選択したけれど、僕は女性として生きてきて染みついた文化や、最も母数が多いマイノリティである女性として生きてきた苦労や経験、みたいなものをそれなりに大切にしている。もしシスヘテロ男性として産まれていたら、自分が傲慢だとすら気が付かないほど傲慢な人間になっていたのではないかと思う。もちろん、日々揺れる。だけど産まれた性別は裏切れない、というのが本音だ。

「まぁね、俺はハーフだから。男と女の。」

「ハーフっていうよりダブルって感じじゃない?忍は半分づつっていうより両方持ってるって感じがするなぁ。」

「自分では、どっちにもなれない感じがすごくするけどね。」

こんな話を、僕らはまるで朝の星占いの話をするかのように気軽にする。僕が職場であまりにもセクシュアリティをオープンにしているせいなのか、職場が理解がありみんなが僕をわかろうとしてくれているからなのか、その両方なのかもしれないし、あるいは単純な興味なのかもしれない。でも理由はなんでもよかった。シスヘテロ文化の中で、セクシュアリティをオープンにして生きていく。その中で僕と関わる人がセクシュアリティについて理解をしようと思う。僕自身を知ってもらうことで、その人が次に会ったマイノリティの人に対して、少し優しくなればいいと思う。少し大袈裟かもしれないけど、そういう些細なところから世界は変わっていくと僕は本気で思っている。僕なりの世界に対する抵抗なのかもしれない。

そんなことを考えながら、今日も僕は電話を取る。顔も見えない相手に対して、配食弁当の注文を受けたり、問い合わせに答えたり、あるいは自分の担当の顧客に対して栄養士として食事に対するアドバイスをする。そして休みの日には梓と予定を合わせて僕は体力作りのために、梓はダイエットを目的にジムに行き、家に帰ったら1週間分のおかずを作りおく。それ以上でもそれ以下でもない。僕の暮らしは至ってシンプルだ。ただ、何者にもなれないだけで。

そんなことを考えていると、東海ブロックのドアが勢いよく開いて、春日さんが

「もう、サイテー!」

と、毒づきながら入ってきた。

「どうしました、いきなり?」

雨宮さんが聞くと、

「週末彼氏と旅行行くのに、生理きちゃったんですよーまじ最悪!」

「今ならワンチャン週末までには終わるんじゃないですか?」

「私長いんですよねー、最低でも5日は続くんですよー。量も多いし。もう終わった、って感じです…。」

「あたしピル飲み始めてからすごい楽になったよー。」

開けっ広げな女子トークが繰り広げられる。

…関東ブロックの諸君。もし僕が男性としてきちんと認識されていたら、女性はここまでオープンな会話をしないものだよ。そういうのは、ハーレムとは言わないんじゃないか?

「俺ももう生理上がっちゃったからなぁ。」

「忍さんはいいなぁ、生理なんてこなくていいのにー、別に子供ほしいとか思わないし。」

そういう話に乗っかる僕にも問題があるのだろうか?



 

そうして変わり映えのない毎日を過ごし、週末を迎えた。毎週恒例のジムに行く日だった。窓を開けると綺麗な秋の御空色で、熱を帯びていた空気がすこし冷たくひやりと感じられ、風がツンと尖った匂いがする。僕はこの秋の入口の尖った空気が苦手だった。とても大切な何かを思い出しそうな気がする。それが何なのかはわからないけれど、人生の中で重大な見落としをしているような気がするのだ。少し鬱々とした気持ちでジムにいく準備をする。タオルに上下サックスブルーのジャージにスポーツドリンク。シャワー室は使うことが出来ないので汗拭きシートを持っていく。僕らは郊外にある区民体育館に行っているので、梓が車で迎えにきてくれる。電車で行くには少し不便なところにあるが、区営施設の方が安い。梓が車を出してくれる代わりに、僕が割引チケットを買う。一人では挫折してしまうので、お互いの利害の一致で一緒に通うようになった。以来毎週続いてもうどれくらいになるだろうか。ジムを通して職場では話せない悩みを聞いたり、お互いの個人的な話をするようになった。僕はそんな週末の過ごし方を気に入っている。男性文化にも女性文化にもうまく馴染めない僕にとって、性別問わず付き合える数少ない友人だった。携帯が震え、梓がアパートの下まで着いたことを知らせた。浅葱色のウインドブレーカーにニット帽を目深に被り、玄関を出た。

 

いつものように外履きを靴入れにしまい、その靴入れの鍵とロッカーの鍵を交換してもらいに、僕らは受付に向かう。割引チケットを持っている僕が梓の鍵を預かり、2つの鍵と2つの割引チケットを持って列に並んだ。週末なのでそれなりに混み合っていた。たわいもない話をしながら順番を待ち、受付に鍵を渡すと愛想のいいお姉さんがチケットと鍵を預かり、代わりにロッカーキーを差し出してくる。

…そこには赤い鍵が、2つ並んでいた。僕らは目を合わせ、互いに困惑してしまった。これはどうしたらいいだろう。こんなことは初めてだった。ニット帽を被っていたからだろうか。冬が近づいてきてアウターを着るようになってパス度が下がったのだろうか。僕は別に女子更衣室でも構わない。正直男子更衣室は毎度緊張する。だからといって女子更衣室が安心するわけでもないし、今のパス度で女子更衣室を使うというのもどうなのだろうか。案外人は他人のことなど見ていないものだ。女子更衣室でもいけるんじゃないだろうか。しかし梓はどう思うだろう。僕と同じ更衣室は嫌かもしれない。

わかっている。僕が一言、男です、と言えば解決するのだ。視線を彷徨わせる。2つ並んだ赤い鍵と梓の顔を交互に見る。そのシンプルな一言が、僕にはどうしても言えなかった。僕は男なのだろうか。戸籍上そして身体的にはまるで女性だ。だが社会生活を男性として送っている以上は男ですというべきなのだろうか。というかそんなことは関係ない。今問題なのは、ただのちっぽけな区営体育館のロッカーを、男子ロッカーと女子ロッカーのどちらを使うのかという至ってシンプルな問題だ。別に誰に何を確認される訳でもなく、身分証を求められる訳でもない。たった一言、言えばいいのだ。でもどうしてもその一言が、喉に詰まって出てこない。

「すみません、女子ロッカーひとつと、男子ロッカーひとつでお願いします。」

そうこうしているうちに、梓がはっきりと言った。受付のお姉さんは「大変失礼しました。」と言いながら赤い鍵をひとつ取って青い鍵を出してくれた。起こってしまえばなんてことないことだった。そして梓は、男性ひとりと女性ひとり、とは言わなかった。2つの鍵を取って、僕に青い方を渡してくる。

「ごめん、なんか言わせちゃって。」

「ううん、それは全然いいんだけど、あたしが言っていいのかなとか思って迷っちゃって。いやだったらごめん。」

「いや、助かった。ありがとう。どうしても言えなかった…。」

僕は自分のいくじのなさを責めた。リノリウムの廊下に立ち尽くして自分の足のつま先を見つめた。セールで買った24.5cmの室内用の鶯色のランニングシューズは、レディースだった。

「じゃあ、忍は言わなくていいよ。これからこういうことがあったら、あたしが言うから。」

梓に促されて僕らは赤と青に分かれた更衣室にそれぞれ向かった。

 

それぞれが自分のメニューをひと通りのマシンで筋トレをこなしたあと、ひとやすみして2人で並んでランニングマシンに入った。無酸素運動の後に有酸素運動を入れた方が脂肪の燃焼率が高いと梓が言い張るので、だいたいいつも最後に合流してダラダラと喋りながら走って終わりにしている。メニュー自体をあまりハードにすると、ジムに対してしんどいイメージがついてしまって続かなくなるのでは、という僕からの提案のもと、今の流れに行き着いた。僕は先程の一連の出来事を引きずっていた。マシンの速度を時速6kmに設定して、早歩きくらいの速度から始めることにして隣にいる梓に話しかける。

「さっきのことだけどさ、俺別に女子更衣室でもいいかなって思っちゃったんだよね。でも梓は一緒の更衣室は嫌かな、とか色々考えちゃって。そしたら何も言えなくなって。」

心地よい速度にマシンを整えながら、軽く走りながらも梓は言葉を選んで考えている様子が伺える。淡いサーモンピンクのウインドブレーカーがリズムよく擦れる音がした。

「んー、あたしは別に一緒でも気にならないかな。なんか、男とか女とかっていうより、もう忍は忍だし。でも忍はどっちのほうが楽なんだろう、っていうのは考えてた。」

「自分でもよくわからない…。」

どうして赤と青しか、この世界にはないんだろう。じゃあもし、紫の更衣室があったら、僕は楽になるんだろうか。あるいは、僕自身が赤か青か、明確な性別を持っていないこと自体が苦痛なのだろうか。わからない。わからないけど、性別は赤と青で分かれていて、僕はどっちも選べない。

「なんかさ、忍と一緒にいると、これまで気にしてこなかったたくさんのことが、性別とかジェンダーが関わってくるんだなぁ、って痛感する。あたしが何も考えないでスルー出来ることでも、忍にとってはつらいこととか、考えさせられることが、すごいたくさんあるんだな、って。」

早歩きから軽いジョギングに切り替えてフォームを意識しながら走る。梓はいつも、他者に対して誠実だなと思う。自分が感じたことは曲げずに、そしてなるべく相手を傷つけないように言葉を選ぶようにしているように感じる。それは持って生まれたものなのだろうか、スーパーバイザーとしてオペレーターさん達を指導したり、助言をしていく中で培われたものなのだろうか。

「…ありがとう。」

「えっ、今更?ていうか、いいこと別に言ってない気がするけど。」

2人並んでランニングマシンで走っていると、僕より頭ひとつ分背の高い梓の、赤として生きる上でのコンプレックスを羨ましく思った。せめて男性に混ざっても違和感がないくらいの身長があれば、あんなことは起こらないのだろうか?



 

「あたしさ、自分がスーパーバイザーでいいのかな、ってよく思うんだよね。もう少し現場で電話取っていたかったなっていうか、管理職になってあんまり電話とる機会がなくなって人材育成とか管理に回って。だんだん自分が現場から離れてるのに人にスーパーバイズしてていいのかなとか。」

とある夜の事務所での会話だった。もうみんなは帰っていて、月末処理の仕事を2人で捌いている時の、いつもの他愛もない会話だった。

「なるほど?割と若いうちに管理に回っちゃうとそういうこと思うわけね。」

「周りの友達とかはさ、まだ年齢的に平社員なわけ。あたしだけ気がついたら責任者になってて、まだわかんないこととかいっぱいあるし、経験も浅いしさ。それなのに任されてあたしだって色々迷ったり悩んだり投げ出したくなるのに、あたしは誰に相談したらいいの?って思って苦しくなる時があるんだよね。」

「大変だな、その歳で責任者とか。派遣さんの中には梓より全然歳上の人もいっぱいいるし、そういう人に指導したり物申すのって、言い回しとか考えちゃいそう。」

当たり前の話だが、僕には僕の人生があるように、梓には梓の人生を、それぞれが主人公として生きている。今更ながらそんなことを思った。個々の置かれている状況も違えば、バックグラウンドも違う。僕にとっての当たり前は梓にとってはそうでないかもしれないし、抱えている思いも当然違ってくる。僕にとっての東海ブロックのスーパーバイザーの梓、であると同時に個としての梓を生きているもうひとつの人生を感じる。

「もうフィードバックももらう機会も少なくなったから、自分の感覚がこれでいいのかな、とか、現場での肌感覚みたいなものに自信がなくなる。」

「クレーム対応とかしてるじゃん。」

「それだって、現場にいる忍とか雨宮さんの方がうまい気がする。」

そんな話を、梓は僕によくしていた。僕の方がキャリアも長くて年齢も上で、以前共に働いてた関東ブロックからきたせいもあるかもしれない。僕はいつも聞くしか出来ないが、吐き出す場所がないよりきっといいだろうと思うし、僕は人全般が悩むことに対して興味があった。それは電話をかけてくる顧客にも言えることで、電話の向こう側にいる相手を想像したり、想いを馳せたりしないことにはこの仕事は務まらない。

みんなが帰ってしまった部屋に梓ひとりを残して帰るのは忍びないので僕は急ぎではない事務作業を適当に処理して過ごし、管理業務の雑な仕事を手伝ったりしていた。スーパーバイザーはオペレーターと違って各ブロックの責任者でもあるので、業務量はオペレーターの比ではない。手伝えるものもないではないが、スーパーバイザーにしか出来ない仕事、というのはどうしてやることも出来ない。せいぜい残業に付き合って、日々の大変さを労うことくらいしか、僕には出来なかった。

「今月も無事終わったー!付き合ってくれてありがとう!」

パソコンをシャットダウンして梓が大きく伸びをする。

「なんかさー、あたしこんなに忍に甘えてていいのかな。あたしばっかりいつも助けられてる気がして申し訳なくなるんだよね。」

「お互い様じゃない?俺は普段業務上色々助けてもらってるし。聞くことしか出来ないけどそういう事情もあるんだなってわかってるから対応できる部分もあるから。」

「そういう返しがうまいんだよね。気にしなくていいよって言われても気にするし、迷惑だって言われたらちょっとは傷つくし、真ん中あたりをうまくついてくるよね。なんていうかさ、忍は先入観が少なかったり、評価を全然しない感じがして。フラットに話聞いてくれるし、何話しててもつまらなそうにしてる事がないというか。他者を責めないし。つい話しちゃうし、頼っちゃうよね。」

それぞれ自分のデスクを片付けながら帰り支度をはじめる。いつものたわいもない会話だった。梓はラズベリー色のコートを羽織りながら続けた。

「そういうところが好きなんだけどさ。」

「俺も梓のこと好きだよ。」

「…それってどう言う意味で?」

いつもの他愛もない会話、なはずだった。梓の目が真剣だった。僕は何かを間違えたのを感じた。

「いや、職場の同僚としても、友達としても好きだよ?」

「それだけ?」

…それだけ?答えにつまった。僕だって馬鹿じゃない。梓が何を伝えようとしているのか、感じ取っていた。

「あたしは、忍が好き。ずっと前から、好きだったよ。」

うっすらとは、気付いていた。でも僕は、みないようにしてきた。ずっと梓と一緒に仕事して、遊んで、そうやってやっていきたかった。だけど今梓は、その心地よい関係を、壊そうとしている。僕は、梓と一緒にいる時間が好きだった。だけど…僕は。僕の好き、は、そういう好き、なのだろうか。

「それは…ダメだよ。」

「なんで?」

なんで?そんなの、決まっているだろう。僕は出来るだけ誠実に伝えようと思った。

「気持ちは嬉しいけど、俺たちこれまでうまくやってきたじゃん。それじゃダメなの?それに俺を選ぶってことは結婚とか出産とか、みんなが当たり前に出来ることの可能性がなくなるんだよ?俺を選ばなければ、投げつけられない石だってたくさんある、それに…。」

「そんなのわかってるよ。そばでずっと忍を見てたら、どれだけ苦しんでるかは伝わってくるよ。あたしにはわからないこともあるかもしれないけど、わかろうとすることは出来るし、何かあったらその時一緒に考えていけばいいじゃん。」

「出来ないよそれは。全然梓はわかってない。FtMを選ぶってことを。」

「わかってないのは忍のほうだよ。あたしはFtMを選んだ訳じゃない。忍を選んでるんだよ。忍はどうなの、あたしは忍の気持ちが聞きたい。」

「それは…。」

言葉に詰まった。

僕の気持ち。これまで諦めてきた、色々なこと。

僕の人生。普通の人が当たり前に出来ることが、僕には出来ない。そんな人生に、梓を巻き込むことは出来ない。なんで梓にはそれがわからないんだろう。

「逃げないでよ。忍は自分の気持ちに向き合うのが怖いだけじゃん。男だとか女だとか、そうじゃないとか、関係ない。なんでも性別のせいにしないで。」

心臓を貫かれたような激しい痛みが走った。梓はそれだけ言うと、真っ直ぐ僕の目をとらえて、そして事務所を出ていった。後に残された僕は、ただ立ち尽くして痛みに耐えていた。

 

次の日事務所に出社すると、今まで見たこともないような不機嫌な梓が自分の席で黙々と仕事をしていた。赤く腫れたまぶたが、場の空気を凍らせていた。おはよう、と挨拶をしても、梓は返事もしてくれなかった。誰も何も言わなかった。たまりかねて僕はチャットで雨宮さんにダイレクトメッセージを送った。

“なにこの雰囲気、なんとかして!”

“忍さんにしかどうにも出来ないと思いますよ。私がなんとかしてほしいくらいです”

雨宮さんは冷たかった。そのまま冷たい空気の中、午前中いっぱい事務所で黙々と電話を取り続けた。

僕は昼休みに雨宮さんをセンター近くのカフェに誘った。意外にも雨宮さんは誘いに対して嫌な顔ひとつせずに誘いに乗ってくれた。会社の近くのカフェは昼休みなだけあって沢山の人で賑わい、食器の擦れる音や人々の話し声でごった返していた。ようやく取れた席で、雨宮さんはジェノベーゼとアイスティー、僕はアイスコーヒーだけ頼んでことの顛末を説明した。

「昨日聞きましたけどね。梓さんから。」

「やっぱり。なんて言ってた?」

「フラれた、とのことです。」

淡々とした無駄のない口調で返される。梓と雨宮さんは仲がいい。おそらく昨夜のうちに相談されていたのだろう。

「俺何も言ってないけど!?」

「私からしたら、告白されて何も言わないとか、死罪に値しますけど。」

「死罪って…俺はただ、ヘテロシス男性なんて他にいくらでもいるでしょ。」

「やっぱり死罪ですね。失礼すぎます。」

「だから何が?」

「本気で言ってるんですか?」

雨宮さんがアイスティーを片手に容赦ない視線を浴びせてくる。

「忍さんは自尊心が低すぎるんですよ。だから仕事でも搾取される。人に気持ちを伝えられても正面から受け止められない。相手のためを思って身をひいたつもりでも、結局相手に責任押し付けてるだけじゃないですか。」

「自尊心って、前にも言ってたよね。」

僕は何も言えなかった。梓の言葉が蘇る。

“性別のせいにしないで。”

「忍さんはどう思ってるんですか、それが全てだと思いますけど。」


 

僕の想い。僕の人生。思えば産まれた時からとてもたくさんのことを諦めてきた気がする。赤いランドセルに絶望して、嫌々制服のスカートを履き、女の子として生きた日々。トランスしてからも突きつけられる本当には男性になんてなれない現実。周囲からの眼差し。育ってきた文化の違い。苦労した就職。必死で取った栄養士という資格も、面接でのスーツもナチュラルメイクも嫌で電話対応ですむ今の仕事に行き着いた。ダイバーシティと叫ばれているが、まだまだ世間では好奇の的だ。そもそも世界がダイバーシティと叫ぼうと、僕が僕自身を受け入れられなかったらなんの意味もない。結局自分からも、自分の身体からも逃げられない。それでも僕は自分にも他者にも出来るだけ誠実であろうとした。そしてそれが8年かけて少しづつ周囲にも認められ、今この形に行き着いた。でも僕はじゃあ本当に他者に、梓に誠実に向き合ってきただろうか。自分の選択や決断に対して、きちんと向かい合ってきただろうか。目を逸らして誤魔化してきただけなんじゃないか。そもそも誰かを好きになる資格が、僕にはあるんだろうか。あの日梓に言ったことは嘘ではない。僕を選ぶことによって不利益を被る可能性は、充分にある。だがそれは、僕が梓の想いに対して断る理由にはならない。さすがにそれはわかっている。でも気持ちの整理がつかない。友達はずっと友達でいられる。だけど付き合ってしまったらいつか終わりが来る。僕は梓とずっと心地よい関係でありたかった。大事な人だから、一生一緒にいたかった。人はそれを恋と呼ぶのだろうか。

悩みに悩んだ挙句、僕は梓に電話をかけた。

「今、大丈夫?」

「今何時だと思ってるの?」

「ごめん。」

「何に対して?」

「今まで色々と。」

「で、…何?」

間が怖かった。

「…俺は自分も、自分の気持ちもよくわからない。」

「忍は忍だよ。男だとか、女だとかじゃなくて、もうあたしには忍は忍でしかない。」

言葉に詰まった。それでも受け取った想いは、紡いで返さなければならない。

「俺は産まれた時は女の子だった。でも今は男として社会生活を送っている。仕事は配食サービスの栄養士としてオペレーターをしてる。勤続8年にもなるのに体が弱くて未だにスーパーバイザーにもなれない。いつもいつも、右にも左にも行けなくて、まるで中央分離帯の上を歩いてるみたいだ。俺は何者なんだ?いっつも考えてる。どちらでもあるし、どちらにもなれない。男であろうとすると、人は誰よりも男らしさを求めてくるし、今更もう女として生きることなんてできない。俺は俺にしかなれなくて、他の誰かにもなれなくて、男にも女にもなれなくて、結局自分以外の何者にもなれないんだ。」

「みんなそうじゃない?どんなに頑張ってもあたしだってあたしにしかなれないし。自分からは逃げられないよ。」

「いいから聞けよ。」

僕は続けた。

「でも俺は佐藤忍だし、梓は小泉梓だ。性別なんてただの記号だと思いながら、一番性別に囚われてるのは本当は俺自身なんだと思う。できる限り誠実に生きていきたいと思うし、俺は俺にしかなれないけど、赤にも青にもなれないことが苦しい。赤と青以外の色を、この世界に生み出してみせると思ってなんとかここまでやってきた。男でも女でもなくて、俺をみろよ、って思ってずっと戦ってきたし、わかってもらうためにわかろうともしてきた。実際にそうしてきたから今の職場がある。でも外の世界に出たら、そうじゃないこともたくさんあるんだ。今は安全な場所で生きてられるけど、これから先ずっとそういられるかどうかなんてわからない。そういうゴタゴタに、梓を巻き込みたくないのも嘘じゃない。でも俺は…もしこれから生きていく中で、何者にもなれなくても、迷ったり悩んだり今と違う場所で生きて行かなきゃいけなくなったとしても。その時隣にいてくれるのは、梓がいいんだ。付き合うとか付き合わないとか、正直よくわからない。人の気持ちなんて変わるし、関係性が変わることで俺たちの今までが変わるのが怖いのかもしれない。ただ俺は、これからもずっと梓と同じ時間を共有していきたい。それしか今は言えない。」

ここまで一気に喋って、僕は自分の気持ちにようやく気がついた。僕は単に、梓を失いたくないのだ。それほど僕の中で梓という存在が、大きくなっている。そういうシンプルな話だった。

「今ここで、忍が自分らしくあれる場所を築いてこれたんだから、きっとこの先どこに行っても忍はきっと自分を貫くんだと思う。というかきっと、誤魔化したり、器用にうまくやれないからこそ苦しいんだろうなとも思う。だからこそあたしはその時も忍の隣にいたいと思うし、もっと色々話してほしいし、頼ってくれればいいのにと思う。これから先、どういう2人になっていくのかも含めて、一緒に考えていけばいいじゃん。付き合って結婚してとかだけが全てじゃないし。でもここから先は電話じゃなくてちゃんと向かい合って話したいんだけど。」

「今からそっちに行ってもいい?」

「遅すぎるよ。あたしは何年もずっと待ってたのに。でもまぁ、今更1時間や2時間くらい、待てなくはないよ。なるべく早くきてよね。それでもう、絶対に逃げないで。」

電話を切ると、僕は鈍色のネックウォーマーを被り、バイクのキーをポケットに入れた。冬になると雪が積もるこの街では、おそらく今年最後の運転を、好きな人を目指して走り出した。

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