スカートが嫌いでも

アオ

「メイクぐらいちゃんとしなよ」

 と言われ、私は曖昧に笑い「そうだね」「あぁ」といったことを言ったのだと思う。内心、うっせえと思ったが勿論言いはしない。

私はメイクをしない理由を説明する義理もないだろう。

「大学主催の就活セミナー会場でそんなことをわざとらしく言うなよ。煩わしい」と私は心の中で言った。人を傷つける言葉は弾丸と同じ、人の心から血を噴出させる。それを理解しない人間は嫌いだ。鬱陶しい。

「ねー」

と賛同を求めるように、私を挟んだ先の生徒にその生徒が言う。それを受けてこいつ、嫌いだなと私は思う。私は割と好き嫌いがはっきりとしている方で、嫌いのレッテルを貼ったものは『嫌い』というプレートの貼られた部屋に入れたまま出さない。

さりげない風を装って言いたいことを言えばいいと思っているスタンスも、笑えばすべて誤魔化すことができるだろうという考えも、私の嫌うところでしかない。好きだの嫌いだの、白黒つけない方が気楽に考えることができるのだろう。そしてもっと視野を広げることができるのだろう。それでも、『一度でも自分を軽んじた人間』というラベリングを行うために、この思考方法に落ち着いた。これが良いか悪いかは、賛否両論あるだろうがこれでいいと思っている、今のところは。

「自分の好きな物と嫌いなものをリストアップしてみましょう、だって」

「なんで?」

 という会話を前の席に座るギターケースを抱えた生徒が行っている。

 私はメイクが好きではない、と会話を聞きながら思う。それの何が悪いのだろう。

珈琲が嫌いで紅茶が好き、犬は嫌いで虫は好き、そんな人間がいるように。それの何が悪いんだ、と思うところが『普通と違う』ところらしい。

私の周りの人間の言によれば、『普通』の人間は『普通』に関して追求しないらしい。人間は他の人間の異なるところが気になる生き物だ、それでもって同じであるところには焦点をなかなか当てない。例えるならば、人間は他の哺乳類が全身毛に覆われていることに言及しても、頭部をはじめとする全身の一部にしか毛の生えていない『人間』については奇妙だなんて言わない。同性愛にひどい言葉をかけることがあっても、異性愛にひどい言葉をかける人はそうそういない。人は一つの視点しか、往々にして持てない。世界は単純にして、残酷だ。悶々とそんなことを考えていると、

「そのコーラルピンクのアイシャドウ可愛いね、どこの?」

  と隣席の生徒が私を挟んで、別の生徒に話しかける。

「キャンディーメイクのやつ、新作なの。インセタで今話題になってて」

  二人はたわいもない、言ってしまえば不必要な話題を貪り始めた。この会話に『空気を読んで加わるか、楽しそうに相槌を打つのがコミュニケーションを取る』ということだと先日バイト先で言われた。正直、面倒くさいし、そんなのでコミュニケーションを語るなと思った。しかしバイトの先輩たる男は、反論すると長いので私は適当に返事をした。

そして今、会話に口を挟まずに手元を見つめているわけだ。

クソまじめだと言われるのはわかっているのだが、就活セミナーのパンフレットにはしっかりと目を通したい。一時の雑談で将来を決める就職活動に影を落としたくはない。

「ここのファンデがすごい透明感出してくれるの」

「あ、本当だ。全然違うね」

 などと会話をしているので、持っている下敷きをその整髪料の香り漂う頭に投げつけたくなるが、奥歯を噛み締めてこらえた。

「じゃかましいわ、黙らんかい」

と心の中で叫ぶ。

そもそも人を挟んで話をするな、と言いたいものの声を荒げると角が立つので私は口を引き結ぶ。この二人は友人、そうでなくてもそれに近しい関係、なのだから、私に席を譲れとでも思っているのかもしれない。

だが席が少ないのだから友人の隣に座れないのは当たり前だし、私が来た後にもう一人は来たのだ。それに私が今席を譲ったとして、交換された席には不快感から座らないだろう。ならば私はこの満席状態の教室であぶれることになる。そんな話があるか、と思うから私は席を立たない。と考えている間、

「性格、ってどんなこと書けばいいかね。俺ってどんな奴?」

 と自分で紙に書いてまとめればいいことを、前に座るやつが他人に押し付けていた。

しかし性格か、と明朝体で書かれた文字を眺めながら暫し考える。『どうでもいいことすら、あれこれと考え真綿で首を絞めるような思考をする人間』である。ストレスを自分の中でじりじりと炙るようなことはやめようと思っているのに、気づいたら考えてしまっている。

『考えすぎる』ことについて考えすぎていることに気づき、苛々として頭を掻く。私の髪は細心の注意を払って整えられたりはしていないので、ガリガリと掻いても何の問題はない。頭も毎日洗っている。仕草に品はないだろうが、と考えていたところに、

「裕は休日何してるの?」

 隣席の生徒があくまで社交辞令、といった口調で尋ねてきたので「ずっと寝ているかな」とだけ返した。本当は小さなノートパソコンに張り付いて、映画を五本ぐらい観ている。正直にあれこれ言う必要はない。このタイプの質問に真面目に答えると、

「お前が尋ねてきたじゃ、もっと真剣に聞けやい」

という言葉を飲み込む苦労が必要になる。面倒くさい、腹立たしい、鬱陶しい、放っておいてほしい。

 と考えていたところで、

「それでは時間になりましたので、就活セミナーを始めます」

 清潔感の漂うスーツを身に纏った細身の人物が告げる。しかし会場は微かに騒めいている。前方はともかく、後方の集団が喧しい。ああ、『腐った林檎』とはよく言ったものである。

「それでは皆さん、手元にパンフレットはありますでしょうか。ない方は手を上げてください」

 とその人は慣れた様子でアナウンスを行う。昼下がりの階段教室の端の方に私はいる。そのため、黒板の文字は角度によって見えづらいし、高い声は所々上手く聞き取れない。

 空調の悪い部屋、耳障りなハウリング、灰色がかった安い紙で作られたパンフレット、人いきれの放つ独特の異臭、眠気覚ましとして飲んだ珈琲の後味。

 あぁ、こんなにも人間生活は煩わしい。映画の中でなら愛せるのに、現実は全然愛せない。

 

 

 

「そういえば裕がゼミの討論会で着ていたスーツ、パンツスーツだったっけ」

「そうだけど」

 なんでそんなこと一々覚えてるんだ、と思いながら目の端でそちらを見やる。きっちりと編み込まれた髪束を指で弄りながら澤村は

「面接のときはスカートの方が受けが良いって書いてあったから、思い出してさ」

 と言って忌々しい就活パンフレットを取り出した。私はジーンズのポケットに両手を突っ込みながら、椅子に乗せていた尻の位置を背もたれに近づけた。

「澤村サンもこのセミナー行ってたんだ」

「うん、だってタダだもん。大学関係のものは安かったり、無料だったりするから、チェックしてるんだ」

 薄暗い蛍光灯の下で、澤村の着ている紺色のジャケットは真っ黒に見える。

「それで一緒にスーツ買いに行きたいなって思って、声かけたんだ」

それを聞いて、

「え、そんなの一人で買いに行けばいいやん? はじめておつかいに、行くわけじゃないんじゃし」

と言いかけたが我慢した。なんでも口に出せばいいというわけではないからだ。素直と頑固は違うものだし、気が強いのと人を傷つけるのも別物だ。混同している奴が多すぎるだけであって。

ポケットの中で手を閉じたり開いたりしながら、

「今持っているので就活するつもりだから。スーツって高いし」

 と当たり障りのない答えを言った。だが澤村は、

「でもスカートにした方が採用されやすいならさ、どっちを採用しようかなって時にスカート履いてたら有利じゃない? それに大学の生協で半額セールしてるんだよ」

 と追撃をしてきた。

「知るかそんなもん、スカート履いてないからって落とすような会社なんぞこちらから願い下げじゃ」

と言いたいのをぐっと堪えて、

「今結構カツカツで」

 とウケのよさそうな言葉を返し、曖昧に微笑んでみせたが、

「えぇー、一緒に行こうよ」

 と食い下がられた。私は他人のために無為な時間を過ごしたくない。さして仲が良いわけでもない私を誘うのではなく別の人を誘えばいいのにと思いつつ、

「スカートが苦手で」

 と私はつい本音を口にしてしまった。

「スカートが苦手なんて小学生みたいだね」

 澤村は悪意のない顔でそんなことを言い放つ。澤村の放つ言葉の弾丸が私の感情を強く揺さぶった。

あぁ、だから他人と話すのは嫌いなんだ。価値観の違いだけで、どうしてこうも傷つけられればならないのだろう?こうも撃たれてばかりだと、私ばかり損をしているような気持ちになる。苛立って、反論をしようとしたところで教授が教室に入ってきた。私は投げつけようとした言葉を飲み下しながら、ポケットの中で手をきつく握りしめた。

 

 

 

「あーんな、腹巻を引き延ばしたような防御力の低い布切れ一枚で歩けって言うんか? 嫌やで。風が吹けば終わりじゃてあんなん」

と心の中で言いながら、生協で買ったコーヒー牛乳とパンをレジ袋に詰める。『スーツ一式購入で三万円』『期間限定セール実施中』と書かれた安っぽい黄色の紙が店内に所狭しと貼り付けられている。ちらりと中を覗いてみたところ、桃の半分を剝き出しにした女の子達が何かを話しながらスーツを見ていた。

「このスカート、スリットが入ってて可愛い」

「タイトな感じも良いね、お洒落」

私は捻くれているから、それを見ながらスカートは嫌いだと改めて思った。

確かにスカートの方が可愛いという意見がある。しかしそれはスカートというものが女性の身に着けるものというイメージから、女性的な装いをしていることに対する評価ではないだろうか。

某国の男性が伝統的に着ていた正装でスカート風の衣装がある。下着を着用せずに身に纏い、腰にベルトを締め前にバッグをかけ、長剣を携えるものがある。それをその国に行き、一般的な日本人男性に着てもらったとして、多くの日本人は何と言うのだろう。

「そいでよスカートを履くにしても、露出があった方が可愛いとかいう話も聞いたんや。より肌を見せる=可愛いと感じる理由って何じゃて? 前、埋田をブラジャーより少ない布面積の服を着た人が歩いてたけど、あれが最高に可愛いことっていうとそれはまた全然違うんやろ? はー、分からん!」

と心の中で叫んでから、中庭にあるベンチに腰掛けた。はぁ、人間の不文律マジで難しすぎだろうと思いながらパンを取り出す。生協で毎朝焼かれるコロッケパンとメロンパンは安い割に美味しいと思い、毎日買っている。だがいつも同じものを食べていると笑われるし、

「男の子みたいなものが好きなんだね」

などと言われるのが嫌でこうして一人で食べている。

そもそも女の子みたいな食べ物、男の子みたいな食べ物とはなんだろう?人が酒を多く飲もうが、甘いものが好きだろうが、辛いものが好きだろうが、そんなの個人の嗜好であって、性別なんぞ関係ないと思うのだけれども。そこまで考えたところで、なんか息苦しいなという言葉が脳裏に浮かんだ。

メイク、スカート、ヒール、どれもあまり好きになれない。どれも肌触りが悪かったり、居心地が悪くて落ち着かない。好きじゃ、ない。

嗜好における好き嫌いであれば、世間の目による追及の手はそこまで厳しいものではないだろう。犬が嫌いであろうと好きであろうと、その人の能力にはさして影響を与えることが少ないからだ。犬嫌いのメダリスト、蟷螂好きのノーベル文学賞受賞者、彼らをそういった好き嫌いでもって弾劾する輩を見かける機会は殆どないだろう。

だがメイクは特に違う。TPOと密接にかかわるからだ。年齢制限などはないものの、一定の年齢を越えた時から、メイクをすることが求められるようになる。だがその年齢というのもまちまちだ。それは当人がメイクに興味を持つ時期であったり、親が「必要ない」「不必要に色気づいている」などと言い難色を示すことがあるからだ。こういったみんな知ってる不文律と言うのが一番腹立たしい。法律でも作れ、煩わしい。

こうやって色々考える余地が出ることは学問的に優れたものを生むだろう。しかし「色気づいてる」と心無い言葉をかけられたかと思えば、「芋みたいだからメイクしなよ」と別の相手から突然言われる私みたいな人間もいる。決めてくれればこのような不必要な諍いも減るのではないかと思うからだ。異論は認める。

それはそうとして芋みたい、というのは本当に余計な一言だと思う。

そこまで思考を巡らせたところで、

「あぁ、また考えすぎじゃ。考えすぎて、たいぎい」

と心の中で呟いた。どうして私の頭の中はこんなにも騒がしいのだろう。本当、嫌になる。奥歯を噛み締めながら私は薄い基盤を取り出して、SNSアプリを起動させて『映画』というワードを打ち込んだ。

偏屈が二本足で歩いているような私の好むものの一つが、映画鑑賞である。かくいう私は映画鑑賞が好きで、現在専攻している勉強に映画を絡めた授業を三回も受講したぐらいである。映画鑑賞の何が良いって、人間をはじめとする動きで世界が完成しているところだと思う。絵と音楽が映画上の中を滑り出し、人の上で跳んだり跳ねたりして、感情に波紋を広げていく。

自分自身が揺さぶられるのも好きだけど、他人の波紋を見るのはとても楽しい。普段、うんざりしている価値観の違いについて、この時だけは許せる。価値観の違いに基づく、一つの映像に対する多様な考え方は世界の見方を広げてくれるような気がする。まぁ、実際に世界が良い方に変わってくれるわけではない。ただの現実逃避と言うのかもしれない。

それでも夢を見ることは人間に不可欠だ。

 

 

 

 サンザシの花が講義室の窓の外で咲いていた。それを私はだたっぴろい空き教室の中から見ていた。教授の臨時休講により暇になってしまい、適当な空き教室に入って復習をしていたのである。

一時間程度にわたり教科書を読んでいたが、集中力が切れたので外を見やったところ白い花が咲いていた。何の花だったかとしばらく考えた後に、サンザシの花だと思い出した。

小ぶりな白い花を眺めながら、サンザシの実って食べられたっけ?とぼんやりと思考を巡らせていると突然後ろから

「裕の着ている服ってカッコイイ服が多いよね。ボーイッシュな感じ。可愛い系の服着ないの?」

 と言われた。声のした方に顔を向けると、黒髪にラフなTシャツを着た人物が立っていた。正直、名前を憶えていない。とはいえ「誰だ?」と言うのも失礼に当たるので、それを気取られないように薄い笑みを浮かべて相槌を打っておいた。

「そうですか」

「どこで服買ってるの? 古着屋?」

 大学の近くにある安さが売りのチェーン店で最近買ったものなのだが、そんなに古びて見えるのだろうか。それとも私が服を着ると、どれもボロのように見えるということなのだろうか。そういう風に考えた私は返答するのが煩わしくなり、

「覚えていないですね」

 とだけ言った。すると素っ頓狂な声を上げて、

「え、自分の買った服なのに?」

と互いに詳しい素性も知らない程度の付き合いの人間にこんなことを言われる筋合いはないのではないだろうか。親しげに話せば何を話しても怒らないだろう、だなんて勘違いも甚だしい。私は鬱陶しさから、

「はい、私は頭が悪いもので」

 と言い放って、席を立った。鞄の中に広げていた教科書を押し込んで部屋を後にする。カリカリしながら薄暗い廊下を歩いて、講義棟の外を目指す。先ほどの会話を反芻しながら、「私が何着ようが勝手だろ、だほ」

と私は心の中で叫んだ。

だってモデルみたいにスタイルがいいわけでは全然ない。大した見た目はしていないし、地味であることに徹していたい。お洒落になんて興味ない。『お洒落』でないことで損をするのも、『お洒落』するために服等を購入するのも、自分なので他人が口を出さないでほしい。自分の価値観を押し付けて悦に浸らないでほしい。私だってTPOに即さないものであるとか、風呂に入らず体臭をまき散らすとか、そういうことはしていないのだから。

そう反論すると偏屈であると評価される。「だまらっしゃい」と機嫌の悪い時には叫びだしそうになる。確かに他人と違う考え方ではあるし、『小綺麗さ』『華やかさ』そこまで踏まえた上で、年齢に合わせた振る舞いが必要であるという考えもあるのだろう。いや、グダグダ言う人間は口先だけのことも多いから、適当に言っているだけかもしれないな。

で、もってこういう考え方をしていると『偉そう』『何様』『世間のことが分かってない』とかいう輩に指摘される。『言葉狩り』の時代は面倒くさいものであると思う。

しかし『そのままだと碌な人間になれない』だなんて言わなきゃいけない人も、言われる人も可哀そうだ。穏やかに、いがみ合うことなく、生きることは何故こうも難しい?生きているだけで銃創だらけになってしまう。

やるせない思いを抱えながら、どこに行こうかなと考える。暫く暇だが、昼下がりだと図書館も人が多いので座る場所がないかもしれない。今の気分を踏まえて、人の少ない静かな場所に行きたい。人に話しかけられたくない。帰ることが出来ればいいのかもしれないが、二時間後に授業があるために自宅に帰るのは避けたい。こんな気分で家に帰ったら、絶対授業に出ないと思われるためである。

行く場所を探し求めながら、生きづらいと思った。この生きづらさは性別に関すること、と言えるのだろうか?それとはまた違うことなのだろうか。悶々としていると『院生棟』と書かれた建物が目に付いた。正面玄関の前に急な階段がある古い建物だ。この学校が出来た当時からあった建物ではなかっただろうか。幽霊が出そうな雰囲気がある。

そしてそこに眼鏡をかけ、黒色のジャージを着た人物が大量の書物を抱えて入ろうとしていた。顔が隠れるほど本を積んでいるため、顔を横に傾けて視界を確保しているような状態である。院生なのだろうか、あの量の書物をあの階段でよく運べるものだと感心しているとその人は階段の縁に足を引っかけた。

「あ」

 とその人は言うと、バランスを崩した。そしてドサドサドサッという音と共に、書物が階段に散らばった。私は咄嗟に駆け寄って、

「大丈夫ですか」

 と言いながら、尻もちをついているその人に手を差し伸べた。私は屁理屈ばかりこねる人間であるが、別に困っている人間を横目で見過ごすほど薄情ではない。

「え、ああ、すんません」

 と言いながらその人は手を取り、体を起こしたがすぐに顔を顰めた。そしてふらついたその人の体を私が慌てて支えた。

「も、申し訳ない。なんか足、捻ってもうたんかな。痛うてあかん」

 私はその人に肩を貸した状態で、散らばった本を目で確認した。この人を送り届けるのが先なのだろうけど、大量の本をここに置いておくわけにはいかない。どうしたものかと考えていたところ、

「俺のことはええから、一応自力で立てはするし」

 と言い、私の肩を押してその人は一人で立った。

「でもフラフラじゃないですか」

 立っている様を見て、私が指摘すると、

「そうなんやけど」

 とその人は困った顔をした。見ていられなくて再度肩を貸したが、今度は私の肩を押し返さなかった。さて、どうしたものかと考えあぐねていると、

「あれ、トクさん。どーしたんすか?」

 という声が背後からした。振り返ると十センチはあろうかという厚底ブーツに、赤い髪が特徴的な人が立っていた。十人すれ違ったら、九人は振り返るだろう。

「いや、本を落としてしまってね。その時に、足もひねったみたいで」

 それを聞くと、その人物はこってりと盛ったまつ毛をバサバサと動かしながら

「もー、何してんすか。どうせトクさんのことだから、本を一気に運ぼうとしたんでしょ?危ないから、小分けにして運べって言うたやないですか」

 と言いながら本を拾いはじめた。

「ごめーん」

 と間延びした声でトクさん、と呼ばれた人は謝った。

「そんでトクさん、その子は?」

 顎まであろうかという長い前髪の間から、私の方を見やりつつ赤髪は尋ねた。

「こけた俺に肩貸してくれてんの」

「あら、それは。すんません」

 と一九〇センチはあろうかという長身で頭をその人は下げた。腰付近まである髪も靡き、中々迫力がある。

「あたしは見ての通り身長が高くて肩は貸せへんから。悪いけど、肩貸してやったまま院生室まで来てもらってかまへん?ほんま悪いねんけど、院生室にも人が今おらへんくて」

 申し訳なさそうにその人物は片手で謝るジェスチャーをした。

「別にそれはいいんですが、行くの救護室とかじゃなくていいんですか?」

「今、十七時前なんよ。あそこ十七時までやから、今から言ったら救護室閉まってまうねん。院生室は一応救急箱あるし。言うてほんま応急処置程度のことしかできへんけど。何もせんより大分ましやと思うし。明日、救護室にちゃんと行ってくださいよ。朝九時には看護師さんとお医者さん来はってたと思いますけど、自分でちゃんと時間も調べてくださいね」

 赤髪はテキパキと本を拾い集めながらそう言った。

「救急箱あったっけ?」

「あたしが持ってきたんすよ、誰かさんの怪我が多いから。この前、そこから絆創膏出したやないですか」

 肩を竦める赤髪に、

「そうだっけ」

 とキョトリとした目を瞬かせながらトクさんは言った。

「もー、トクさんたら。いや、学部生の子ほんま堪忍な」

 寸分の隙も無いメイクをした赤髪は謝った。私は圧倒されて「いえ」としか言えなかった。赤髪を先頭に私達は院生棟に入っていく。院生という、今まで関わったとこのない人と立ち入ったことのない場所にいる、ということで私は内心かなり緊張していた。棟内が薄暗く物陰に何が潜んでいてもおかしくないような古い建物である、ということも私の神経を刺激した。

 しかし薄暗い廊下を抜けて赤髪が開いた扉の先には、小綺麗なオフィスのようにパソコンと机が並べられた空間があった。ただ所々、本と大量の紙が積んであった。その山の間を抜け、赤髪は椅子を引っ張ってきた。私はそれにトクさんを座らせる。

「すんません、助かりました」

 安っぽい事務椅子に深く腰かけたながら、トクさんは言った。

「ほんま、ありがとうね。助かったわ」

 と赤髪も本を手際よく片付けながら言った。

「いいえ、大したことでは」

 と私は言ってから、

「それでは私はここで」

と断って、その場を立ち去ろうとしたのだが、

「トクさんと地道さん、二人分の珈琲淹れたから飲んでいったら?」

 赤髪が紙カップを差し出しながらそう言った。ここで無下に断るわけにもいかないだろう。こういう気遣い、好きじゃないのだけれどと思いながら私は勧められた椅子に腰かける。自分が部外者になる瞬間というのは嫌いだ。いつだっていたたまれなくなる。

「あたし三住、今は修士課程の一年生」

 赤髪はクッキーの入った赤い箱を開けながら言った。それを私達に無言で差し出した。それを受け取りながら、

「俺は中江篤介。修士課程の二年」

 中江は言い、私もクッキーを受け取りつつ簡単な自己紹介をした後で、

「二人とも、将来は教授になられたりするんですか?」

 と場を持たせるために尋ねた。こういう状況で誰も喋っていないというシチュエーションが私は嫌いなのだ。だって緊張するから。それを受けて三住はクッキーを食べながら、

「学部生の子はそう思ってる子、多いよな。でもちゃうで、ここの院はあたしみたいに修士を二年で終わったら就職しようと思ってる人が殆ど」

 と言った。クッキーに刺さらないのが不思議なほど、長い爪にはスパンコールが貼ってある。

「そうそう。俺みたいに博士課程に行こうと考える人の方が少ないかな」

「ここの博士課程に入るのかなりきついって言うのもある。英語と日本語以外にもう一つ得意な言語を駆使して、論文を書く能力が欲しいって言われるもんね」

 聞いているだけで雲の上を眺めているような気持ちになる。私の実力では到底入ることはかなわないだろう。

「すごいですね。なら学部生の時、勉強も相当されてたんですね」

 と言うと三住は首を傾げて、

「そりゃ、本は読まな書けへんから読むけど。勉強かー、院に入る時は多少したかねぇ? トクさんは?」

 中江に話を振った。

「俺は全然。学部の頃は勉強しなくて、本屋に入りびたってた。以前は工学を専攻してたんだけど、面白く感じなくて授業サボってたよ」

 恥ずかしそうに笑いながら中江は言い、三住はそれを聞き歯を見せて笑いながら

「あたしら、そんなにガツガツは勉強してないもの同士か。すまんな、不真面目な先輩で」

 とあっけらかんと言った。口ではそう言いながら勉強しているというやつだろう、と私は思いながら珈琲を啜った。結構、薄い。

「地道さんは院に行こうとか考えてるの?」

 長い足を組みながら三住は尋ねた。小さな椅子に腰かけているので、窮屈そうに見える。

「いえ、私は映画ばかり観ているような人間なので、勉強は」

 と私が言うと、

「映画?映画といえば、そういやこの前有名なアメリカのシリーズ作が日本に上陸した話聞いたわ。それもう見たん?」

 三住は身を乗り出して尋ねてきた。

「はい、あれはシリーズ全作品見ています。シネマコンプレックスで上映されているものは勿論、ミニシアターにも足を運んでいます」

 面接みたいだな、と内心苦笑しながら私は答えた。三住は感嘆の溜息を洩らしながら更に尋ねる。

「そんなに映画を観る人はうちの学校やと佐曽利教授ぐらいやと思ってたけど。月に何本観るん?」

「月に三十本は見ますかね。土日は勿論、平日も観ますし」

 私が先月観たものを思い出しながら言うと、

「へえ、そんなに映画観るんや。すごいな。俺一年間でもそんなに観んよ」

 中江はそう言いながら興奮した様子で、

「映画と言えば、佐曽利教授の専売特許や思てたけど。そんだけ観れるんは、ほんま才能やで。俺は資料映像観るんどうにも苦手で。いや、ほんますごいわ」

 と私のことを褒めた。お世辞という様子はなかったので、私も嬉しく感じた。

「でも教授の授業、今年度は開講していなくて」

 と私が告げると、

「今、アメリカおるんやっけ?」

 と三住はクッキーを取り出しながら、中江に尋ねた。

「せやね、来年には帰って来はると思うけど」

 顎に手を当てて中江は記憶を辿りながら、そう言った。

「今年、学校出ちゃうなら受講出来へんもんな。教授が知ったらきっと喜んだやろな。院生も年々減ってるし」

 心底残念そうに三住は言った。そんなことを言われても私は今年で学校を出るし、仕方ないじゃないかと思いつつ珈琲を飲み干した。

珈琲を貰ったことにお礼を言って立ち上がろうとしたところで、三住を見やるとキッチリとメイクがなされているのが分かった。

それを見て私とは全然違う人間だな、と改めて思った。

 

 

 

 家に帰ってから風呂を沸かし、服を脱いでから、自分の顔をまじまじと見つめてみた。メイクをしていない、ありのままの顔だ。メイクは面接練習の時にしかしていない。どうにも嫌いで慣れない。メイクをすることに対する動機づけも自分の中で上手くできない。

そもそもメイクはどうして行うのか、という問いに感情抜きで答えることができる人間はどれくらいいるのだろう。殆どいないのではないだろうか。尋ねたとして、

『社会のルールだからです』

と答える人は少ないのではないか。

想定される答えというのは、やはり感情込みの答えであるような気がする。

ただ『すっぴんで歩くと恥ずかしい』と答えられれば「中学生の頃まではすっぴんだったじゃないか」と私は心の中で言うだろう。『その方が可愛いから』と答えられれば「十分に可愛いよ」と言う。いや、これを言うと、怒られるんだっけ。一生懸命にメイクしてるんだもんな、確かに。

そう考えるとメイクってなんてセンシティブな話題なのだろう。だというのにメイクをしていないとマナーがなってないとか言われるし、人間難しすぎだろ。ちょっとの違いについても気が付かなければ『あの人鈍感』とか言われかねないし。

とはいえ『この髪、パープル入ってるの気が付かないんですか』とかどうでもいい。『R43G26B88をR43G28B88にしたのに、Gの増減に気が付かないんですか』と言われているのと同じ問題を突き付けられているような気がする。日の当たる加減や肌艶で見え方が変わることもあろうに、それも込みで相手をつぶさに眺めなくてはならないのだろうか?そしてこういう疑問をぶつけると、野生におけるアルビノの個体のように扱われるわけだ。

 このように考えるのはやはり自分の捉え方に問題があるのだろうか、と思いながら風呂場の鏡で自分の体を眺めてみる。凹凸の多少ある女の体だ。男になりたいわけではない。

 胸が少し大きくて煩しく、でかい胸を自分が持っていることに違和感がある。凹凸のない子供のような体型であれば肩こりとこの違和感から解放されるし、この胸を持っているという得も言われぬ嫌悪感から逃れられるのに。

シャンプーを手に取って泡立ててから、髪に塗布する。林檎の香りがするシャンプーも、蜂蜜入りのコンディショナーも、とても気に入っている。ただボトルのデザインが可愛すぎる、と思うぐらいだ。なんなら生理用ナプキン地に星、ハート、花がついているのも可愛すぎると思う。ついでに赤い経血がハートマークの部分に付着しているのをトイレで確認する時、やるせなくなるのでやめてほしい。でも周りの人間でそう言っている人はいない。そして大企業がそういう商品を出し続けているということは、この意見は少数派なのだろう。

 体を石鹸で洗ってから、茶色いバスタオルで体に付着した水滴を拭っていく。本当は白いバスタオルが好きだが、月のもので赤く汚れてしまうことがあるからやめた。女であることを恨めしく思うのはこういう積み重ねがあるからだろう。女をやめたいとまでは思わないが、自分の考え方が『女』のもの『男』のもののどちらにも当てはまる気がしない。自分の体が女であることに不愉快さを覚える日さえある。

生きるのって難しいな、と考えながら洗濯機に使ったばかりの洗剤を投入してスタートボタンを押す。洗濯槽の中で回っている服はどれもシンプルで性別問わず着られるようなデザインである、と私は思っている。

溺れていく服を眺めながら、私の服はそんなに男性的な服であろうか?と昼の会話を反芻して考える。

別に私は『男性的』な装いがしたいわけではない。『女性的』な装いに縛られることが嫌なのだ。男はこっちで、女はこっち、と振り分けられることに我慢が出来ないだけなのだ。『女性的』でないなら『男性的』なものがいいのか?と考えられるのも、腹立たしい。中性的なものでいいだけなのに。どうして人は二極分化したがるのだろう?どちらかと言えば、シンプルな服やノートが好きなだけなのに。

『女性』を理由にした押し付けが嫌いなだけ。それを言うとおかしなものを見る目をされるのは、不快だと思う。普通でないこと、普通に混じれないこと、は悪いことなのだろうか。

苛々としながら青色のパジャマに袖を通した。

 

 

 

『サンザシは食べることができる。ただ酸味がきつく、加工して食べるものである』

 という記事を見つけて私は食べてみたいと思った。ただ加工する暇はないよな、と考えて苦笑した。

 なぜなら就活が難航しているからだ。就活以外のことに割ける時間なんぞない。

秋になっても内定が一つもなかった。大学で身に着けた学問も就活セミナーでの練習も、何一つ実を結ばなかった。

某国の某社が倒産したことにより、景気が悪くなったのだ。世界的な大企業であったために、株価は大暴落、その影響がこの国にまで来てしまったのである。

 春から夏にかけて、嫌いなメイクを渋々つけて面接に臨んだ、『女性』らしく見えるように我慢してハイヒールとスカートだって着用した。でも最近はメイクをするのも馬鹿らしくなってきて、ほぼすっぴんで受けている。勿論、内定の面から考えると良くないとは分かっている。だが面接活動自体がすでに馬鹿らしくてたまらなかった。

『女性はすぐに辞めるからとりたくないんです』と何度言われただろう。

今日だって、

「『管理職は男じゃないと』とか言うようなお前!お前、お前が総務部長をしているような会社じゃけん、みんな辞めていくんじゃ。女とか関係ないわ、お前のせいじゃ」 

という言葉を呑み込んだ。

「『二十一歳の地道裕』の方が『五十代の管理職』のお前よりずっと大人な対応しとらい、だほ」

と思いながら、その面接会場を後にした。菓子の製造で有名な会社であった。もう二度とあんこ入りのタルトは買うまい。

 今日の面接官の仏頂面を思い返してむしゃくしゃしながら、家に帰る途中のコンビニでビールを三本買った。玄関に入り、ボロボロになった安物のハイヒールを脱ぎながら、ビールをコンビニの袋から取り出す。ボトリとレジ袋を床に落とし、スーツが皴になるのも構わずベッドの上で胡坐をかいた。そしてビールを開けて、喉奥に流し込んだ。

正直、やってられなかった。やけ酒なんかしてもどうにもならないことは、自分自身が一番知っていた。涙がぼろぼろと悲しくもないのに流れ落ちた。限界なんだろうなというのは、上手く回らない頭でも分かった。ぼたぼたと涙を垂れ流しながら、スマホの画面をふと見やるとメッセージが来ていた。今度のゼミについての連絡だった。業務連絡しか私の手元には届かない。

こういう気分の時に、話すことができる相手が欲しかったなと私はポツリと思った。何時になっても、一人だ。悩みを分かち合える相手がいない。これから先もきっとできないだろうけれど。この偏屈さじゃ無理だろう、と思いながらビールをまた呷った。

「やっぱ人間生活煩わしいんじゃ。映画の主人公みたいに爽やか健やか、スパイス程度の悩みだけで人生を走り切りたいわい」

と心の中でしみじみと言った。人と共有してスッキリすることができる人間はともかく、自分みたいなタイプは悩みを共有しないに限るな、と思った。相談して楽になる人はすればいいけど、そうじゃないタイプは自分と向き合いつつ他人のペースに飲まれないようにやっていけばいいと思う。

人にセンシティブな部分をあれこれ話して、不躾な質問を受けるのも、訂正するような言葉を受けるのも、ひどく疲れることがある。自分と合う人間を見つけるのなんて、運でしかないであろう。

一番精神に良いのは、悩みなどを考えすぎずに「マジでうさたん可愛い、吸いたい~」などと思いながら動画観て寝ることだろう。私はビールを床に乱雑においてから、ベッドに倒れこんだ。

「よし、寝よ」

 閉じた瞼から涙が溢れ、目尻を伝い、耳の中へ入った。それは冷たくて不快だった。

 

 

 

「あれ、地道さん? スーツ着てるから全然分からなかった。元気?」

 と声をかけてきたのは、山のようなパンフレットを抱えた中江だった。足を捻った中江に肩を貸した時以来であった。

「中江サン、こんにちは」

 と私は頭を下げる。お辞儀の角度が就活セミナーで教えられたとおりの、四十五度になっていて内心苦笑してしまった。今から就職支援課に行くから、そういう風に体も切り替わってしまっているのだろうか。

「久しぶり、元気にしてた?」

という問いに、

「はい、元気です」と答えた。あまり話したことのない相手に対して「元気ではありません」と言うわけにもいくまい。こういうのは定型文で解答することを求められているのだ。

「地道さん、図書館のところで映画上映してたの行った?」

 以前は行っていたが、最近は図書館の地下での上映会をチェックすることすらしていなかった。

「いいえ、行っていなくて」

 と言ってからハタと気づく。そういえば、もう暫く映画を観ていない。いつから観なくなったのだろう?

「そうなんや。来週も同じ時間にしてるみたいやし、その時に行ったらええかもね」

 それを聞いて、

「いえ、そういうことをしてる暇は」

 と咄嗟に言ってしまった。今は就活が忙しくて映画は観ていられないんです、と言おうとしたが舌が縺れてしまって上手く言えなかった。映画も我慢して頑張って就活してるのに、なんでこんなに上手くいかないんだろう。嫌いなメイクも勉強して、普通の人みたいな解答が出来るように訓練して。どれだけひどい言葉を浴びせられても、我慢して笑っているのに。どうしてこんなに何も上手くいかないんだろう。

中江は不思議そうな顔で言う。

「どうして?あんなに生き生きとしてたのに。自分、映画好きなんやろ?」

「映画は大好きです」

 言ったその時、目から涙がぽろりと零れ落ちた。

「え、俺なんか気に障るようなこと言うた?ごめん、ほんまごめん」

 と言って慌てる中江に私は

「ちが、違うんです。全然。中江サンは関係なくて、ごめんなさい」

と嗚咽交じりに呟いた。堰を切って溢れだした感情が、涙という形をとって、止まらなかった。中江は慌てながら、

「こんなんしか持ってないけど、目は擦ったら腫れてまうから。はい、これ」

 と言って私に渡した。それは自動車教習所の広告の入ったポケットティッシュだった。少し草臥れたティッシュを申し訳なさそうに渡す、ツルの歪んだ眼鏡越しの目を見て私は泣きながら笑ってしまった。

「なんで笑ってるんか、分からんけど良かったわ」

 私は目元をティッシュで拭う、ティッシュにはうっすらとアイシャドウが滲んでいた。ああ、こんな顔で面接練習には行けないなと落ちたメイクを見ながら思った。

「突然、すみません、でした」

 急に泣き出してしまって、きっと驚いてしまっただろう。

「ええよええよ、そんなん。寧ろ会えてよかったわ」

 私はリクルートスーツを秋も終盤であるこの時期に着ているわけだし、薄々事情は察されているのかもしれなかった。

「パンフレットの量、多いですけど大丈夫ですか? この前みたいに転ばれたり、しません?」

 鼻を啜りながら私は尋ねた。

「それはないよ、今回めちゃめちゃ軽いし」

 と言いながら、両手に抱えたパンフレットを中江は抱えなおした。

「ところで、それは何のパンフレットなんですか?」

「ああ、さっきまで院の入試説明会しててね。そこで登壇してたんだよ、博士課程希望してるの俺だけだから博士課程に進む人のサンプルとして」

 中江はパンフレットの束を片手で支え、左手で一枚抜き取ると私に差し出した。

「これ、一枚渡しとくわ。また説明会するから来てみたら?」

 私は中江の渡したパンフレットを受け取りながら、

「私、賢くもないし、お金もそんなに持っているわけではないので大学院は」

 と言った。それに対して、

「そのあたりについてもパンフレットに書いてる。何か分からんことあったらさ、この前の部屋に来てくれたら教えるし。まあ、お節介かもしれんけどさ。でも地道さんの将来の選択肢は一つだけじゃないってこと」

 と言った中江の後ろにあるのはサンザシの木であると今更ながら気が付いた。そしてサンザシの赤い実がたわわになっていた。

 

 

 

 私はそれから説明会に行って、院に行くことにした。

トクさんの話を聞いて、自分であれこれ考えていたら、自分で線を引いていたということに気づかされた。

自分には思っている以上に可能性があるし、この世界にいる人間全てが私に銃弾を撃ってくるわけではない。そんな当たり前のことが、突き刺さった弾丸のせいで分からなくなっていた。

そして入学した後も、大学院の個性的な人たちがそれを行動やスタンスで教えてくれた。

メイクをバチバチにしている三住、『しまクロ』という安さが売りの服屋にすら「俺みたいなダサい服の人間は気後れしていけない」と言う中江、「俺は足が小さいから女ものの靴結構買う。だってデザインが良いやつが断然多いし」と言う全身コーデ十万円越えの井之頭、全身コーデがピンク色の八王子。

彼らは決して私と同じ考えを持っているわけではない、だから完全に理解することはできない。でも歩み寄ることはできる。それを思い知らされたのは、人見知りの八王子がむっつりとした顔の私に話しかけた時だ。

その時の私は一人でサンザシのドライフルーツを齧っていた。休憩室に入ってきた八王子は

「学内の珈琲農園で取れた珈琲豆があるから、それと一緒にお茶する?」

 と言って珈琲豆を差し出してくれた。面白そうだったから買ったものらしい。一人で飲むのは怖かったから誰かと一緒に飲みたかったと言った。

一体どういうことだ、と思う私をよそに八王子は珈琲を淹れてくれた。私に話しかけるという緊張で落ち着きがないのに、あまりにも屈託なく笑うから、私も毒気が抜かれてしまったのをよく覚えている。

一緒に八王子と一緒に飲んだ珈琲は雑味が凄かった。こんなに不味い珈琲は初めてで、一周回って笑えてしまった。二人でげらげら笑っていると、笑い声を聞きつけた他の院生が部屋を覗き込んでいた。そこで、紙カップを人数分揃えて、泥のような味の珈琲を啜って、サンザシを齧って、大笑いした。珈琲に対する感想すら、全員違って、それを聞くだけで面白かった。分かり合うことはできないと決めつけ、レッテルを貼って、自分を一人にしていたのは自分自身だとその時に心底思った。

確かに到底分かり合えない人間はいる。逆に話せば存外分かり合える人間もいるのだと思った。それを『勉強』という共通点しかもたない相手同士で感じることになったのは、気が抜けてしまうような面白みがあった。

各人、自分の好きな研究にしか、興味がないからかもしれなかった。

「人のこと、とやかく言うて何になるん?俺、そんなことするんやったらゲームしてたいわ」

 と誰かが言っていたセリフがこの緩さの理由だろう。

良くも悪くも考えすぎないこと、他者は他者であるのだから程よい距離を保つこと、これが円満の秘訣なのだと私はその時に思った。そしてそれがなされている空間は居心地が良かった。悩みを共有しなくても、居場所は出来るのだと知った。

 

 

 

「なあ、ここ座っていい?」

 と三住が言いながら、私の隣の席に座った。院生室に私と三住だけというのは珍しい。

「お疲れ様です」

 三住の髪は真っ青に染まっていてとても長い、音楽をしている人のような風采だ。そしてメイクをバッチリしている。三住は私の視線に気づいたらしく、ふっと顔をあげてから、

「あんたさ、すっぴんなんやね」

 と唐突に言った。

「はい、メイクは嫌いなので」

 私がそう答えるとふーん、と興味がなさそうに目を瞬かせながら、

「あたしもさ、いわゆる黒い髪だとか、男みたいな恰好とか嫌でこんな格好してるわけやけど。……そのスタンス、社会に出ても突き通すつもりなら、色々覚悟しといたほうがええで」

 三住は私の目をしっかりと見据えて言った。私はその気迫に思わず固まった。

「男であればいくら男物のスーツ着たくなくても、面接のときは着ないといけない。女であれば、メイクしないといけない。何故か分かる?それがルールだから。そのルールに乗りたくないから、あたしは自分の好きなことができて、好きな恰好が出来るここに来たわけ」

 三住は足を組んで、頬杖を突いた。外から西日が差し込んで、部屋をほんのり染めている。

「別に社会が正しいとか、そういうことを言ってるんじゃなくて。今まで社会というものはルールに沿って動いてきたわけ。それは今までの文化、歴史なんかが背景にある。勿論、誤っているものもあろうさ。でもそれに沿って社会は回っているわけ。それに立てつくんやろ?」

「いえ、立てつくとかそういうわけでは」

 私が思わず口をはさむと、

「言い方が悪かったわ、すまん。でもさ、会社で働きますって時に『スーツ着ません』『メイクしません』っていうのは個人の内心の自由としては、問題ないんやけど……協調性や会社という組織の運営面では難しくなるんだわ。お客さんだって、一人だけ違う格好してる人に対応とかされたら気になるやん。『こんなマナーもなってない人に、接客された』とかなったらトラブルのもとやし。きつい言い方をすれば、そういう個人プレイに走るやつは集団の運営に支障が出る。自分のため、自分を優先したいんだったら、自分で手に職つけて起業でもすりゃいいんだって思う」

 三住は長い真っ青な髪を指で弄びながら、

「あたしそうするもん。今度の資格試験合格して、事務所開いてみせる。そんでこの格好で働くの。真っ赤な髪、真っ赤なピンヒール、真っ赤な口紅で接客してやる。それであたしがトランス女性だってことで、とやかく言ってくるような奴は容赦せず会社から叩きだす」

 ひどく真剣な眼差しだった。

「つまり真っ向から『社会』立ち向かうんじゃなくて、そういう手もあるってこと。それを理解したうえで、周りの流れに逆らいたいんなら、『メイクをせずに面接に行くような手段』で逆らえばいい。間違っていることを間違っているって言う人間もこの世界には存外必要だから。でもね、周りの状況や考え方を理解せずに、突っ走って、周囲の環境を責めたところで状況は悪くなるだけ。自分の主張ばかりで、それを分かっていない奴が多すぎる」

 三住は私の顔をもう一度まっすぐ見た。その目は確かに私に問うていた。

『お前はどうするのか』

 と。

 

 

 

生きづらさは完全に消えたわけではないし、何でもかんでも話す相手が出来たわけでもない。相談して気持ちが楽になることもあるから、相談するかどうかは各自で決めればいいと私は考えるようになった。

私は一般就職や『性別』ということから少し距離を置くことで、自分の気持ちの安定が出来たから相談をしなかったけれど。信頼できる人がいる人はそこで話すのも、ストレスのはけ口にはなった。

「決して全ての問題が解決するわけではないけれど、自分のことを落ち着いて振り返ることが出来るようになったな」

 私は心の中でそう言いながら、閉まっていたスカートをタンスから取り出した。